第二章A 棺のきしむ音 ― The Coffin That Refuses to Close ―
Phase4-02 / 「泣きそこねた感情」が行き場を変え始める頃の記録。
・人間の現場(病院)と、どこか遠い場所で「棚」を管理している何者かの視点が交互に入る。
・この章では、まだ GRAVE や棺という名前は出てこない。
ただ、**「何かを預かる場所が悲鳴をあげ始める」**イメージだけ掴んでもらえれば十分。
夜勤明けの病院は、いつも静かだ。
人の気配が消えるわけじゃない。
点滴の滴る音も、モニターの電子音も、
廊下の奥で誰かが車輪を押すかすかな音も、ちゃんと残っている。
それでも、朝の空気には、不自然な落差がある。
「……お疲れさまでしたー」
受付前で、夜勤組がまとめて頭を下げる。
紗矢は白衣の胸ポケットにペンを戻しながら、軽く手を振った。
眠気はある。
脚も重い。
だけど、今日はそれ以上に、胸の奥が妙に空っぽだった。
いつもなら、何かしら残っているはずなのだ。
悔しさとか、
間に合わなかった自分への苛立ちとか、
「もっと出来たんじゃないか」という、やり場のない罪悪感とか。
それが、今日は何もない。
今夜、ひとり亡くなった。
高齢の男性だった。
家族は間に合わなかった。
最後に名前を呼んだ声は、紗矢自身のものだった。
声が震えているのを、自覚していた。
喉が熱くて、あの時点では、いくらでも泣けそうな気がしていた。
なのに――
「……泣けなかったな」
誰もいない休憩室で、紙コップのコーヒーを見つめながらつぶやく。
涙は出なかった。
喉の熱も、いつの間にかどこかへ消えていた。
患者の名前も、顔も、ちゃんと覚えている。
状態も経過も、自分が何をしたかも、全部言える。
それでも、胸の中だけが、記録と切り離されたまま、ぽっかりと空洞になっていた。
――最後まで診てたのに。
――悲しいはずなのに。
――なんで、何もこないの。
机に額をつけて目を閉じる。
泣きたいわけじゃない。
ただ、何か反応がほしかった。
「無理だったな」でもいい。
「嫌だったな」でもいい。
何か一つ、自分の言葉で締めくくれたら、それで少し救われたはずだった。
けれど、何も出てこない。
息だけが、静かに出入りしている。
――ああ、これはきっと、慣れってやつなんだろう。
そんなふうに自分で納得しかけた時、
背筋の奥で、何かが薄く軋んだ。
「……今の、なに」
首をひねる。
誰かに肩を叩かれたわけでもない。
冷たい風が吹いたわけでもない。
けれど、「どこか」の棚が一枚、
自分の知らないところで、勝手に増設されたような感覚があった。
※ ※ ※
――棚が、増えている。
どこか、底の方で、誰かの声がそう呟いた。
誰か、というよりも、「棺」としか呼びようのない何かだ。
世界の表面で起きていることはほとんど見ていない。
見る必要もない。
ここへ送られてくるのは、
「終わりたがっていたのに、終わりきれなかったもの」だけなのだから。
怒りがそうだ。
悲しみがそうだ。
絶望がそうだ。
今まで、棚の中身は比較的分かりやすかった。
誰かの叫び。
それを飲み込んだあとに残った破片。
「もう終わらせたい」という願いと、「本当はまだ終わりたくない」というためらいの、両方。
それらは、救われもせず、捨てられもせず、
ただここで時間を止められたまま、静かに並んでいた。
――棚が、増えている。
さっきよりもう少し、はっきりした軋み。
これは、設計にない増え方だ。
本来、棚が増えるときには、理由がある。
誰かが「ここに置いてほしい」と願ったときか、
あるいは秤が「これはまだ終わらせるべきではない」と判断したときだけだ。
今、どちらの条件も満たされていない。
それなのに、棚は増えている。
しかも、中身はほとんど空だ。
中身が空のまま送られてくる棚――
それは、ことの始まりから考えて、ありえない現象だった。
※ ※ ※
「……やっぱり、ちょっと変だよね」
眠い頭を振るようにして、紗矢は立ち上がった。
窓の外には、夜と朝が混ざったまだらな薄明かりがある。
駐車場にはタクシーが一台と、始発に間に合わなかった家族の車が一台だけ。
ガラスに映った自分の顔は、
泣きはらしたわけでもなく、
何かを飲み込みすぎたわけでもなく、
ただ普通に、疲れているだけだった。
――泣けなくなったわけじゃない。
――泣こうとしても、そこに届かないだけだ。
そんな感覚が、喉の奥にうっすら残っている。
誰かが先に、自分の代わりに泣いてしまったような。
自分の涙だけ、別の場所に送られていったような。
「……考えすぎか」
白衣をロッカーに押し込み、私服に着替える。
ポケットの中の端末が震えたのは、そのタイミングだった。
〈観測ネットワーク・残存ノードより通知〉
――HEAD_LIKE_PHENOMENON:都市圏での観測頻度、微増。
