初恋ラビリンスしょっぱめ
別視点。長めです。
――俺の前に、一人の女の子が背を向けて立っている。
何故か、学ランだ。
それでも女の子だと分かるのは、背中まで伸びる長い黒髪と、柔らかな体の曲線のおかげだ。そうでなくても、俺は分かっていたに違いない。
声を掛けたい。
でも、言葉が出ない。
代わりに手を伸ばすと、彼女は髪の毛を翻しようやく振り返った。
目が合うと、頬をピンク色に染めて照れたように瞼を伏せてしまった。可憐な仕草に思わず俺も息が止まる。
かわいい。
率直にそう思った。
声が聞きたい。
触れようとしたその瞬間――彼女の瞼が開き、俺の双眸を射抜いた。さっきまでの姿が嘘のように凛とした表情で俺を見つめ、一歩一歩と距離を詰めてくる。
唇が小さく息を吸う。
俺の肩に手を伸ばし、耳元へと、寄せた。
――塞ぎますよ?
「うっわああああ!?」
どたんがたんごごごん。
自分でもあり得ないと思うほどの衝撃音が耳に飛び込んできたのは、ちょうど全身が痛みで悲鳴をあげたときだった。
呆然としたまま、ぱちくりと見渡す。逆さまになった自分の部屋。
……寝ぼけていたらしい。
朝だ。
「どうかしてる……」
小さく呟きながら、上半身を起こした。地面に転がった小物を拾い上げて、ベッドの上に戻す、立ち上がる、ため息が出る。
なんだってあんな夢を。
彼女のあの微笑みを思い出してまた頬が熱くなった。
モヤモヤする胸をおさえつつ、リビングに向かうと、そこには家族が勢揃いしていた。
「おはよう、光」
「今日は珍しく遅いわね。学校は大丈夫なの?」
「浮かない顔してるけど、もしかして嫌な夢でもみたのか」
……一斉に喋るな。姉どもめ。
上から、あかり、ひなた、かがり。三人とも名前に似合うほどのまばゆい容姿をしている。会社員だろうが大学生だろうが高校生だろうが、常にきれいなのは血筋ゆえか当然のことだった。
「おはよう、ねーちゃんたち」
一応挨拶だけして、他の質問には適当に答えておく。
両親は揃って海外なので、この家の居住者は俺含めこの四人。朝は揃ってご飯を食べるのはこの家の決まり事だ。
「はい、光の」
「ありがとう、あかりねーちゃん」
焼けたパンに、ベーコンエッグ。感謝を込めて笑いかけると、ものすごい勢いで抱きしめられた。ってうおお、豊満な胸が当たって窒息死しそうだ。
「あー、あかり姉ずるいわ。私も!」
「わたしも……!」
引き続き、ひなたねーちゃんとかがりねーちゃんにもぎゅうぎゅう潰される。朝っぱらからこの元気さは一体どうなんだろう。いつもながらパワフルなこの姉たちにはついていけない。
「光ったらほんとかわいいなー!」
「ね、さすが私たちの弟だわ。絶対お嫁にはやらないわよ」
「ずっとこの家にいるんだぞ」
きゃあきゃあと俺を差し置いて楽しそうな姉たち。
言わずもがなだけど、この人たちは末っ子のためか俺のことを溺愛している。俺に向けられる言葉一つ一つみても、その愛の重さったらないとつくづく思う。
「愛」ってこんなものなのかな……。
途端、俺の心中は、モヤモヤ。
こんな風に胸焼けするんじゃなくて、もっと暖かくてふわっとしてて柔らかい、そんな気持ちになったことが、つい最近あったんだ。
「はあ……」
無意識についたため息にまた姉たちがぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。
様子がおかしい、まさか違うわよね、今まで断固阻止してきたアレが来たわけじゃないよね、と何やら大変そうだ。
モヤモヤ。
どうかしてる。
……どうにかしたい。
もう一度、会いたい。
学ランを着た不思議なあの女の子のことを思い出しては、またため息をついた。
「好きです」
何度聞いても慣れないその言葉に、俺はゴメンと謝った。外でちょっと喋ったことがあるだけの、その女の子は悲しそうにしゅんと肩を落としてこの場から去っていった。
これで、何度目だ。
好きでもない女の子。でも、だからといって傷つけるのは本意じゃない。好意を向けてくれるのはありがたいけど、それだけじゃないならいらないかも、とも思う。
中庭を通って校舎へと戻る。
教室に入ると、他校の女子から呼び出しをくらった俺を茶化してかクラスメイトがニヤニヤと見てきた。
「モテるよな、光!」
