白熊騎士と落ちぶれた婿〜断罪された公爵令息は辺境の白熊女に婿入りする〜
「ルドヴィーク・ドナート!今まで犯した聖女への数々の振る舞い、見過ごすわけにはいかん!貴様には相応の罰を受けさせる!」
「目をかけてやったというのに聖女を逃すばかりかこのような失態を犯しおって!お前など息子ではないわ!」
この国の聖女を畏れ多くも籠絡しようとした数多の罪。そして、社交界にて醜態を晒した無能と看做された故の廃嫡。
この俺、ルドヴィーク・ドナート公爵令息は、煌びやかな王都から遠く遠く離れたド田舎もド田舎へと貧相な馬車一つで送られた。
要するに貞のいい厄介払い、つまりは流罪である。
目の前に立ちはだかるのは真っ白な熊、...いや違う。女だ。純白の毛皮のマントを見に纏った、これまた純白の豊かな髪を持つ、筋骨隆々の山のような女。
「よく来てくれたな、婿殿!」
尖った犬歯をきらめかせて豪快に笑った女は、俺をそう呼ぶ。そう、何を隠そうこの女こそが全てを失った俺の身請け先。認めたくないが伴侶になってしまった国境の“白熊”———
———エレノア・ヴォルコフ国境騎士長殿なのである。
白い肌に白い髪、世間では長身である俺よりも、頭ひとつ上からこちらを見下ろす灰色の目。
巨人の血が混ざると噂されるかの騎士長殿は、この枯れ切った土地に立つ砦の主人だ。
その噂たるや遠く離れた王都にすら“片手で魔物を捻り潰した”だとか、“魔物の血肉を食す鬼女”だとか、並のご令嬢なら震え上がるほど恐ろしい内容ばかりが囁かれている。
そんな女騎士にまともな縁談が纏まる訳もなく、まれに婿探しに現れる夜会では、いつも遠巻きにされてきたと聞く。
そういう訳で、お家の駒として用済みになったこの俺の末路としては悲しいかな、あまりにぴったりすぎる婿入り先なのであった。
だがそもそも俺は、公爵家においてたまたま家督を約束されていたものの、実際は引き取られた妾の子である。
本妻の子がそれはもう苛烈なほどにワガママで恐ろしい姉上で、かつ俺が笑顔を絶やさず何でも「はいはい」と言う事を聞く優秀な男児でなければ、俺の居場所など本来無かったはずなのだ。
薄紫色のさらりとした髪、アメジストの瞳、通った鼻に薄い唇、ちょっと色っぽい泣きぼくろ。
人に言われるまでもなく容姿端麗なこの俺は、己のポテンシャルを余す事なく生かし、父親に取り入り、姉上を転がし、学園では廊下を歩く度に女生徒を沸かし。そりゃあもう絵に描いたような順風満帆な生活を輝かしく送っていた。
だがそんなある日。王国に聖女が舞い降りた。
まあ、舞い降りたと言うか強制的に召喚されたのだが。
この国では、神界と呼ばれる別の世界から神の力を宿した聖女を呼び出し、国の護りをお任せする伝統がある。
先代の聖女が寿命を迎えた事で呼び出された、新たな聖女。
彼女はまだ17歳の麗しい黒髪黒目の少女であり、これまた伝統的な決まりで王族貴族の通う学園へとめでたく入学される事となった。
そして、そこに目を付けたのが我が公爵家。
聖女の心を得れば、莫大な地位と血が約束されたも同然。
そう。聖女様はこの国の王族またはその血に連なる公爵家が相手であれば、自由恋愛と婚姻が認められているのだ。
つまりは、聖女様に対する嫁取り争奪戦の火蓋が切って落とされ、もれなく俺も愛人の子である事実を伏せて参戦させられたわけである。
それでまあ、冒頭でお察しの通り、失敗した。
聖女様ったらそりゃもう調子のいいお方で、息巻く公爵令息達をのらりくらりと躱し、俺の甘い台詞に頬を染めた彼女に“これはいける”と口付けなんか迫ったところで、本命の王太子殿下に「いやあっ、助けて!ルドヴィーク様が無理やり〜!」と俺を押し退けて泣きついて、いたいけなお姿に殿下はコロッと「僕が君を守る!」なんて言い出して...気がつけば、都合のいい咬ませ犬として俺は退場。
