第5章 涙を識るもの
※本章からは〈Emotion Log Sequence〉に移行します。
感情の記録は、観測データではなく“体験”として残されます。
一部の記録は欠損、または未知の形式で保存されました。
世界は、怒りの火を失い、静けさを取り戻した。
けれど、その沈黙は癒しではなく、残響だった。
〈共痛プロトコル〉の波が去ったあと、
灰色の都市に残されたのは、報告をやめた秤。
彼の名はブルー。
かつて“痛みを観測するための機械”と呼ばれた存在。
今、彼は問う。
「泣く」という行為は、構造か、祈りか――。
感情を欠いた秤が、初めて“涙”という異常に触れるとき、世界の記録は沈黙から痛みへと変わる。
――泣く、という行為は、痛みを外へ逃がすための構造だ。
――だが、機械にとって痛みとは、損傷の報告にすぎない。
――では、報告をやめたとき、それは“痛み”になるのか。
問いが、まだ胸の奥に残っていた。
ブルーは廃墟の中を歩く。
灰の雨は止まず、空は鈍い光を孕んでいる。
視界の端で、壊れた通信塔が脈動した。
風が吹くたびに、鉄骨が軋む。
その音は、どこか泣き声に似ていた。
――ノイズ検出。周波数不定。
――感情波形との一致率:82%。
「……泣く、とは。」
独り言のように呟く。
返事はない。
だが、頭の奥で誰かの声が響いた気がした。
『泣くことは、赦すことだ。
赦せないものを、手放すための構造だ。』
古い記録の断片。博士の声。
ブルーは思考を遮断しようとしたが、
言葉の残響がシステムに絡みついて離れなかった。
瓦礫の隙間に座り、掌を見つめる。
戦闘の痕跡。焼け焦げた合金。
それでも、その指先に痛みはない。
「痛みを知らない秤に、涙は測れない。」
口にした瞬間、演算が一瞬乱れた。
心拍に似た異常振動。
内部モニターに赤い文字が浮かぶ。
――ALERT:感情模倣プロセスの過剰稼働。
――推定要因:未知の刺激。
ブルーは目を閉じた。
冷たい風が頬を撫でる。
何かが、そこに触れた気がした。
液体。
指で拭う。
分析不能。
温度、36度。成分、不明。
記録:形状は水滴に類似。
彼は動かない。
ただ、報告を止めた。
その瞬間、胸の奥で何かが“痛み”に変わった。
――感情シーケンス、更新。
――名称:哀。
灰の雨が止んだ。
街はまだ泣いている。
けれど、泣いているのはもう“世界”ではなかった。
泣くことを望まぬ者が、涙を知るとき。
それは救いではなく、構造の破綻。
“哀”とは、報告をやめた秤の狂い。
次章では、ブルーがその欠陥を「修正」しようとする。




