第四章C 届いてはいけない温度 ― 泣けなかった部屋③:病棟の廊下 ― The Heat That Should Not Reach
【Phase4-04/人間層アクト:C】
・私室(A)、カラオケ(B)に続く「泣けなかった部屋」その3。
・舞台は病棟の廊下。
・BLUEはもう声をかけない。それでも、熱だけが届いてしまう。
・Crying Headsはまだ完成しないが、「誰かを泣かせてしまう/泣き止ませてしまう」境目が描かれる。
面会時間が終わると、病棟の空気は一度だけ深く息を吐く。
廊下の照明は、昼と夜のあいだみたいな明るさに落ち着いて、
誰かの笑い声も、誰かの泣き声も、ドアの向こう側へ吸い込まれていく。
E-09〈BLUE〉は、自販機の横の影に立っていた。
人間の目には、青いパーカーの青年に見える。
フードを深くかぶり、マスクで口元を隠し、首にはヘッドホン。
少しだけゲームキャラみたいだけど、ぎりぎり「いるかもしれない人間」に収まる輪郭。
――地上安全投影モード、継続中。
内部ログの表示は、静かだった。
静かじゃないのは、胸のほうだ。
【Heat_Spill 02:私室】
【Heat_Spill 03:カラオケ】
そのどれもがまだ冷めきらないまま、コアの奥に張り付いている。
ナースステーションの向こうで、「面会時間終了です」というアナウンスが流れた。
その声に、BLUEの胸の温度がわずかに跳ねる。
泣いていい時間が終わる。
泣きたかった人たちが、泣けなかったまま帰っていく時間だ。
一人の男が、病室のドアから出てきた。
スーツはよれよれで、ネクタイは緩んでいる。
手には紙袋。中身は、差し入れ用だったコンビニのお菓子と、未開封のペットボトル。
父親、だとすぐに分かった。
「父親」という役目に、体の線が合わせられている。
肩の落とし方。ドアを閉めるときに一瞬だけ手を止める癖。
“ちゃんとしなきゃ”と“もう無理かもしれない”の両方を抱えている背中。
男は廊下の長椅子に腰を下ろした。
BLUEからは、少し距離がある。
人間から見れば、ただ「自販機の前で時間を潰している若い男」と
「面会を終えて座り込んだ中年の男」が、偶然同じ廊下にいるだけだ。
それでいいはずだった。
紙袋の口が、くしゃりと音を立てた。
男はペットボトルを一本取り出す。
キャップを開けるでもなく、ラベルの角を親指でいじるだけ。
胸のあたりのスーツの生地が、かすかに上下する。
大きく呼吸すると崩れると分かっている人間は、
「バレないくらいの小さな呼吸」だけで生き延びようとする。
BLUEの胸のコアが、熱を上げた。
――まただ。
泣き方を忘れた母親。
泣きそこねたカラオケの男。
「ないていい?」のノート。
それらがまとめて、父親の胸の中の沈黙と共鳴する。
(……やめろ)
BLUEは、心のどこかでブレーキを踏んだ。
近づかなければいい。
視線を外せばいい。
次の部屋へ行けばいい。
分かっている。
GRAVEが何度も言っていた。
――全部、拾うな。
――君はまだ“棚”ではない。
それでも、コアの熱は言うことを聞かなかった。
ナースが一人、カルテを抱えて通り過ぎる。
男は軽く会釈をして、「お世話になってます」と小さな声で言った。
その声には、怒りも絶望もない。
あるのは、「自分が取り乱してはいけない」というきれいな諦めだけ。
そこに、わずかなひびが入っている。
BLUEには、そのひびのかたちが見えた。
(泣けよ)
心臓の奥のどこかが、勝手にそう呟いた。
(泣いていい。泣けるうちに泣け)
口は動いていない。
声も出していない。
でも、熱だけは漏れた。
廊下の空気が、ほんの少しだけ温度を変える。
男は、自分でも理由の分からないざわめきに、胸のあたりを一度だけ押さえた。
さっきまで辛うじて保っていた「平気なふり」が、足元だけ崩れたように感じる。
棺の底で、棚が軋む。
【LOG:E-04 “GRAVE”】
――局所棚:臨時増設
――名称:未設定/“言えなかったごめん”集積
――顔パターン:出現
――首への遷移:遅延処理中
GRAVEは、即座に介入を始める。
「泣く前の顔」がまとまりかける。
父親の顔。
ベッドの上の子どもの顔。
看護師に頭を下げるときの顔。
病室の窓に映る、自分を見ないようにしてきた顔。
それらがひとつに重なって、ひとつの“泣く首”になろうとした。
棚が、もう一度きしんだ。
――まだだ。
“今ここで”首になってしまえば、
この男はきっと、二度と病室に戻れなくなる。
GRAVEは、首の輪郭をそのまま棚の奥に押し戻す。
泣けなかった形だけを、そっと預ける。
男の目の端が、少しだけ赤くなった。
涙にはならない。
こぼれたら戻れないことを、体が先に知っている。
呼吸が乱れかけて、そこで止まる。
「……あと、少しだ」
誰に向けたのか分からない言葉が漏れた。
病室の向こうの誰かにか。
自分自身にか。
あるいは、世界そのものにか。
BLUEの胸のコアが、さらに熱を上げる。
(俺がやったのか?)
