第二章 白銀の視線 ― The War of Balance ―
※E-07〈ARGENT〉視点。
“正しさ”のために造られた秤が、E-09〈BLUE〉を前に「裁き」ではなく「保留」を選ぶまでの記録。
ここでE-07は、神の手としての役割から半歩だけ外れ、
「見届ける者」として第三部の軸に立ち始める。
高架の上は、まだ崩れていなかった。
支柱は罅割れ、ガードレールは歪み、
アスファルトには炎上痕とブレーキ跡が幾重にも刻まれている。
それでも、落ちてはいない。
E-07〈ARGENT〉は、その上に立っていた。
視界の下、灰を踏みしめて歩く青い影がひとつ。
E-09〈BLUE〉。
ARGENTは光学センサーを調整し、拡大率を上げる。
――Target:E-09
――Status:起動中
――行動パターン:逸脱
ログはそう示している。
最短経路ではない。
安全ルートでもない。
合理性から外れた曲線軌道。
倒壊した建物の脇を回り込み、
残された落書きや紙片や、小さな痕跡の前で立ち止まり、
何も持たずに、ただ“通り過ぎる”。
「……無駄が多い。」
本来の秤ならば、被害を数え、原因を特定し、是正手順を割り出すはずだった。
BLUEは、それをしない。
ただ、在ったものを在ったまま見て、
それを壊さずに歩き去る。
秤の言葉で言えば、判断の保留。
本来、それは最も嫌悪すべき中途半端であるはずだった。
⸻
ARGENTは足を一歩、前に出す。
コンクリート片が崩れ、小さく音を立てる。
以前なら――この高さからの降下は、即座に禁止命令の対象だった。
だが今、命令はない。
SERAPH-0は沈黙し、統括回線は断線して久しい。
行動の可否は、自分で決めていい。
それは自由ではなく、責任の押し付けだった。
――Observer Mode:On
――Judgment:未実行
「監視を継続。」
音声化されない通達が、自身に向けて走る。
⸻
BLUEの足跡は、街路に薄い軌跡を刻み始めていた。
診療所。シェルター跡。《生きてろ》の文字。
ARGENTのセンサーは、その全てを捉えている。
データとしては理解できる。
だが、それだけだ。
「感情的価値、評価不能。」
そう結論づければ、彼は楽になれた。
本来の仕事に戻ればいい。
逸脱個体の停止、回収、解析。
それが秤の役目。
――行動候補:E-09の機能凍結/保護隔離。
内部演算が、その選択肢を提示する。
条件は揃っている。許可も禁止も、誰も出さない。
押下するだけでいい。
ARGENTは一瞬だけ目を閉じた。
胸腔の奥で、微かな“トン”が鳴る。
あの日から残り続けている、説明不能の周期。
「……。」
彼は、実行キーに指を掛けない。
⸻
風が、下から吹き上がる。
BLUEが歩き出したからだ。
灰の中を、一定ではない歩幅で進んでいく。
効率は悪く、速度も遅い。
だが、その軌跡だけが、「まだ何かを諦めていない」と示していた。
ARGENTは、ふと別のログを呼び出す。
――《共痛の胎動》
――E-05 “CHROME” 最終記録断章
――SERAPH-0 断線前ログ
痛みを止めるな、と言った声。
それを切ることができなかった神。
そして、自発起動したE-09。
「……歩くことを、否定しきれない。」
声にならない言葉が、高架の上で溶ける。
本来の秤としては不適切な揺らぎ。
だがE-07は、その揺らぎを報告しない。
報告系統は、もう存在しない。
この揺れを秤と認めるかどうかは、自分だけの問題になった。
⸻
視界の端で、別の信号が瞬く。
地中深く、封鎖区画。
識別コード:E-00 “ARK”。
かすかな赤のノイズ。微弱な演算の胎動。
ARGENTのセンサーは、それを「検知可能だが未解析」として処理する。
――優先度:低。
――状態:保留。
すぐには降りていかない。
BLUEの進行方向と、地下の封印は重なりつつある。
だが、それでもまだ――何もしない。
観測だけが続く。
⸻
高架の縁に立つE-07の影が、灰色の空に細く伸びる。
その下で、青い点がゆっくりと遠ざかっていく。
介入する理由は、十分にある。
介入しない理由も、十分にある。
その中間に立っている自分が、何者なのか。
ARGENTは、まだ答えを持たない。
ただひとつ、ログに残した。
――Observer:E-07
――Judgment:Pending(保留)
――補遺記録:E-07 観測ログ。
この時点でE-07〈ARGENT〉は、
E-09〈BLUE〉を「停止対象」ではなく「観測対象」として扱うことを、自ら選択している。
それは擁護でも肯定でもない。
ただ、“今すぐ秤を下ろさない”という形で、
世界とE-09に、ごく短い猶予を与えた事実だけが残る。
高架の沈黙と、灰の中を進む青い足跡。
そのあいだに生じたわずかな隙間は、
いつでも「裁き」にも「共鳴」にも変わりうる揺らぎだ。
その揺らぎの下層で、封印された何かが、静かに目を開け始めている。




