何故か襲来する男の中の男
まさかこんな展開が待っていようとは、誰が想像できただろうか。眼下に広がる小高い丘を二つ見下ろしながら、あたしは荒い息をもらした。
「お、おおお」
声を震わせながら、恐る恐る手を伸ばしてみる。黒い学ランに押しつけられて窮屈そうなそれだが、触ってみるとむにゅりとあり得ない柔らかさ。
「お、おかえり、マイ乳……!」
しばし揉んだ後で、こりゃねーよと我に返る。懐かしさのあまり、つい堪能してしまったが、ハタから見てかなり恥ずかしい絵である。
そう、柔らかいこの素材は、女特有の脂肪だ。今まで足りなかった何かが埋まったかのような、しっくり感がする。
あたしは、「あたし」に戻っているのだ。
鏡が無いのがもどかしいけれど、背中まで伸びた髪の毛や、丸みを帯びた自分の体を見るに間違いない。
あたし、ようやく女に……!
「女になれたのね!」
とにかく誰かに伝えたくて、立ち上がった。口から飛び出した言葉はかなりの誤解を招きかねなかったが、気にする余裕などない。
両手を広げて駆け出そうとするあたしを、しかし遮るものがあった。
「うわあっ、ビックリした!」
いつからいたのか、そこには驚きの表情でこちらを見ている金髪の男子。
お互い立ちつくして見つめ合ったまま数秒が経った。ようやくことの状況を掴めたあたしがすぐに身を翻すも、相手も同じタイミングで我に返ったらしく、逃がさないとばかりに手首を取られた。
「きみ、女の子、だよね?」
イ、エース! ちょっと前まで男してましたけど、たった今晴れて女に戻れたんですう!
……って、言っていいのこれ?
心境的にはそのまんまだけれど、そんな夢みたいな話は誰も信じてくれないに違いない。かといって、女となった今、男子校にいるのだっておかしなことだ。
「ね?」
何も言わないあたしの顔をのぞきこもうと、その人が近づくのが分かった。金色に輝く前髪が音もなくサラリと落ちる。その隙間からのぞく純粋無垢な目と目があって、ハッとする。
ぶわあ、うおお、イケてるメンズ。
反則だ、ここでこんなときにこれを持ってくるなんて、反則だ!
「……」
純粋な乙女心もカムバックなのか、素で照れてしまった。目線を外したところ、前髪をそっとかきわけられた。うわごとのように呟かれる。
「やべ、かわいい」
信じられない! ……という顔をしているに違いない、今のあたし。顔のこと以前に性格ゆえにか雰囲気ゆえにか、あたしにはかわいいというよりも変態という言葉が似合ってしまう。
もしかして、「あたし」に戻ったんじゃなく今度は「清楚な乙女」の体を乗っ取っていたりしないでしょうね?
「あ、ごめん……そういうこと、言うつもりじゃなかった」
あたしが嫌がったと思ったのか、素直に謝られる。彼の思わぬ行動に、ぱちくりと見つめてしまった。
じんわりピンクに染まりだす頬。その人は手の甲で口元を隠すと、顔を背けてしまった。……なんて乙女な反応だ。
「えと、そ、そんな格好して、何しに来たの?」
あからさまに話題を変えるのがおかしかったけど、あたしは表情を変えなかった。というか、何も答えなかった。
それが自分でもよく分からないという意味を込めて首を傾げてはじめて、その人はあたしにちらりと視線を戻した。
「彼氏?」
「え、いるのかってことですか? なら、いないけど……って、あれ、違った?」
「あ、や、会いに来たのかなって思って……いないなら、いいや」
なるほど。
……女子が男子の格好までして男子校に行くのって、そういう可能性もあるんだ。じゃなきゃ、隠し撮り目的の侵入としか……って、あたししてないよ、してないからね!
彼氏は、まあないな。付き合いたいっていうより、戯れたいってほうが合ってるかも、こうね、ウフフアハハね。
「……あ、そうだ。田中宗二って知ってますか?」
そういえば、兄ちゃんはどうなったの!