無垢な聖女様を策略に嵌めようとしてしっかり純愛のダシにされた俺は、王太子の愛する聖女様を無理やり籠絡しようとした数々の罪なんか着せられちゃって、鮮やかに断罪劇まで衆目に晒され、あえなくお役御免の大転落というわけである。
けどまあ、いいのだ。
そもそも聖女様なんて小娘は愛していなかったし、公爵家での生活も俺にとっては気を遣うばかりで息苦しかった。
たまたま上手くいって聖女様を娶ったところで人生が楽しくなるなんてとてもじゃないが思えなかったし、「あーあ、役割を全うする哀しき駒の今世だねえ」なんてスカして受け止める生き方がすっかり身についていただけなのだ。
そんなわけで、このド田舎と目の前の大熊女さえなんとか飲み込んで上手いこと転がしてしまえば、そこそこ楽な生活が出来ちゃってそれはそれでいいかもね。
なんて思いながら、爽やかな笑みを取り繕った。
「これはエレノア様。噂に違わぬ可憐なお姿、不肖の私ではありますが、貴女様にお身請けいただき誠に幸せ者でございます」
すると目の前の灰色の目はにっと三日月のように細められ、こちらの手をガッと握った。
でっけえ。なんだこの手。俺の手が埋まって見えなくなっちゃったんだけど。
「面白い事を言う男だな!はるばるご苦労だった!」
そしてブン!ブン!と大きく腕を振られる。
おおっ!?まって肩が、肩がもげちゃうもうやめて!と笑顔の内で本気の恐怖を感じたところでぱっと離され、俺は胴体と腕が繋がっていることを心底感謝する。
あ、あぶねえ、油断したらぶっ壊される。
はっ、はっ、と震える息をなんとか収め、引き攣った笑みを悟られないように「恐縮です」と微笑んだ。
「では屋敷に案内しよう!この吹きっ晒しは肌に堪えるだろうからな!」
などとバシンバシンと肩を叩かれ、逆の肩まで壊す気か!?と叫びそうになるのをぐっと堪える。
後ろを向いた大きな背中はなんつーかもう、壁だよね。壁が俺の前を歩いてる。へえ、この壁が俺の妻かあ。デカすぎてよくわかんねーなこれ。
通された屋敷は、屋敷っていうかもう、ほぼ軍事要塞だった。堅牢な石造りに、ごうごうと焚べられた篝火、壁に貼り付けられたいくつもの盾や剣、あちこちに甲冑を着込んだ騎士達が行き交う。
「飾り気がなくてすまんな!まあなに、自由に歩いてくれ!と言いたいところだが、怪我をされては困るからな!婿殿は寝室と食堂、書庫、庭あたりが生活圏となるだろう!」
はっはっは、と笑うエレノア様の口調は至って豪快。この女、声を小さくするって事を知らないのかな。ずっと語尾にエクスクラメーションマークが付いてんじゃねーか。
そんな事をおくびにも出さず、「わかりました」なんてにこにこと廊下をついて行く。
「さあ、着いたぞ!ここが君の寝室だ!暖炉を置ける部屋が限られているから私と同室になってしまったが、なるべく寛いでくれ!」
通された寝室は想像の3倍は広かった。
ていうか家具がでかい。俺、もしかして今縮んだ?
けれどソファにどっかと座ったエレノア様とは縮尺が合っている。なるほどね。
「掛けてくれ!」と言われ俺も微笑んで腰掛けると、ふんわり毛足の長い掛け物に包まれた。
おっ...、これ、なんかいいな...。でかい犬に寄りかかってるみたいで落ち着くわ...。
「では改めてご挨拶しよう!私はこの国境を任されたエレノア・ヴォルコフ!魔の国から魔物が国内に入らぬよう、国境防衛の日々を送っている!婿殿は経緯が経緯とはいえ、私のところに婿入りしてくれて大変ありがたい!」
そうして目の前に手を差し出され、また振り回されるのではと恐れつつ俺はその手を握る。頼むねエレノア様、やめてねまじで。俺、いま頼んだからね。
ぐっ!!!と力を込められ、ヒュッと喉が鳴った。
さようなら、俺の右手。人生で一番愛してたよ————
と目を瞑り掛け、するりとその手が離される。
...はあっ!!ある!!おかえり俺の右手ーーーー....!!!
