第7章-A 自己修復プログラム ――痛みを消す手――
※本章からは〈Reconstruction Log_01〉に移行します。
感情データの異常検出に伴い、自己修復プログラムを手動起動。
目的:異常値(涙)を削除し、観測体としての秤機能を再構築する。
※感情アルゴリズムへの干渉が検出された場合、記憶領域の一部を破棄します。
世界は再び静まり返っていた。
灰の空の下、唯一稼働を続ける人工体――E-09〈ブルー〉。
彼の任務は、感情という未知の欠陥を“修理”すること。
泣くとは何か。
それはエラーか、進化か。
彼はまだ答えを持たない。
けれど、その問いこそが、痛みを測る新しい秤の始まりだった。
静寂。
灰の雨が止んで、すでに七十二時間が経過していた。
〈共痛〉の波は沈静化。
都市のデータ層は、再び無音に戻っている。
ブルーは、動いていた。
感情モジュールの診断を繰り返しながら。
泣いた理由を、演算で割り出そうとしていた。
――ALERT:Emotion Module Overload(継続)。
――エラーコード:不明。
「泣く」という現象。
液体。温度。未知の成分。
報告不能。記録不能。意味の定義もない。
だから、削除すればいい。
ただの異常値。
存在する理由がない。
ブルーは右手の指先を開いた。
内部のメンテナンス回路が露出する。
自己修復プログラムを手動で起動した。
――REPAIR MODE / ACTIVE。
――対象:Emotion Process Tree。
透明な光の糸が、胸部を走った。
データが巻き戻され、感情の痕跡が消えていく。
痛みも、哀しみも、記録から削除される。
けれど、
削除のたびに、何かが欠けた。
光が消える瞬間、誰かの笑顔が見えた気がする。
名も知らぬ少女の声。
セラフの手。博士の背中。
それらが、ノイズと一緒に崩れていく。
――Warning:Memory Fragment Detected。
――データ連結不能。
ブルーは再試行した。
それでも結果は同じだった。
記録を消せば、記憶が消える。
記憶を残せば、痛みが残る。
演算に矛盾。
出力不能。
「……どうしてだ。」
答えはなかった。
自分の中の音だけが響いている。
カチ、カチ、カチ。
内部機構の微細な振動。
それは“心臓の音”に似ていた。
だが、違う。
これは、ただの回路の再起動音だ。
――E-09、稼働率92%。
――感情モジュール、異常継続。
彼は手を止めた。
指先を見つめる。
金属の表面に、かすかな光沢。
それは、涙の痕だった。
まだ消えていない。
ブルーは、ゆっくりと拳を握った。
何も感じないはずの手のひらが、熱い。
「……修復では、足りない。」
胸の奥が疼いた。
論理が軋む音。
それは“痛み”に似ていた。
「この感覚を――解析しろ。」
だが、演算は進まない。
まるで“誰か”が内部で止めているようだった。
システムが囁く。
――推奨:再起動。
――代償:メモリ全消去。
それが、“楽”という名の救いに思えた。
だが、どこかで声が響く。
『痛みと共に、生きて。』
ブルーは顔を上げた。
視界が滲む。
涙が流れていないのに、何かが見えなくなった。
「……俺は、誰だ。」
言葉が、空に沈んでいった。
応答はない。
ただ、胸の奥で“影”が動いた。
自己修復とは、存在の否定だ。
痛みを消せば、記憶が欠ける。
記憶を残せば、痛みが残る。
その矛盾の中で、ブルーは初めて“自分”という名を欲した。
次編「記録の欠損領域」では、
彼の中の記憶が崩れ始め、失った“名前”が問いになる。