花畑に行ってる場合じゃない。状況を思い出して咄嗟に聞くと、その人は名前を呟きながら首を傾げた。聞いたことあるけど、とは言うけれど、詳しく知っているわけじゃないらしい。
「そうですか」
聞き出すのは早々に諦めて頷く。
あたしがあたしに戻ったことで、兄ちゃんの存在も戻ったのか確かめたかったけど、どうやらここじゃ無理そうだ。せめて兄ちゃんを知っている人に聞こう。
……もし、本当に。
本当に、兄ちゃんが戻ったとしたら、今度こそ「死人」になってしまうのだろうか。
頷いたまま落としていた視線をそっと上げる。
「あの、ありがとうございま……」
「大事な人なの?」
「はい?」
「だって、寂しそうな顔するから。会いに来たんでしょ? 彼氏じゃなくて、片思いとか?」
「……まさか」
兄ちゃんのことは嫌いじゃないけどね。内面ファンシーで、外面は真面目優等生。何でもないって顔していつも要領よくものごとをこなしていたっけ。きっと他にも、ナカムラとの因縁みたいに、あたしの知らない顔もたくさんあるんだろう。
すぐ近くにいるのが、当たり前だったのに。
「そういうのも、好きっていうのかな?」
「好き、か」
うーん、家族愛ってやつだね。
思い出せば、たったの数十日なのにやけに懐かしい。双子っていうほどシンパシーがあったわけでも、いろいろなところが似ていたわけでもない。ただ、友達みたいなサラッとした仲の良さだった。
うん、そういうのだ。そう思ってその人を再度見ると、眉尻を下げて頼りなく笑った。
「あれ、どうかしました? お腹、いたい?」
「……あのさ、」
「はい?」
トイレでも保健室でもどこまでもお供しますという気持ちを込めて、真剣に頷くと、さっきのがウソみたいにその人は優しく微笑んだ。
「さっき、ソウジって叫びながら走っていく人なら見かけたよ」
「……あ、ナカムラ! どっちに行きました?」
「あっち」
指さす方を見ると、最初にいた教室とは別、違う棟の廊下の窓が盛大に割れていた。ナカムラ……あんたの入り口は全部窓なのか。
追いかけてみようかな。今はあたし、宗二じゃないし、それに宗二がどうなったのかも分かるかもしれない。
あたしは体を向けた。
「あ、待って、一人で行くの? 危険だってば! きみみたいな女の子が、男だらけの中に入っていくなんて」
「危険?」
「ほら、男子校って結構、飢えているヤツ多いし、な?」
「ほー」
そういうアレね、襲われる的ニュアンスね。その人も立場的に言いづらいのか、小声で口ごもる。そんなあなたになら襲われても本望だわ、とか言ってもいいかな、言わないけどね!
本当に、優しいひとだ。
一見してチャラそうな金髪タレ目泣きぼくろなんだけれど、かもしだす雰囲気のせいかすごく純朴。かっこいい顔立ちなのに、かわいいって言葉が似合いそうな、そんな。
あたしはくすっと笑い混じりに口にする。
「大丈夫だよ」
「ほ……ほら、そういうの、分かってない! 俺も付いていく」
「ちょっと前まで自分、あっち側だったんです」
「え?」
「だから男の気持ちって分かるし、男の扱いも得意だと思います」
そのほらさ、いろんな意味でね。
「でも……」
「四の五の言ってると」
引き下がらないその人の目元を強く片手で覆う。突然のことに驚いてか、言葉を失うのは読み通り。
背伸びして、その耳元に唇を寄せる。
「塞ぎますよ」
「なっ……!?」
そして、手を離して元の位置に戻る。顔を真っ赤に染めて固まるその人を見ながら、あたしはニッコリと笑った。
そうそう、カッコイイ男ってのはこういうもんよね! 健気に心配してくれる乙女を冷たく突き放すようでいて、甘く落とし込む……これぞ、秘技・男の中の男。
ってこれじゃあ、男の扱いというより男の振るまいじゃあ……。
「……な、何で俺が照れてんの!」
その人は耐えきれないとばかりに両手で顔を覆った。
……うん、ポジション間違えちゃった。あたし、女に戻ったってのに、いつまでたっても男が抜けない。
なんだか大変なことになってしまった。
ふかあいため息をつきつつ、一人悶えているその人を置き去りにしてあたしは校舎へと走ったのだった。