「いや、すまないな!私はどうにも力が強いようでな!こんなだから伴侶など諦めていたが、まさかこれほどの美男が来てくれたとは驚いている!だが安心してくれ!君を壊さぬよう細心の注意を払うつもりだ!」
はい、そうしてください。俺のことは脆いガラス細工だとか触れたら崩れるトランプの城だとお思いになってください。どうか頼みます。なんて祈りつつ、俺は謙遜した笑みを形作った。
「そんな...。私は王都で立場を失くした男ですから、これほどの待遇を頂けるなど身に余ります。剣の心得もなく出来ることは限られておりますが、どうか何でもお言いつけください」
ええ、俺はペンしか握る気はありませんからね。
不憫で可哀想なこの美男を間違っても戦場なんかに連れてかないでね。俺、絶対絶対戦いませんから...!
「ああ!安心したまえ!ここに送られた時点でもう罰なのだから、君は好きにしていたらいい!私は君に何も求めないから、ただここにいてくれ!」
予想外の快活な返事が返ってきて、俺は「へっ」と声を上げて思わず目を丸くする。
えっ、どういうことなの。俺、婿なんですよね?求めないってつまりは“そういうコト”も?
「そういう訳だから、あとは楽に過ごしてくれ!さて!私は今から討伐に行かねば!」
そうして俺が呆気に取られている間にエレノア様はがばっと立ち上がる。おおう、やっぱでかいわ。立つとすげーわ...。若干身を引きそうになる俺を置いて、「じゃ!」と手を上げ、ずんずんと彼女は元来た廊下を歩き去ってしまった。
......えーっと、じゃあ俺は好きにしてていいってこと?
ふーん、まあそれならそれで...ともう一度ソファに背を預けかけた瞬間。目の前を黒いものが遮った。
えっ、何、でっか...。金属...?あっ、これ鎧か!いやなんで鎧が急に目の前に。
「ルドヴィーク殿。お初にお目にかかる」
あ、これ人だわ。人間だったわ。
黒い重装を見に纏った大男が、ソファに身を預けた俺を見下ろしている。兜の隙間からの殺意がすんごい。もう圧だけで殺されそうなんだけど。ひえ、俺、何かやっちゃいました...?
「アルゴス・バルザレフ。騎士長殿の補佐を務め、身の回りを任されている。不在の間の世話を任された」
「よろしく頼む、婿殿」
低く部屋へと響く声はひたすら威圧的。声低すぎて地響きかと思ったわ。それ音階で何に当たるんです?
ていうか俺に世話なんていらないですう...、と言いそうになる口をきゅっと整えて、にこやかな笑みを目の前の鎧に向けた。
「これはご挨拶が遅れて申し訳ありません。アルゴス殿、こちらこそよろしくお願い致します」
にこ、と目を細めれば、アルゴス殿の圧がぶわっと強まる。うおこわっ...、何でだよ。俺ちゃんと丁寧に挨拶したじゃん...?
「屋敷内をご案内する」
それだけ言うと彼は歩き出してしまう。
俺は慌ててソファから立ち上がって、彼の後を追いかけた。じゃあね、ふわふわソファ。また戻るからね...。
「ここは客室」
「ここは執務室」
「ここは食堂」
「ここは書庫」
「ここは庭園」
あの、もしかして説明って知らなかったりします...?
アルゴス殿は変わらぬ圧を俺に放ったまま、全部一言で済ませて、「へえ」と俺が言うのも聞かずにガシャンガシャンと次へと向かう。
行き交う兵士もなんだか知らないけど俺に対して敵意の視線を向けてくる。やだあ...もうおうち帰りたい。案内とかもういいです、ほぼ意味ないし、自分で適当に回れますんで...。
ようやく解放された時には、もう俺の肩は緊張で凝り固まっちゃって、首筋が張って痛いのなんの。
ずっとにこにこしてるのも大変なんだからね。あんたみたいな表情筋死んでそうな人にはわかんないかもしれないけどさ。
そんな悪態を心の中で吐きながら、ふわふわソファに身を埋める。はー...、もう俺はお前がいればそれでいいよ。ずっと君と一緒にいることにする。そんでここで寿命を迎えてソファと一体化するんだ...。
「戻ったぞ!!!」
さようなら俺の平穏。おかえりなさいマイワイフ。
そんな気持ちで立ち上がり振り向いた先には、真っ赤にカラーチェンジしたエレノア様が立っていた。
「おっ、...お帰りなさいませ。エレノア様」
思わず言葉に詰まって、慌てて表情を柔らかく作り直す。血塗れのエレノア様はちょっと照れたように頬を掻いて、「魔物の返り血だ!見苦しくてすまないな!」と笑うと、ごそごそと何やら毛皮のマントから取り出した。
