逃げた令嬢
「コールドウェル公爵令嬢エリザベス、貴様、アリスに何をした!」
私の婚約者である王太子ウォーレン殿下は、私を睨みつけてそう言いました。
ここは王立貴族学院の廊下です。
ウォーレン殿下の怒声に、その場に居合わせた生徒たちは何事かとこちらを振り向きました。
足を止めて見物を始める生徒もいます。
「何のお話でしょう?」
私は小首を傾げてウォーレン殿下に問い返しました。
ウォーレン殿下は眉を吊り上げ、物凄い剣幕で私を糾弾しました。
「エリザベス、貴様はアリスに嫉妬し、公爵家の力でアリスに圧力をかけたな!」
アリス嬢というのはバード男爵のご令嬢で、ピンク髪の大変愛らしい少女です。
彼女は、平たく言えば、ウォーレン殿下の浮気相手です。
そのアリス嬢が退学しました。
ウォーレン殿下はそれを私のせいだと決めつけているようです。
「私は何もしていません」
「アリスが突然退学したのは、貴様が公爵家の力を使い脅したからだろう!」
「身に覚えのないことでございます」
本当は、身に覚えは、大いにありますけれど。
悪い事をしたとは思っておりません。
◆
私と王太子ウォーレン殿下は婚約をしております。
ですがウォーレン殿下は、王立貴族学院で知り合ったアリス嬢と親密になりました。
ウォーレン殿下とアリス嬢は、恋人同士のような付き合いをしていました。
そのような状態の二人を放っておいてはいけないと思い、私は意を決してアリス嬢に声を掛けました。
だってアリス嬢が可哀想だったのですもの。
私の心が健やかであるためにも、アリス嬢ときちんとお話をすべきだと思ったのです。
「バード男爵令嬢、お話したいことがあるのだけれど……」
「わ、私も、コールドウェル公爵令嬢にお話が……」
私が声をかけると、アリス嬢は真剣な眼差しで私にそう言いました。
そして二人だけでお話をする機会を得ました。
お互いに話しやすいように、名前で呼び合うことにいたしました。
「エリザベス様、お願いします、ウォーレン様との婚約を解消してください」
まずはアリス嬢のお話から聞きました。
「ウォーレン様を解放してあげてください!」
「ウォーレン殿下との婚約を解消して、解放されたいのは私のほうです」
「だったら、ウォーレン様と婚約解消してあげてください」
「もちろんコールドウェル公爵家から王家に、私とウォーレン殿下との婚約の解消をお願いしているわ」
「え? 解消してくださるんですか?」
アリス嬢は喜色を浮かべましたが、私は頭を振りました。
「こちらがお願いしても王家が承諾しないから、婚約解消がまだできていないのよ。婚約を解消してくれないのはウォーレン殿下のほう。王家のほうなのよ」
そう答えた私に、アリス嬢は少し不思議そうな顔をして言いました。
「エリザベス様はウォーレン様を愛していらっしゃるから、婚約解消を承諾しないのではないのですか?」
「一体誰がそんなことを言っているの?」
「ウォーレン様が言っていました」
「……」
ウォーレン殿下は、私に愛されていると思っているのでしょうか。
婚約を打診して来たのは王家のほうで、こちらはしぶしぶ承諾したというのに。
国王陛下から説明を受けていらっしゃらないのでしょうか。
私は呆れながらも、アリス嬢に言いました。
「私の父コールドウェル公爵に確認すれば解ります。お父君のバード男爵に、私の父コールドウェル公爵に確認してもらいなさい」
「だって、ウォーレン様は……。エリザベス様が婚約を解消してくれないって……。エリザベス様がウォーレン様に執着しているからって……」
「王太子殿下の結婚相手を決めるのは、国王陛下よ。私じゃないわ。王家との婚約に私の望みなんて関係ないの」
「……!」
アリス嬢ははっとした顔をしました。
王太子の結婚は、私の一存では決められないことを解っていただけたようです。
