小太郎青春事件簿
―― 一ヶ月ぶりにオレの前に姿を現した先輩は、どうしてかいつもと違って見えた。
その綺麗な顔も、優しくて明るい性格も、何も変わらないはずなのに、どこか、違う。時折ふと見せる先輩の無表情がそう思わせるのかもしれなかった。思い詰めたような、どこか諦めたような……そんな先輩、いつかどこかに行ってしまいそう。
いつも、笑っていて欲しい。
いつも、側にいたい。
間違っているのは、オレの心なのかもしれなかった。
今日もいつも通り、先輩を迎えに行ってから学校まで来た。一緒にいる間はそれが嬉しくてそれどころじゃないんだけど、たまにこうして、一人になった後でじわじわと不安に襲われるときがある。
あーやだなあ。前みたいに同じ学校だったらもう少し一緒にいられたのに。
そう思って、昨日誘った映画も結局オレがドタキャンしちゃった。
「もいっかい先輩に会いたいなー」
もらしつつ、辿り着いた教室、自分の椅子に乱暴に座る。クラスメイトたちが何だ何だと騒がしく群れるのを適当にあしらって机に突っ伏した。
「恋煩いじゃねーの? 小太郎にもとうとう春が来たか?」
「お、やっと幼馴染みのお兄さんから卒業したか。おまえだって普通にしてればモテるんだからさ」
「昨日その彼女と映画に行ったんだろ? もしかしてフラれたか」
「どうなんだ、小太郎」
……映画行ってない。
ってか、彼女でも、フラれても、女の子でもないし。
心の中で反論してたけど、クラスメイトたちには伝わらない。むしろ言葉にできないほど落ち込んでいると思われたのか、しばらくしていそいそと散っていった。
幼馴染みのお兄さんから卒業……か。宗二先輩も、彼女作れって言うし、どうしてそういうこと言うんだろ。
一緒にいちゃ、ダメなのかな。
ちらりと目だけを上げて、目の前の席のヤツを見る。そいつにしては珍しく、携帯なんて眺めている。
「……拓磨」
そいつは三秒ほどして振り返ると、おはようと挨拶を寄越してきた。一応オレも返す。
「おまえが携帯使ってんの初めて見た。持ってたんだ」
「兄貴にメール送ってみたんだけど、心配された」
「なんて送ったんだよ」
「おもしろいことがあったって」
それで心配されるとかどういうことだよ。脳内回路自分の好きなようにできてそうなやつだから、きっと伝わりづらい変な文面で送ったりしたんだろ。
こいつは、クラスメイトの三ツ瀬拓磨。
顔が整っていて勉強もできて、と女子からは人気だけど、いかんせんこの無表情。何考えてるんだか分からなくて近寄りがたい印象もある。だからか一見して仲の良い女子はいないけど、影で慕われてたりやたら突撃告白が多かったり、果てはストーカーされてたりと結構苦労してそう。
それでも本人は勉強してれば後は別にどうでもいいって感じだから、そうは見えないんだけど。
「ていうか、拓磨、兄ちゃんとかいたんだ」
「一個上の」
「ふーん……なあ、おもしろいことって?」
「……」
こっちの質問には答えないのか。
黙って前に向き直ってしまったので、オレはそれを追うように自分の席から離れ拓磨の机に手を置いた。
「宗二先輩のこと?」
「……」
「本当に昨日、何も無かったんだよな?」
「七海が僕を問いつめる意味が理解できない」
しらばっくれるように言って、拓磨は机に広げたノートに向き合った。それ以上オレと話すことはもうないといいたげにあしらわれて、ムッとする。
たぶん、おそらく、先輩が言うように、拓磨は先輩に何もしてない。
もう分かっている、けれど。
昨日、中村部長から解放されて帰る途中、オレが二人を見かけたのは偶然だった。先輩の手首を掴んだ拓磨が、覆い被さるように先輩に迫って……。
心臓が止まるかと思った。
どう見ても、キスしようとしているようにしか、見えなかった。
「好きになったの?」
無意識に聞いてから、しまった、と思った。今までノートしかとらえてなかった拓磨の目が、オレを見たから。
その唇が、小さく音を立てるために開く。
「キスは、僕の好きな人とするんだって、昨日の人が言っていた」
「……拓磨?」
「じゃあ、相手が僕のことを好きじゃなくてもするもの? 僕のことを好きだという人はみんな、本当は僕のこと好きじゃない?」
「た、拓磨」
「昨日のキスは、どういう意味でしたら良かったんだろう」
「ちょっと待って、拓磨! 昨日、おまえ先輩にキスしようとしたことは、事実か?」
「おれい……でも、しなかった。でも、しなくて良かったのか?」
「……たくま」
拓磨がこうして饒舌なのも珍しいけど、眉根をひそめているのも珍しい。基本なんでもすぐに解決するし、分からないことがあってもこんな風に思い詰めた表情をしたりなんかしない。
ほんの少ししかまだ同じクラスになっていないけど、今まで見たことがない顔。
「そもそも、唇を合わせることになんの意味が?」
キスの意味をそんなにじっくり考えるやつも珍しいけど……。
だいたいそんな風に目の前で悩まれると、こっちが反応に困る。こいつ、こんな顔しといて恋愛下手……いや、恋愛のれの字も知らないんだろ。
オレだって得意な方とは思えないけどさ。でもいきなり、意味もなく先輩に迫ってただなんて、こいつ、本当に変だとしか――
「うわっ!?」
考えこんでいると、いきなり首襟ひっぱられた。立っていたから急に腰が折れ曲がって痛い、がそんなことを考えている暇は無かった。
もっと痛かったのは、唇の方だった。
「……むにむにしてて気持ち悪い」
オレから離れた拓磨が、嫌そうに吐き捨てた。それでもって、服の袖で唇を拭う。その一連の動作を呆然と見つめてしまったオレ。
……は周囲のどよめきの声でようやく我を取り戻した。
「おえええ! オレの台詞だよ、おま、おまえ、一体何してくれてんだ!」
「なにって、キ」
「言うな!」
そんなもん自分の唇で体験してんだから嫌でも分かる! そうじゃなくて、そうじゃなくて、どうしていきなりオレが奪われたんだという話だろ!
オレも負けじと自分の唇を服の袖で拭うも、一瞬のあの悪夢の感触は簡単には消えなかった。
ああ、オレが大事にとっておいたファーストが……。
「やっぱり、分からない」
「もしかして、キスの意味を知るためにオレを……!」
「ああ、了承を取れば良かった?」
「取っても嫌だ!」
最悪だ。こんな最悪なことって、他にない。こんなのだったら、本当にファーストキスは先輩とが良かった。
先輩の、柔らかそうな唇が、良かった。
「小太郎……おまえ、そっちの春が訪れてたのか……」
「まさか、三ツ瀬とだったとは……」
「どっちにしろおまえって変な方向に行くんだな」
ううう、と崩れ落ちているとクラスメイトが異質なものを見るような目でオレを見てきた。違うんだと弁解しても、届くことはなく……。
おまえのせいだろ!と拓磨を見るも、今やあいつは目の前のノートにつきっきりで、しでかした最低なミスのことなんか微塵も気にしちゃいなかった。
「幼馴染みの兄さんに報告してやれば? 恋人ができましたってな」
「違うってば! 違います、違うんです、宗二先輩ー!」
授業が始まって先生に怒られるまで、オレはずっと窓の外に向かって叫び続けていたのであった。