「ついでに兎が居たから、何羽か捕まえた!柔らかい肉は君の口に合うのではないかと思ってな!」
マントからずるりと取り出されたのは、手足を縛られた白い兎が3羽。小刻みに毛を震わせる様はすっかり怯え切って、黒くてツヤツヤの目がこちらに助けを求めている。えっ、口に合うって、この可愛い子たち食べるんですか...?このきゅるきゅるのウサちゃんを?やだよ俺。絶対味しないよこれ。
「...お気遣いありがとうございます、エレノア様。しかし俺は兎肉を食べると蕁麻疹が出る体質でして...」
「何!?それは知らなんだ!そうか、悪い事をしたな...!」
慌てて兎をばっと俺から遠ざけて背に隠すエレノア様は、「これは失敗した!歓迎の意を表したかったのだが!」と心底申し訳なさそうに視線を落とす。
白くふわふわした髪をべっとり血に濡らしたまま、灰色の目が頭上で「悪いなあ!わからんでなあ!」と焦ったように揺れる。
気付けば俺は、喉から言葉を搾り出していた。
「...いえ、ですが俺はふわふわの生き物に目が無いのです。その。もしよろしければ、この子達を屋敷で飼わせていただけませんか」
国境の白熊とはいえ、女に悲しい顔をさせるのは俺の矜持が許さないのだ。女は笑顔の方がいい。
それにふわふわは屋敷中の敵意に晒された俺の心を慰めてくれるって、あのソファでさっきわかったからね。兎もそうなってくれるかもしれないしね、うん。
するとエレノア様は、ぱあっと目を輝かせて、ばっと兎をこちらに近づけた。兎がぶるんと振られてキイと鳴く。おねがい優しくしてあげて。
「そうか!そういう事ならもちろん飼おう!君が喜ぶならもっと取ってこよう!」
いや、兎はほっといても増えるんですよ。そんなにいらないです、大丈夫。
「いいえ、俺はエレノア様が俺を思って下さったこの子達だけで充分です。カゴと餌さえ下さればそれで」
「そうかそうか!わかった!そうしよう!」
エレノア様は俺に兎を手渡すと、「おーいアルゴス!」と廊下に向かって叫んだ。
すぐさま現れたアルゴス殿に「婿殿の為に兎を飼うからカゴを用意してくれ!あと厨房に野菜クズを残すように伝えておいて欲しい!」と笑顔でいいつけた。
アルゴス殿はギッとこちらを向くと、ゴオッと殺意を俺に向ける。ひっ、ごめんなさい!俺もこうなるなんて思わなかったんですってば!!
そうして兎は、殺意に満ちたアルゴス殿が置いてくれたカゴの中でもしゃもしゃと野菜クズを食んでいる。白くてふわふわで無防備な姿は、正直言って可愛いし悪くない。ああ、俺ずっとこいつら見てる生活でいいや...。
まあ、そういうワケにもいかないんだろうけどさ。
エレノア様はああは言ったが、こうして俺を喜ばせようとしてるんだ。つまりは俺に異性としての魅力を多少は感じてるんだろう。じゃないと女から男に贈り物なんてする訳がない。
そうなれば、今夜はきっと“そういう事”になる。
だって初夜だよ。わかってるさ。別に気の乗らない相手を抱く覚悟くらいはして来ている。
そこで上手くこの女の心を掴んで、あとは悠々自適な生活が待っていると思えば、それくらいなんてことはない。
結局、俺はそういう感じの人生なのだ。
場所がどこへと変わろうとね。
————
「初夜?そんなものはいいよ!私は君に何も求めないと言ったろう!」
そう笑うや否や、エレノア様はごろんと背を向けて布団をかぶってしまう。ふわっと白い髪が枕に落ちると、こんもりとした毛布の山はすぐにぐうぐうと寝息を立ててしまった。
置いてけぼりの俺はと言うと、言葉を失ったまま呆然として布団に潜る。
毛布は雪国仕様でとにかく暖かいけど、ベッドは広大すぎて自分の寝相がどうしていたか思い出せない。
...なんだか一人、だだっ広くて何もない雪原に放り出された気分だな...。
そんな事を思いながら、彼女の寝息をただ聞いていた。
そして翌日。
「おはよう!よく眠れたかな!」
と笑うエレノア様に「ええ、とても」とにこやかに朝のご挨拶をして、無駄に多すぎる朝食をいただき、若干うっぷとえずきながら俺は庭へと歩んでいた。
廊下に立つ騎士達の視線は相変わらず鋭くて、じりじりと背中に刺さる。
エレノア様は仕事があるからとさっさとどこかへ行ってしまったし、庭の新鮮な空気でも吸って昨日の衝撃の整理をしたかったのだ。