「そういうんじゃないよ、たぶん……」
よくよく考えると、俺がこうして好きだと言われるようになったのって、髪の毛を金色に染めてからかもしれない。高校生になっても代わり映えのしない自分がなんだか嫌で、ねーちゃんらに相談したらそうしろって言ってきた。名前にピッタリだって。
別に何か思惑があるような変な言い方だったけど、言われるがままに染めてみたら、こういう反応。
校則破ってまで他のたくさんいる男子とは違うわけだから、多分女子にはそれが物珍しいんだろうと思う。
「悪いよな、女の子、見た目で騙してるみたいで」
「見た目っつーより、そのギャップな」
「……どういう意味だよ」
「おまえ、見た目に似合わずピュアすぎ。印象が軽すぎるから、誠実にされると女子ってころっといっちゃうわけ」
言ってる意味が分からない。
誠実にされるとって、ただ普通に校門の外で他愛のないおしゃべりするだけだし。
そんなんで気持ちが変わるんだったら女子って大変だね。ころころ転がって面倒だったりしないのか……。
「ていうかさ、断ってるけど、誰かいいなとか思ったりしねーの? 試しに付き合ってみればいいじゃん」
「そんなほいほい付き合うもんじゃないだろ」
「ほら出た。普通そこは手当たり次第いっとくとこだろ、おれたち出会いすらないのにもったいねーの!」
こいつは金髪に染めてもモテないに違いない。そこだけはなんとなく分かった。
付き合うとか、そういうことは絶対に考えられなかった。
……少し、前までは。
今日、女子の告白を断ったのは、少しだけ違う理由がある。好きだと言われて真っ先に思い浮かべた顔が、あったから。
名前も知らない、女の子。
「ま、どうせおまえだったらきっと、どんな女子とでも付き合えるんだろうな」
……名前も、居場所も、知らないどころか。
その女の子には、他に好きな奴がいる。
好きだと自覚する前に、もうフラれていた。俺。
頬が熱くて、目頭まで熱くなってきて、俺は机に顔をうつぶせた。どうしようもないと分かっているのに、今日の夢から、朝から、ずっと消えない笑顔を見つめ続けていた。
放課後、意を決して、あるクラスへと足を向けた。
扉から教室の中を覗き、一周見回してからすぐそこの席にいた生徒に声を掛けてみる。
「ええと、ソウジってやつ、ここにいる?」
聞くと、そいつはカバンに教科書をしまう手を止めて教室をぐるりと見回した。
俺もこっそりドキドキする心臓を抱えて、その視線の先を見つめる。
会って、どうするつもりだ。彼女の好きな奴だからって俺が何かを言うのか。でも、彼女の居場所も分からない今、すぐ行動に移せるのは彼と話すことだけだった。
『そういうのも、好きっていうことなのかな?』
そう言った彼女の顔は、懐かしいものを思い出すような、優しく慈愛に満ちたものだった。そんな顔をさせる彼が、羨ましい。正直に思ったその瞬間、俺は切なくなった。
「いないね」
彼を待ちわびていると、話しかけた生徒はあっけらかんと言い放った。
いないって……彼、いないのか。
なんだ、そうか。残念なような、ホッとしたような。どっちにしろ最初になんて声を掛けるか準備していなかったし、また日を改めて……。
と、踵を返そうとしたところ、別の誰かが声を掛けてきた。
「田中に用か?」
やたらめったら男前のヤツ……確か、三ツ瀬。
話したことは無いけど、廊下を通るたびに一部の男子がひそひそと盛り上がっているのを聞いたことがある。
クールで硬派で、カッコイイって噂の。
俺は知らないヤツからすると軟派に思われるらしいから、少しだけ羨ましくもあったんだよな。
「あーえと、田中クンに、ちょっと聞きたいことがあって」
無難にそう答えると、三ツ瀬の背中にもう一人男子生徒が走ってきた。
「そーじなら、知らない人についてったぞ!」
あ、こいつは三ツ瀬といつも一緒にいる、柳井。柳井は真っ当なクラスの男子からも危ない視線を送られていた。
言われてみれば、女の子顔負けのきれいな顔をしている。
「ああ? そうだったのかよ」
「うん。ダメだ負けるな、とか呪文を唱えながらも嬉々として去っていったよ」
「男か?」
「うん」
「またあいつ……!」
俺を差し置いて二人で話し込んでいる。三ツ瀬、クールと聞く割に、今は不機嫌を隠そうともしていなかった。
どういう仲なんだ?