「私がアリスさんに話したかったのも、その件についてよ。ウォーレン殿下がアリスさんと親密にしている件も添えて、こちらは王家に婚約の解消を願い出たの。そしたら王家は『学生時代の火遊びくらい許してやってくれ』と言って婚約解消に応じなかったのよ」
「……」
顔色を悪くしたアリス嬢に、私は念を押すように、大事な部分もう一度言いました。
「ウォーレン殿下とアリスさんの関係を、国王陛下は『学生時代の火遊び』と言っていたの」
「そんな……酷い……」
可哀想なアリス嬢は悲愴な表情を浮かべました。
アリス嬢が見ている美しい夢を壊してしまうことには気が引けますが。
真実を知らなければ、現実が悲惨なことになりますから、知ったほうが良いでしょう。
「少なくとも国王陛下は、アリスさんのことをウォーレン殿下の火遊びの相手としか見ていないわ。だって国王陛下は、私とウォーレン殿下を結婚させるおつもりですもの。ウォーレン殿下は学院を卒業したらアリスさんと別れるか、もしくは、アリスさんを秘密の愛人するか、どちらかでしょう」
既婚の夫人を愛人にすることは、不道徳ではありますが、大人の関係として見逃されます。
国王であれば、愛人である既婚夫人に公妾という身分を与えることもできます。
教会の反発はありますが、大人の事情で概ね黙認されています。
しかし未婚の貴族令嬢を愛人にしたとあっては大問題です。
国王であっても皆に一斉に非難されるような非道で不埒な行いです。
それをするとなれば秘密にせざるを得ないでしょう。
「そんな……だって……」
「可哀想に……」
私はアリス嬢に同情しました。
アリス嬢はバード男爵が平民の愛人に生ませた庶子で、男爵家の養女です。
バード男爵は、美しく育ったアリス嬢を政略結婚の駒とするために正式に養女にしたという噂です。
アリス嬢は男爵家の養女になる以前は、平民として暮らしていたと聞いております。
それで貴族の常識に疎いのでしょう。
アリス嬢は愕然とした表情のままで、私に言いました。
「エリザベス様と婚約解消ができたら、私と結婚してくれるって、ウォーレン殿下は言っていました。私と結婚したいって……」
「そのことをウォーレン殿下は、貴女のお父君バード男爵に伝えているの?」
「それは、まだですが……」
「本当に結婚する気があるなら、父親に了承を得るはずよ」
「……そ、それは、まだエリザベス様と婚約解消ができていないからで……。婚約解消したら、きっと……」
「ウォーレン殿下が本気でアリスさんと結婚する気があるなら、バード男爵にきちんと話を通しておくはずよ。ねえ、アリスさん……」
私はずっと気にかかっていたことを言いました。
「貴女がウォーレン殿下と二人で街歩きをしているという噂、本当ですの?」
「何回か一緒にお出掛けしました。でも、やましいことはしていません!」
「アリスさんのお父君バード男爵は、ウォーレン殿下がアリスさんを連れ出すことを了承しているの? バード男爵は知らないのではないかしら?」
「……」
アリス嬢は黙りこくりました。
やはり父親には内緒で、ウォーレン殿下と付き合っていたのですね。
「平民育ちの貴女は知らないのかもしれないけれど、貴族の娘は、未婚のうちは父親の承諾なしに男性と出掛けたりしないの」
平民の娘は異性と気軽に出かけると聞きます。
平民には貴族のように護衛や使用人がいないので、信用のおける男性と一緒のほうがむしろ安全な場合もあるそうです。
平民育ちのアリス嬢は、異性と出掛けることを何とも思わなかったのでしょう。
「恋人とデートしている令嬢は他にもいます!」
「それは婚約者同士でしょう。婚約しているということは令嬢の父親が承知しているということよ。婚約していなくても、令嬢の父親に了承を得てエスコートしているはずよ」
私は貴族の常識をアリス嬢に教えてあげました。