庭への扉を開けると、びゅわっ!!と雪風が吹き込んでくる。昨日は雪が積もっていたものの、針葉樹しか植えられていない小さな森のようなこの庭は、考え事には良さそうだと思ったのに。これでは外に出られない。
仕方なく扉を閉めて衣服に付いた雪を払い、廊下の先へと歩みを進める。この先はなんだっけ。確か書庫と執務室だったかな。
そうそう、確かこの扉が執務室...と視線をやれば、何やら中から呻き声が聞こえる。
「う〜〜〜〜っ!!!なんだ!!麦畑のために水路を作れば水車が足りんと言われ!水車を作ればそもそもの麦が足りんと言われ!おまけに水車は凍るし獣害は減らん!!金もないのにどうしろというのだ!!!」
「獣害用の柵の被害も尽きません。資金も枯渇寸前。まずは足りない額を試算して、隣領へ支援を願うしか無いかと思われますが」
「でもあのマルディーズ卿はがめつすぎる!!国境を護るのに精一杯だというのに、あちらの始めたレンブラント領との小競り合いに500人も貸せるか!!ああもう嫌だ〜!!金の計算なんか大嫌いだ!!」
獣のような呻き声を上げて怒鳴っているのはエレノア様。低く冷静な声はアルゴス殿らしい。
そして、どうやら...エレノア様は領地の資金運営が大の苦手のようである。
...ま。俺は何にも求められてないし。知ったこっちゃないしね。と通り過ぎようと足を進めた。
「あああ困った!これでは婿殿にひもじい思いをさせることになる!見たかあの身体!ひょろひょろと痩せ細って実に痛ましいではないか!!公爵家は一体どんな扱いをして来たのだ!!可哀想にもっと食わせてやらねばならん!!だが金がない...!!」
俺のことを案じ訴える苦しげな声。
...馬鹿なのかな、この女は。
全てを聞いてしまった俺は足を止め、くるりと扉に向き合うと思わずガチャリと開けていた。
「私は痩せ細ってはいませんよ。王都ではこれが普通ですし、私は鍛えられている方です。あと朝食は多すぎて吐き気がしていますし、これ以上詰め込まれたら爆発します」
「婿殿?」
顔を上げたエレノア様が目を丸くし、うねった黒髪のアルゴス殿がこちらにぎろりと紅の目で睨みつける。兜取ったらそんな整った顔なんすね...威圧感が減るかと思ったらその逆だわ。ますます怖えわこの大男。
でも今はそんな事はいいのだ。
俺はエレノア様の前まで歩み寄ると、広げられた書類の山をじっと見つめた。
「...一年で収穫できる麦の数がこれでは、とてもではないが領民は養えない。そもそもこの酷冷地に水車と小麦は無理があります。より耐寒、耐乾の大麦を育てるべきでしょう。これほどの農地が既にあるなら輸出にも充分な収穫量が期待できます」
「その上、この柵。獣害用の柵を作るにしても一つ一つの畑に作っていてはキリがない。いっそ獣が出る森林側に高い塀を建ててしまった方がいい。鹿は柵は越えても塀までは登れません。初期費用は大きく掛かりますが、熊の被害も防げます」
「その費用をマルディーズ卿への戦支援で稼ぎましょう。あちらの求めるのは500人との事ですが、この資料を見る限りレンブラント領の主力は民間歩兵。騎馬は少ない。訓練されたヴォルコフ領の騎士達は民兵に500人も必要ですか。半数で充分なのでは?もっとここは大きく出て値を釣り上げるべきです。レンブラント領で得た戦利品をこちらの権利として主張する事もお忘れなく」
そこまでつらつらと捲し立てると、エレノア様とアルゴス殿は言葉を失って固まってしまう。
口をあんぐりと開けてまばたきをするエレノア様は羽根ペンをぽとりと取り落とし、アルゴス殿も目を見開いて殺意を忘れているらしい。
「私も公爵家出身なのでね。領地運営の為の農学に兵法、資産運用であればそれなりに学んで来たつもりです。こう見えて学園では主席だったのですよ」
妾の子という弱点をなんとか覆い隠す為、父親の評価を得続ける為、血の滲む努力をしていたことはあまり言いたくはないのだが。
「婿として、お役に立てませんか?」
首を傾げてにっこりと微笑みかければ、エレノア様は机からばっと立ち上がって俺を抱きしめ、いや思い切り強く締め上げた。
「すごい!!すごいな婿殿!!!戦ばかりの私ではとても思いつかなかった!!君は本当に賢いんだな!!」
「...かっ、...ひゅっ........!!」
締まる締まる締まるやめておねがい骨が全部砕けちゃうからあッッッ!!!!!!
