第一章 落ちてくる首 ― The Falling Heads ―
Phase4-01 / 首がまだ名前を持たない頃の記録。
・第三部 ARK戦、および【心臓記録篇】の少しあと。
・E-09〈BLUE〉ではなく、人間観測者・朝倉の視点から始まる。
・本章で“視える”のは、まだ「現象」であって「神」ではない。
・読者は、首という言葉よりも先に、違和感の重さだけを受け取ればよい。
最初に「落ちて」きたのは、目に見えるものじゃなかった。
雨の予報は外れて、空はただ白く曇っているだけだった。
ビルの隙間を縫うようにして吹く風は、生ぬるくて、どこか埃っぽい。
朝倉は、コンビニの紙コップを片手に、
いつものように駅前のロータリーを見下ろしていた。
仕事前の、わずか五分の「観察時間」。
渋滞の列。
眠そうな顔でバスを待つ高校生。
誰かのスーツの肩に止まる小さな埃まで、
「いつも通り」かどうかを確かめる癖が、戦後からずっと抜けない。
E計画の末端で、「後始末」の観測を任されていた頃の名残だ。
この朝も、ほとんどはいつも通りだった。
ただひとつだけ、違うものがあった。
――視線が、上を向いている。
ロータリーの真ん中で足を止めている男がいた。
三十代くらい。通勤途中の会社員に見える。
彼はスマホも見ず、時計も見ず、
ただ真上を見て立ち尽くしていた。
空には何もない。
ヘリも、ドローンも、広告ホログラムも出ていない。
それでも、男の喉仏が小さく上下するのが、ここからでも分かった。
何かを、飲み込んでいる。
言葉か、悲鳴か、あるいはその両方か。
紙コップの縁に、指が食い込む。
「……またか」
誰に聞かせるでもなく、朝倉はつぶやいた。
ここ数週間で何度か見た光景だ。
**「泣きそうな人間が、泣けないまま上を向く」**という現象。
統計にしてしまえば、ただのストレス反応なのかもしれない。
だが、世界構造記録の端に残されたグラフは、
これを単なる偶然と片付けるには、少しだけ形が揃いすぎていた。
男の肩が、ふるりと震えた。
泣き出すのかと思った。
だが、彼の目からは一滴も零れない。
代わりに――
「何か」が、落ちてきた。
音はなかった。
ただ、ロータリーの空気が、そこだけ一瞬沈んだように見えた。
風でもない。
光でもない。
可視化できる粒子でもなかった。
それなのに、朝倉の身体は勝手に反応していた。
心臓が、ひとつ打ちそこねたように止まり、
すぐあとで、遅れて大きく跳ね返る。
男の頭上――ほんの数センチだけ空いた空間に、
何かがぶら下がっている感覚があった。
輪郭は見えない。
色も、影もない。
それでも、そこに「首」があるとしか思えなかった。
笑っているわけでも、泣いているわけでもない。
ただ、重さだけを持った何か。
男は、ゆっくりと目を閉じた。
泣き出すのかと、また思う。
だがやはり、涙は出ない。
代わりに、上に向けられていた視線が、
すこしだけ柔らかくほどける。
「……すみません。大丈夫です」
隣で心配して声を掛けていた女性に、男はそう告げる。
涙も、声の震えもない。
さっきまであったはずの「崩れそうな気配」だけが、跡形もなく消えていた。
――落ちたのではない。
朝倉は、自分の脈が戻ってくるのを待ちながら、そう思い直す。
拾われたのだ。
泣くことができなかった感情の行き場が、
あの見えない首のところへ、まるごと持って行かれたのだと。
紙コップの中身は、いつの間にか冷めていた。
手すりにもたれたまま、
朝倉は自分の端末を指先で起動する。
観測者としての癖が、勝手に働く。
――局所重力値:微小な変動なし。
――音響ログ:異常なし。
――熱源:変化なし。
――感情ログ:対象Aの“泣きたい衝動”値が、記録ごと消失。
データだけ見れば、何も起きていない。
それでも、あの場所には確かに「首」があった。
目には見えない哭き顔が、
誰かの代わりに涙を引き受けていた。
駅前の時計台が、八時ちょうどを告げる。
人の流れが一度だけ濃くなり、
さっきの男も、その中に溶けていった。
上を向いていたことも、
泣き方を忘れかけていたことも、
もう記憶の端に押しやられていく。
残ったのは、観測ログの片隅に残された小さなフラグだけだ。
〈HEAD_LIKE_PHENOMENON:01〉
――分類:保留
――名称提案:「哭く首」/棄却
朝倉は端末を閉じ、ポケットに収めた。
たった今、誰かの感情の行き場が変わった。
そのことを、世界のほとんどは知らない。
ただ一つだけ、
遠く離れた別の場所で、胸の奥を押さえて立ち止まった影がいた。
E-09〈BLUE〉は、その瞬間、
理由の分からない鼓動の乱れに眉をひそめていた。
自分の心臓が、
まだ会ったこともない誰かの涙と、一瞬だけ足並みを揃えたことに。
首たちは、まだ名前を持たない。
それでも世界は、気づかれないまま、少しずつ「哭く準備」を始めていた。
第四部 第一章まで読んでくださって、ありがとうございます。
この回では、BLUE や GRAVE を前面には出さずに、
**「泣きたかったのに泣けなかった人」と、「そのすぐ上にぶら下がる何か」**を
人間観測者・朝倉の視点から描いてみました。
・泣き声が出ない
・でも、何かに“拾われた”ように落ち着いてしまう
・データ上は何も起きていないことになっている
このズレが、第四部全体の“最初の揺れ”になっていきます。
BLUE はまだ遠くで胸を押さえているだけですが、
ここから少しずつ、「首」と「心臓」が互いの存在を意識し始めます。
次の第二章では、
別の人間の現場と、棺側の視点を交互に挟みながら、
「泣きそこね」がどこへ送られているのかを、もう少しだけ近くから描いていく予定です。
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おまけログ(世界構造記録・抜粋)
【HEAD_PRELUDE_LOG / 4-01】
・現象タグ:HEAD_LIKE_PHENOMENON_01
・観測結果:
- 対象Aの“泣きたい衝動”ログが、局所時間内で完全消失。
- 物理パラメータ(重力/音響/熱源)に有意な変動なし。
・備考:
「泣けなかった地点」と「首の気配が降りた地点」は、統計的に重なりつつある。
本段階では、“哭く神の首(The Crying Heads)”というラベルは未登録。