「貴族社会ではね、父親の承諾なしに未婚の娘を連れ出すなんて有り得ないことなの。結婚前にそんなことをした娘には、悪い噂が立ってしまって、まともな結婚ができなくなるのよ。父親の目を盗んで娘を連れ出すなんて、不埒者がすることなの」
「……」
「ウォーレン殿下に、お父君のバード男爵に会って欲しいと頼んでごらんなさい。ウォーレン殿下がアリスさんと本気で結婚しようとしているなら、バード男爵にアリスさんとお付き合いする許可を願い出るはずよ」
その日のアリス嬢との話はそこで終わりました。
しかし、その二日後、私は再びアリス嬢とお話することになりました。
悲愴なお顔をした、可哀想なアリス嬢と……。
◆
――アリス嬢とお話をした、その二日後。
「エリザベス様、お話したいことが……」
アリス嬢のほうから、私と話がしたいと言って来ましたので、再び二人だけでお話をしました。
「お父様に、私と結婚するつもりだということを言って欲しいって、ウォーレン殿下にお願いしました。そしたら……」
アリス嬢はどんよりとした暗い表情で、ウォーレン王太子とのやり取りを話してくれました。
「まだエリザベス様との婚約解消ができていないからって……断られました。婚約解消ができたらきちんと言うからって……。エリザベス様が婚約解消に応じないから、困っていると……」
「こちらは王家に、婚約解消を願い出ている状態なのにね……」
アリス嬢の話に、私はつい溜息を吐いてしまいました。
「アリスさんは、ウォーレン殿下と結婚したいと思っていらっしゃるの?」
「……解らなくなってしまいました……」
アリス嬢は虚ろな眼差しで言いました。
「殿下のことは好きです。でも殿下は私のこと……本気ではないですよね……」
「ウォーレン殿下がアリスさんを好きだという気持ちは本当だと思うわ。恋をしているのでしょう。でもそれは自分のための恋愛ね」
相手のことなど考えず、ただ感情的に気分良くなるためだけの恋愛。
恋愛とはそういうものなのかもしれませんが……。
「ウォーレン殿下はアリスさんの幸せは考えていないわ。バード男爵の承諾を得ずアリスさんをこっそり連れ出して、街歩きをして、アリスさんに身持ちの悪い娘という悪評が立ってもおかまいなしよ。ウォーレン殿下は自分の楽しみのために、平気でアリスさんを傷つけている」
「……え?」
「この間、言ったでしょう。未婚の娘が、婚約者でもない男性と外出したら白い目で見られると。それにウォーレン殿下に婚約者がいることは皆が知っているわ。アリスさんは、婚約者がいるウォーレン殿下に横恋慕する身持ちの悪い娘として周囲に見られているの。この学院でもね……」
「……!」
アリス嬢は何か思い当たることがあったのか、気付いたような顔をしました。
「ウォーレン殿下が今なさっていることはアリスさんの評判を下げることよ。仮にウォーレン殿下が私と婚約解消したとしても、アリスさんとウォーレン殿下の結婚を国王陛下は認めないと思うわ。だってアリスさんは男爵家の養女で身分が足りない上に、悪評が立ってしまっているのですもの。アリスさんに悪評が立った原因はウォーレン殿下にあるけれど……」
「……」
「身分もなく評判も悪い娘という状態では、王族との結婚は無理よ。貴族との結婚も難しいと思うわ。アリスさんが、ウォーレン殿下との恋は火遊びだと割り切っていて、世間に身持ちの悪い娘と罵られてもかまわないというのであれば、付き合い続けても良いと思うけれど……。そうでないなら、もうお止めなさい」
「……」
可哀想なアリス嬢はその可憐な顔を歪めて、言葉を失くしてしまいました。
「アリスさんはウォーレン殿下とのお付き合いのことを、お父君のバード男爵に打ち明けましたの?」
「いいえ、まだ……」
「お父君に相談なさい」
その翌日、アリス嬢は学院をお休みしました。
そしてそのまま退学しました。