「んで、おまえは何しに来てんだよ。あの変態のエジキになりにきたのか?」
「変態? エジキ? だから、話を聞くだけで……」
「知らぬ間に着実に変態の輪を広げてるなアイツ。節操無えんだよ、ったく」
「何?」
どうやら、三ツ瀬、ソウジの何かが気にくわないらしい。冷たいっていうより、執着しすぎて熱くなってるって感じがする。
一体ソウジはどんなやつなんだ。
三ツ瀬を熱くさせるようなやつで、彼女が、好きな男。
「なあ、田中クンって、好きな女の子がいるとか、知らない?」
聞いてみると、二人はそろって口をつぐんだ。そしてお互い顔を見合わせると、ぷっと吹き出して、おかしそうに笑った。
「無い!」
「いたら、あんな風になってねーよな。ていうか、似合わない!」
予想とは大きく外れた答えが返ってきた。柳井は豪快に笑っているし、三ツ瀬でさえ口の端を上げて心底楽しそうだ。
似合わないって、どういうことだろう。
好きな人ができるとは思えないほど、何か別のことに熱中しているとか? 特定の誰か、ではなく、女子を好きになることがないなんて。
だったら、彼女の想いはどうなってしまうんだ。
話したこともないソウジのことを考えて、俺は腹が立ってしょうがなかった。
結局良いか悪いか分からない情報だけを得て、俺は帰宅することにした。去り際、三ツ瀬が「あいつにあまり近寄るなよ。変態だからな」と言われたのが理解不能だったけど、こっちとしても意気揚々と会いたいと思わない。
会ってもいきなりイラついて失礼なことを言ってしまいそうだ。
俺、怒鳴るのは苦手なのにな。
「こ、困ります!」
昇降口を出たところ、遠くから戸惑うような男の声が聞こえてきた。
何だ?
……しかし、視線を向けた先、見て良かったのか非常に迷うところである光景が広がっていて、思わず目が泳いだ。
男が、窓から顔を出した男に迫られてる。
男子校であれば、こういう光景も珍しくはないはずなんだけど、いくら珍しくないからってまじまじと見る勇気はない。
せめてもっと人気がないところとか選べなかったのか。うわ、顎に手かけてる……!
こっちが恥ずかしくなりながらも、何も無かったことにして通り過ぎようとしたら。
「田中くん」
……え?
窓から身を乗り出した男が呼んだ名前に、耳が反応する。田中って……や、でも、ありきたりな名前だし、まさかそんなわけ……。
無意識に止めてた足を、もう一歩踏み出す。
今度は、俺の後ろから何かが通り過ぎた。
「宗二」
低く呼ばわる、その名前。
……ソウジ。
立ち止まる俺の目の前で、そいつは遥かに背の高い男から首根っこを掴まれ持ち上げられた。
そいつこそ、俺の探し人。
「てめえ、一体どこで油売ってやがる」
恐る恐る見上げるその顔を、俺も見た。
……なんてことはない、どこにでもいそうな男、だ。
初めは驚愕に満ちた目をしていたが、その野蛮そうな男に強く威嚇されてソウジは借りてきたネコのように身をすくめた。情けなく「とおやさん」と呟く声が聞こえる。
目立った特徴も無く、強いて言えば、弱そうだ。
「この間はよくも姿をくらませてくれたな」
「あの、ええと、それにはワケが……って、ぎゃああ」
「てめえのめんどくせえ話なんざ興味ねえんだよ」
俵のように肩に担がれ、強制的に連れ去られていくのを、呆然と見つめる。ふと窓から身を乗り出していた男を見ると、顎に手を掛けて何やら興味深そうだった。
驚愕の事実を、知ってしまった気分だ。
好きな女の子の、好きな人は、男から好かれていて、男に拉致された。
いや、うう、待って、言葉にしてみても全く納得できない……!
そのとき、遠ざかるソウジと一瞬目が合った気がした。気が付いたように笑顔を向けられたのも、気のせいだっただろうか。
不思議と……いや、確実に、変な感じだ。
「あの子は、知ってるのかな。……知っていても、知らなくても、俺、何かできるのかな」
どうしようもなく、胸が鳴る。
良くも悪くも、胸が鳴る。
これからのことを考えると、いろんな意味で俺って生きていられるのか、本当に心配になった。
弟を溺愛しすぎて間違った一つの例。
「ねーちゃん、高校生になっても何も変わらないんだね」
「そうよ、男子校だもんね(彼女でもできようものなら……!)」
「あ、ほら、髪の毛染めてみない? 金色なんて目立つわよ(不良みたいでね!)」
「うん、いいと思う(近寄りがたい男を演出するんだ)」
逆効果だったらしい。