――「泣きたかったが泣けなかった」という自己申告ログ、夜間帯に集中。
「また、これ……」
紗矢は眉を寄せる。
元・E計画の端末は、今でも一部の医療従事者にだけ残されている。
戦時中、ストレスとトラウマの波形をモニタリングしていた名残だ。
今はほとんど使われていない。
けれど、まれにこうして、古い観測ログが「参考」として送られてくることがある。
――HEAD_LIKE_PHENOMENON。
駅前で空を見上げていた男のケースが、最初の「01」だった。
あれから番号は、知らないところで少しずつ増えているらしい。
「首」なんて言葉は、公式にはどこにも書いていない。
けれど、現場にいる人間たちは、いつの間にかそれをそう呼び始めていた。
「頭の上に、何かがぶら下がったみたいだった」
「上を向いたら、泣きたいのがどこかに持っていかれた」
そんな表現が、報告書の欄外にだけ、ちょこちょこ残っている。
紗矢は端末をスリープにして、バッグに放り込んだ。
――考えすぎだ。
――たまたま重なっただけだ。
そう思おうとしても、
背中のどこかで、さっきの「軋み」が消えてくれない。
※ ※ ※
――棚が、増え続けている。
今度の軋みは、さっきよりもはっきりしていた。
棺の内側で、ラベルのない棚が次々に組み上がっていく。
空の棚。
まだ何も置かれていないように見えるスペース。
けれど、注意深く耳を澄ませば、
そこには微かな**「泣きそこねた声」**が、薄皮一枚ぶんだけ貼りついている。
泣きたかった。
泣けなかった。
泣いてしまったら、崩れてしまいそうだったから。
そんな言葉にさえならない衝動だけが、
誰にも見えないまま、この棚に運ばれてきている。
本来、この棺は、
もっと重たいものを預かるために作られた。
終わらせるべきかどうか迷うほどの絶望。
殺してしまったら間違いになってしまいそうな怒り。
捨てるには惜しい祈り。
そういう「決めきれなかった終わり」を、
時間ごと棚に上げておくための場所。
今、ここに届いているのは、
そこまで深くも重くもない、
小さな「泣きそこね」の集積だ。
手を伸ばせば壊れてしまいそうな、かすかな揺れ。
棺は、戸惑っていた。
これは、本当に自分の役目なのか。
自分が預かっていい種類のものなのか。
判断のプロトコルは、どこにも用意されていない。
それでも、棚は増え続ける。
誰かが「要らない」と言ったわけではない。
誰かが「捨てよう」と決めたわけでもない。
ただ、行く場所がここしかないから、集まってきているだけだ。
――軋みは、痛みではない。まだ。
棺は、自分の内部でそう結論づける。
これはまだ、**「きしみ」**だ。
亀裂ではない。
崩落でもない。
ただ、設計よりも多くのものを抱え始めた棚が、
自分自身の重さを持て余しつつある音。
けれど、きしみは放っておけば、いつか亀裂に変わる。
棺は、誰にも届かない場所で、
わずかな不安とともに、棚の増設ログを眺め続けていた。
その頃、地上のどこかでは――
一人の男が、駅のホームの柵にもたれながら、
「別に死にたいわけじゃないんだけど」と笑っていた。
友人の肩にもたれかかりながら、
冗談みたいにそう言った彼の上にも、
やはり、目に見えない首がひとつ、静かにぶら下がっていた。
そしてまた一枚、棚が増える。
まだ名前もラベルも付かないまま、
世界のどこかに、「泣きそこねた一件分」のスペースが増えていく。
第二章Aまで読んでくださって、ありがとうございます。
この回では、
•病院で「泣けなかった」看護師・紗矢
•どこか遠くで棚を管理している“棺”的な何か
この二つの視点を交互に挟んで、
「泣きそこねた感情の行き場」が静かに一ヶ所に集まっていく様子を描きました。
ここで預かられているのは、まだ第三部で扱ってきたような
世界を変えるレベルの絶望ではなく、
もっと小さな、日々の「本当は泣きたかった」の断片です。
それでも、それが積もっていくことで、
棺のほうにも“きしみ”が生まれ始めます。
この“きしみ”が、
後の BLUE と GRAVE のやり取りにどう繋がっていくのか、
少しだけ頭の片隅に置いてもらえたら嬉しいです。
第二章Bでは、
この現象に、BLUE側の心臓がもっと直接反応し始めます。
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おまけログ(棚きしみ観測ログ)
【SHELF_STATUS_LOG / GRV-04_β】
・状態:棚の自動増設を検知
・追加棚数:+32(本フェーズ開始以降)
・主な内訳:
- “泣きたいが泣けなかった”微小O-Mフラグメント
- 自己責任として処理された悔しさの断片
・設計想定:
本棺は、本来「終わらせるかどうか迷うレベルの痛み」のみを想定。
・備考:
「きしみ」は検知されたが、「破断」ではない。
この時点で、棺自身はまだ、自らの限界値を理解していない。