おそらくアリス嬢は、ウォーレン殿下とのお付き合いについてお父君に相談したのでしょう。
そしてお父君の判断で学院を退学して、ウォーレン殿下から距離を取ることにしたのでしょう。
◆
「アリスが退学する理由はない。嫉妬に狂った貴様が圧力をかけた以外に理由があるものか!」
アリス嬢が退学したことを知ったウォーレン殿下は、私が何かしたと決めつけて、私を糾弾しました。
たしかに何かしましたが。
でもアリス嬢の退学の原因は、ウォーレン殿下にあります。
「ウォーレン殿下……」
私は呆れの溜息を呑み込むと、真摯な態度を装って言いました。
「アリス嬢のことでしたらバード男爵にお尋ねください。私が公爵家の力を使ったとお疑いなら、我が父コールドウェル公爵にお尋ねください。私もアリス嬢も、父の許可なくして勝手ができる身ではありません。どうか父にお尋ねください」
「……」
父親に尋ねるようお勧めするとウォーレン殿下は怯みました。
女相手には強く出られても、その父親には言えないのでしょうか。
「婚約者のくせに私とは話ができないというのか!」
ウォーレン殿下が婚約状態を盾になさいました。
なので、こちらも少し言わせていただきますね。
「こちらは婚約の解消を願い出ている立場です。ご容赦くださいませ」
◆
私の父コールドウェル公爵は、アリス嬢のお父君バード男爵と足並みを揃えて、ウォーレン王太子の不品行について王家に抗議しました。
そうして私とウォーレン王太子との婚約は解消されました。
しかしやはり、ウォーレン王太子が私と婚約解消したからといって、アリスさんと婚約するわけではなく。
アリスさんには王家から慰謝料が支払われました。
「エリザベス様、私、商家にお嫁に行くことになりました」
「おめでとう、アリスさん。でもそれで良かったの? もし貴族との結婚を望んでいるなら、私も何かお手伝いできてよ」
「お気持ち嬉しく思います。でも、私はやっぱり貴族は向いていないと思うんです。父が私を正式な養女にしたのは貴族と結婚させるためだったらしいですけど……。今回のことで懲りたみたいです」
アリス嬢は小さく肩を窄めました。
「それに貴族になったらウォーレン様と顔を合わせることになります。それもちょっと気まずいというか……」
「その心配はなくなるかもしれないわよ? 第二王子殿下を王太子に推す声が大きくなっているから」
「そうなのですか?!」
「ウォーレン殿下はアリスさんのことで評判が落ちて、私と婚約解消したことで後ろ盾も無くなったの。第二王子殿下はご優秀だから、もともと第二王子殿下を王太子に推す声はあったのよ。それが今回のウォーレン殿下の失態で、一気に第二王子殿下を支持する貴族が増えたの」
「あらまあ……。ウォーレン様ったら、私と恋愛なんてしている場合ではなかったですね」
アリス嬢はあっけらかんと言いました。
もうウォーレン王太子への気持ちは吹っ切れているように見えます。
「私の嫁ぎ先の商家は、貴族向けの小物も売っているんです。エリザベス様、今度持って来るので見ていただけませんか。もし気に入られた品があればプレゼントします」
「お気遣いは無用よ」
「いいえ、プレゼントしますので、その代わり宣伝してください」
アリス嬢はちゃっかりとした笑顔で片目を瞬いて見せました。
「そういうことね。解ったわ。持って来なさい」
「ありがとうございます。ところでエリザベス様のほうはどうなのですか?」
「何が?」
「縁談です。エリザベス様は飛ぶ鳥落とす勢いのコールドウェル公爵家のご令嬢ですもの。引く手数多だと聞いております」
「まだ婚約解消したばかりだから、大きな声では言えないのだけれど……」
私は声を顰めて、アリス嬢に教えました。
内定しているお方のお名前を。
「さすがですね、エリザベス様」
「まだ内緒よ」
「おめでとうございます!」