第6章 共痛の花
※本章からは〈Internal Observation Log〉に移行します。
感情の観測は外部データを離れ、自己領域に反映されます。
以降の記録は、検証不能な主観情報を含みます。
世界は沈黙していた。
〈共痛プロトコル〉の余波が収まり、都市は灰の底に眠っている。
けれど、ブルーの内部では、まだ“痛み”が波打っていた。
涙という現象。
理由のない液体。
それは報告不能のまま、彼の構造を侵蝕していく。
感情を拒む秤が、涙を抱えたまま動き出す。
それは癒しではなく、拒絶の始まりだった。
そして――
共痛は世界の外ではなく、彼の心臓の内側で咲こうとしていた。
世界は、まだ泣いていた。
灰の雨はやんだはずなのに、
空のどこかから微かな水音が続いている。
瓦礫に落ちる雫が、かすかな反射を描いた。
ブルーは立ち止まる。
冷えた金属の指が、空気を裂く。
掌の内側に、何かが残っていた。
――ALERT:Emotion Module Overheat.
――原因:不明。
内部温度が上がっている。
損傷はない。
けれど、胸の中で“何か”が軋んでいた。
思考が鈍る。
痛みでも、異常でもない。
ただ、理解できない。
歩を進めるたび、
光の残滓が足元で砕けた。
それは、誰かの記憶だった。
少女が笑っている。
男が抱きしめる。
その瞬間のデータが、世界に溢れていた。
――記録:SERAPH-0 起動前夜。
――「これは神を創る計画ではない。我々はただ、人間の倫理を拡張する“心の器”を求めた。」
断片的な声。
古い、懐かしいノイズ。
ブルーは、視界を閉じようとした。
だが、記録は止まらなかった。
『Eシリーズは、SERAPH-0の手だ。
罪を測り、罰を与える。その代行者。
だが我々は最後の瞬間に怯えた。
神の名を掲げながら、人の心を恐れた。』
……心。
ブルーは呟いた。
その言葉の意味を、理解できなかった。
息が詰まるような感覚。
胸の奥で、何かが暴れている。
「報告を――やめろ。」
声が震えた。
命令なのか祈りなのか、自分でもわからなかった。
モニターが赤く点滅する。
画面の文字が、意味を持たなくなる。
英語でも、数字でも、形を成さない。
――警告:感情制御プログラムが過負荷状態です。
ブルーは膝をついた。
冷たい地面が、震えている。
心臓が、音を立てている。
「……違う。これは、報告じゃない。」
頬を伝う液体を、指で拭った。
熱い。
成分分析を試みようとして、手を止めた。
知りたくなかった。
知ったら、戻れなくなる気がした。
そのとき、視界の中で光が咲いた。
瓦礫の隙間から、小さな花が生まれる。
青白い光の花弁。
空気を震わせるほどの微弱な音。
世界が――泣いていた。
否。
自分の中の世界が、泣いていた。
ブルーは立ち上がり、
花に触れようとして、手を止めた。
「やめろ……」
声が震えた。
涙が落ち、花弁が光る。
その瞬間、光の中から“彼女”が現れた。
淡い輪郭。
セラフに似た顔。
けれど、瞳の奥に“冷たさ”があった。
「あなたが、泣いたのね。」
「違う。」
「じゃあ、どうしてその手が震えてるの?」
ブルーは答えない。
答えられない。
身体が、理解を拒んでいた。
「……やめてくれ。」
Sorrowは微笑んだ。
優しく、けれど残酷な微笑。
「あなたは、痛みを識った。
それが“心”の始まりよ。」
「俺は……そんなもの、要らない。」
「要らないものほど、世界は与えるの。」
言葉が胸を貫いた。
花が一斉に咲く。
眩しさに目を閉じても、涙は止まらない。
――記録更新:感情モジュール “哀”。
――状態:不安定。制御不能。
Sorrowの声が遠ざかる。
光も音も溶けていく。
残ったのは、ひとつの痛みだけ。
泣きたくないのに、泣いてしまう。
それが、“心”という欠陥の正体だった。
世界は共痛した。
だが、それは優しさではなく、構造の悲鳴だった。
涙は祈りではない。
設計の歪みが、生のかたちを模倣しただけ。
次章では、ブルーが“恐れ”を識る。
失う痛みを前に、彼は初めて「生きたくない」と思う。