あっだめだこれ、息が吸えなくて意識が遠のいてきた。視界が震えて輪郭が無くなって色の集合に見えてきた...。ふふ、綺麗だなあ...俺こんな景色初めてみたあ...。
「エレノア様、その辺りで」
アルゴス殿の低い制止でパッとエレノア様の腕が解かれる。俺はどしゃっと音を立てて地面に崩れ落ちた。次第に視界に輪郭が戻ってくる、息が吸える。世界って広い。これ俺の身体潰されて二回りくらい小さくなってない?大丈夫?ていうか空気ってこんなに美味しかったんだね...。
ぜ、は、ひゅっ、と過呼吸に近い息切れを起こす俺にエレノア様はしゃがみ込むと、嬉しそうに満面の笑顔を向けた。
「ありがとう婿殿。君は最高の婿だよ」
上気した微笑みと無邪気に見せられた鋭い八重歯は、...まあ、なんというか。嫌いじゃなかった。
そう、女は笑顔の方がいいからね。
「...お役に立ててなによりです」
息を整えて美男らしい笑みを作る俺は、ちゃんとうまく笑えていたはずだ。
————
そして執務を担当する事になった俺だが、そもそもの領地運営の責任者があの脳筋二人だったおかげで、改善案は山ほど見つかり一つ一つを改革した。
騎士を派遣したレンブラント戦では圧倒的な戦果を納め、マルディーズ卿から莫大な金を俺の話術で毟り取り、脳筋だらけの騎士を総動員して塀を建築し、大麦の収穫は春を待っている。
ついでに大豆の新たな生産や、ジビエを使った腸詰などの新たな加工品の開発にも余念が無い。
そして相変わらずエレノア様と言えば、すごいな、すごいな!!と俺を褒めては毎日血まみれになって帰ってくる。まあそれも全部返り血だけどさ。
「今日は鹿も取った!!これなら食べられるか!」
なんて、角を持って雄鹿を引きずって、にかっとあの牙を見せるのだ。
ま、あの女ってば大熊だから、俺なんかが心配するような必要はない。にこにこ迎えて、多すぎる飯をえずきながら食って、震える兎を抱えて壊さないように細心の注意を持って撫でるエレノア様を眺めて、夜は同じベッドで、背を向けた寝息を聞きながら目を瞑る。
騎士達の殺意はおかげでだいぶ減ったし、アルゴス殿はたまーーーーーーーーに差し入れの茶に菓子をつけてくるようになった。殺意を向けながら菓子の包みをずい、と差し出す姿に礼を言うのももう慣れた。あいつの菓子のセンスはお爺ちゃんみたいで正直嬉しくはないけども。
変わらない。きっとこのまま、上手くやれるさ。
なんで俺を求めないのかとか、この女に跡取りは必要ないのかとか、そんな事を気にするのはやめた。別に口を出す必要もないし。
ふわふわとした白い髪が枕に広がるのをチラリと見て、俺は布団を深く被った。
「エレノア様っ!!!騎士長殿!!!!」
「どうかしっかり!!お返事を!!!」
「ひどい血だ、誰か止血剤を!!!」
朝目覚めて、エレノア様が居ないと階下に降りれば、玄関に寝転ぶあの大熊女が多くの騎士達に囲まれていた。
「何故こんなことに...!!」
「エレノア様、エレノア様...ッ!!」
相変わらず、エレノア様の全身は真っ赤っか。
なんだよ。いつも通りなのに、なんでこいつらは叫んでるんだ。それでなんで、エレノア様は玄関なんかに寝てんだよ...?