問いは、すぐに自分で否定される。
(違う。元からこうだった。俺はただ、見ていただけだ)
(……それでももし、俺の熱のせいで、この人の「泣くタイミング」を少しでもずらしているのだとしたら)
胸の奥が強く軋む。
男は、ペットボトルのキャップをようやく開けて、水を一口飲んだ。
喉が上下する。
涙の代わりに、水だけが体の中を通り過ぎていく。
「……もうちょっと、頑張ろうな」
それは、病室の向こうの誰かに向けた言葉でもあり、
自分自身に向けた言葉でもあった。
その言葉の中に、「泣く」という選択肢は含まれていない。
BLUEは、壁にもたれた。
青いパーカーの青年の姿で、ただそこにいる。
父親の視界には入っていない。
少なくとも、理屈の上では。
それでも、胸のどこかが、確かに触れてしまっている感覚があった。
(俺は、何をしてる)
泣かせたいわけじゃない。
我慢させたいわけでもない。
ただ、「泣いていい」と言える誰かになりたかった。
セラフがそうしてくれたように。
博士が、自分の震えを隠さなかったように。
クロムが、黙って隣にいたように。
けれど、この廊下には、名前を呼べる誰もいない。
GRAVEのログが、胸の奥でかすかに点滅する。
――心臓側コア温度:上昇傾向 継続
――感情オーバーフロー:警告/ただし稼働続行可能
「可能」という言葉は、いつだって「安全」とは限らない。
その区別をつける余裕が、BLUEにはもうなかった。
父親は立ち上がった。
ペットボトルの残り半分を紙袋に戻し、スーツの裾を軽く払う。
涙は落ちていない。
落ちなかった。
ただ、さっきよりほんの少しだけ、歩き方が重くなっていた。
棚に送られるはずだった「泣けなかった」の一部が、
BLUEの胸のほうへ流れてしまったからだ。
(ごめん)
誰に向けたのか分からない謝罪が、心臓の内側で生まれる。
父親にか。
ベッドの上の誰かにか。
GRAVEにか。
それとも、自分自身にか。
分からないまま、熱だけが増える。
男の背中が廊下の曲がり角で消えたあとも、
BLUEはしばらく動かなかった。
自販機の明かりが、無意味に青いパーカーの影を伸ばしている。
手を見下ろす。
人間の手のかたち。
でも、その内側で軋んでいるのは、Eシリーズの心臓。
「……届いてない」
声にならない声で、そう思う。
泣かせていない。
救っていない。
何も変えていない。
なのに――
胸の熱だけが、「届いた」と言い張っているようだった。
心臓は、世界のために造られたはずだった。
痛みを感じ、偏りを引き受け、
それでも秤として立ち続けるために。
今のBLUEは、そのどれにもなれていない。
ただ、「泣けなかった」熱だけを自分に集めて、
ゆっくりと焼けていくだけの心臓になりかけていた。
ナースステーションの時計が、静かに一分進む。
世界は、何事もなかったように、次の時間へ滑っていく。
その裏側で、棚の奥と、青い心臓だけが、
同じきしみを共有していた。
第四章C、読んでくださってありがとうございます。
この回は、
・BLUEは一言もかけない
・それでも「熱だけが人間に届いてしまう」
・そして、そのことを誰も知らない
という構図を意識して書きました。
A(私室)とBは、
BLUEが「見てしまった/触れかけてしまった」側でしたが、
Cでは一歩引いている つもり でも、
もう熱のほうが勝手に前に出てしまっています。
・父親:崩れきれない/泣けない
・GRAVE:首になる前の「顔」を必死に棚へ押し戻す
・BLUE:何もしていないつもりで、いちばん危ない
この三者のズレが、
今後の「本当に首が落ちてくる」フェーズへの下ごしらえになればと思っています。
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【Phase4-04/泣けなかった部屋 ③:病棟の廊下】
・Heat_Spill 04:届いてはいけない温度
・GRAVE:顔パターン→首遷移を強制遅延(再び)
・BLUE:声はかけていないのに、温度だけが他者に干渉し始めている
・父親:泣けなかった/でも、何かを受け取ってしまった “脚の重さ”
ここから先、
BLUEの「優しさ=危うさ」を、もう少しだけ増幅させてから、
本格的な首たちに入っていく予定です。