だって、あれは返り血だ。全部返り血だ。
そんなところで寝るなんて、よっぽど眠かったんだろう?だって早朝だもんな。いつも寝てるくせにこんな時間に珍しく出かけるから。
だからほら、吐く息が弱いのも、血まみれの指先が力無く震えてるのも、唇が青いのも、あのアルゴス殿が目頭を赤くして叫ぶのも—————
「エレノア様っ!!!!!」
気がつけば俺の手はエレノア様の頭を抱えて、ふわふわの白い髪を、ぐったりとした身体を強く抱きしめていた。なんでこんな事してんだ。返り血だって言ってんだろ。
「エレノア様!!!俺です、ルドヴィークです!!なんでこんなところに寝てるんですか!!風邪を引きますよ!!!」
鉄のように重たくてでっかい身体を、出来る限りの力で揺さぶって、白くなっていく頬を何度もはたく。こいつは頑丈なんだ、これくらいしないと起きないから。起きろ、こんなところで寝るんじゃない。せめて暖炉の前に行かないと。なあ早く、俺の力じゃ部屋まで動かせないんだから。
白い睫毛がうっすらと開かれて、灰色の目が覗く。
「......君が...、ふわふ、わが好きだ、....と言った、から...」
「...見せたい、...とおもっ...て...。油断、...した......」
エレノア様が胸元から震える手で取り出したのは、潰れて半分以上が減った綿毛のついた花。
春になると現れる花だ。朝に綿毛をつけ、昼には全てを飛ばしてしまう、崖地に咲く花。
いつだったか、この地の特産をなんとか増やせないかと寒冷地の植物を調べている時に見つけて、俺が話した。
「まるで兎の尾の様ですね。ふわふわしていて可愛らしい。雪国にはこの様な花があるなんて...いつか触ってみたいものです」
ちょっとした話のタネのつもりだった。
早朝に崖地の花をわざわざ見にいくなんて、俺みたいな怠け者がするわけがない。それに花の話なんて、女の気を引くにはテッパンだろ。
———なのに、なのにこの大熊女は。
そんなものを摘んでくる為に朝からのこのこ出かけて、このぐっちゃぐちゃになった花だけ持って、魔物にやられるなんて間抜けをかまして、血まみれでここに戻って来たってのか。
俺に、花なんか、見せるために。
「...とんだ、馬鹿ではありませんか...」
口が勝手に動いていた。
だって、こいつがあんまり馬鹿で。
もう言わずにいられなかった。
「なぜそんな馬鹿なことを...!貴女は...っ、俺に、な、何も求めないくせに...っ、なぜ、俺を婿だなどと...、なぜ俺を喜ばせようとする...っ」
最初から意味がわからなかった。
王都から押し付けられた、何も持っていない俺をただ歓迎するこの女が。
「俺は...最初から、貴女を侮って、楽に生きる為に利用していた...っ!なのに貴女といえば、俺を褒めて、甘やかすばかりで、男として見てもくれない!」
初夜も触れ合いもなく、仕事さえ俺が言うまで求めなかったくせに、なんでこの女は俺の顔色ばかり窺うんだ。喜ぶ顔なんか見たがるんだ。
「貴女がわからない...っ!なんなんだ貴女は!わからないのに、勝手に俺を置いてくなんて、許さないからな...っ!!」
お荷物で性格のひん曲がった俺なんか喜ばせて、貴女は何がしたかったんだ。
いい加減に説明しろ、ちゃんと説明してくれ。こんな意味のわからないまま置いて行かれて、また一人になんてなりたくない。嫌だ。お願いだからどこにも行かないでくれ。
俺は、貴女が、貴女のことが———
「...君は、いい婿だな...」
俺の目からこぼれた雫で顔を濡らした国境の白熊は、何故だか嬉しそうに灰色の目を細める。
柔らかく微笑んだ彼女は、大き過ぎる手で俺の頬を撫でて、瞼を閉じた。
————
そしてその夜。
あんなに叫んだ俺の体裁を馬鹿にするかのように、大熊女は目を覚ました。
アルゴス殿はいつになく俺に優しく微笑みかけると、センスの悪い菓子を盆に山盛り置いて去って行った。殺意のない笑みがめちゃくちゃ怖いと感じることってあるんだね...。
エレノア様の背中に付けられた傷はと言うとすっかり塞がっていて、かゆいと唸って届かない手を必死に伸ばしている。寝室のベッド横に座り、腫らした瞼がこれ以上なくパンパンになった俺の目の前で。
「...馬鹿じゃねーか、俺...」
「ん?何か言ったか?」
「貴女がご無事で良かったなあと言いました」
「おおそうか、気を遣わせたな!」
この大馬鹿白熊女は、わはは!と笑って俺の肩を叩く。なにがわははだ、ちゃんと詫びろ。俺は騎士達の面前で今生の別れとばかりに無様に泣き叫んだんだぞ。どんな顔してこれから生活すればいいかもうわかんねーよ。本当に責任を取れ。
もう、安心したのか、腹が立つのか自分の気持ちが整理できない。はあーーーーーっと息を吐き出したところで、エレノア様が俺をじっと見た。
「君を、困らせてるとは知らなかった。すまなんだな」
俺は驚いて顔を上げる。今この女が喋ったのか!?
大熊女にこんな静かな声が出せたのか。
目を見開いていると、彼女は言いづらそうに続けた。
「詫びというか、説明させてもらうと...、私には子を作る事が出来ないんだ」
いきなり告げられた想像だすらしなかった内容に、俺は固まったまま言葉を失う。エレノア様は苦笑すると視線を落とし、指先を小さく絡めた。
「...巨人の血が入っている、という噂は本当でな。私は合いの子だから、子が産めないんだ。虎と獅子の子が、子を産めないように」
ぽつぽつと話す彼女に、俺はごくりと唾を飲む。
「...だから、君のような経緯を持つ男はちょうどいいと思ったんだ。聖女を籠絡するほどの男なら、きっとどこかで子を作ってくれるだろう。そしたら、その子を迎えれば跡取りになると」
そして切なげに微笑んだ彼女は、俺へと視線を向けた。
「“どこぞで種馬になって来てくれ”なんて、面と向かっては言えなかった。ただ、いずれ子をもたらしてくれる君にとって、ここを居心地のいい場所にしたかった。来て良かったと思って欲しかった。それしか私はしてやれないから」
「だから、これからも自由にして欲しい。君のことを、私はいい婿殿だと思っているよ」
そうして、彼女は背を向けた。
その背中はこんもりと大きいくせに、なぜだか今は小さく見えた。ふわふわの白い毛が背に広がって、少し震える。
...なんだよ。そういうことかよ。
馬鹿だ馬鹿だと散々心の中で悪態をついたが、本当に馬鹿なんだな、...この白熊は。
目の前の白いふわふわを、俺の腕には大きすぎる背中をそっと抱きしめる。壊れるわけないけど、壊さないように力を込めた。同時に大きな背中が驚いたようにびくりと跳ねた。
「貴女は、本当に馬鹿なんですね」
白い髪に埋もれたまま呟くと、彼女の唇が息を吸う。
「俺は貴女の婿としてここに来たんです。子を作る為だけでなくとも、貴女を満たす覚悟くらい出来ています」
「な、何を言ってるんだ、君は」
小さく狼狽えた、エレノア様らしくない掠れた声。
俺は微笑むと、彼女の絡めた両手を後ろから優しく握った。相変わらずでっかい手だな。握るっていうのは語弊があったな。これ、添えてるだけだわ。
「そもそも。獅子と虎の子に子が出来ないと思われていたのはもう古い話。王都の動物園で子が出来たのを皮切りに、定説は覆されているのですよ。これだからド田舎は」
「へ...?」
間抜けな声をあげて振り向いた彼女の頬は真っ赤に染まっている。悪くない顔だな。びっくりした顔も間抜けで悪くない。俺はたまらなくなって、赤く染まった頬に口付けを落とした。
彼女は肩を大きく跳ねさせる。俺が吹っ飛びそうだからもう少し抑えてくれるかな。
「それから。貴女は勘違いしているようですが、こう見えて俺はものすごく努力家だし、女遊びに興味はないし、意外と執念深いんですよ。ついでに顔もかなり良いし、貴女を口説く言葉もたくさん知っている」
「お、おう...?」
彼女はまだわかっていないのか、語尾が上がっている。本当に鈍い女だ。そこも悪くないけど。
俺は今度はぎゅうと強く彼女を抱きしめた。
「貴女が俺を求めなくても、俺が貴女を求めましょう。確率は低くても、子が出来るまで試しましょう。いや、出来なくてもいい。孤児院から養子を迎えればいいのです。いいですか。俺は他の女となんて死んでも子作りしませんからね」
「俺は、貴女の婿でありたいので」
言い切った時にはエレノア様の白い肌ときたら真っ赤に染まり、手のひらは汗で濡れそぼっている。
だんだんと肩は小刻みに震えて、ずっ、と鼻を啜る音がして、ひっ、う、とちいさな嗚咽が漏れた。
「お嫌でなければ、笑顔を見せてはくれませんか」
笑いかけると、一際大きく鼻を啜った彼女はぐっ、と強く気合を入れるように頷き、振り返った。
「...君は、最高の婿殿だな!」
ほらね。
やっぱり、女は笑顔の方がいい。
三日月みたいに細まる瞳と、鋭い牙があればなお。




