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5 夕暮れ

 私は階段を駆け下り、スマホを掴んで外に飛び出した。町は夕暮れに包まれていた。空の中央、オレンジと藍が混じりあうようなところを縫うようにして、カラスが飛んでいた。入道雲が影になって、雲の端だけがオレンジに燃えていた。夕焼け小焼けのメロディーが、古びたスピーカーから響いていた。虫と蛙の合唱が耳を覆う。当てもなく田舎道を歩き、河川敷沿いの道にたどり着く。長く濃い影が私の後ろに伸びていた。

 四年間は長い。されど、四年だ。彼の連絡先は非表示にはなっていて見えなくなっているものの、完全に消えたわけではなかった。この暑いのになぜか冷たくなった指先でスマホを開く。直近で別れた元彼氏からの連絡を読むことなく非表示する。そしてそのままの勢いで非表示リストから、彼の連絡先を復活させる。

 謝りたかった。あんなに想ってくれていたのに、それを理解できなかった自分の幼さと不誠実を詫びたかった。

 心臓が脈打っている。ああ、この気持ちが四年前に私の心で起きていてくれたらよかったのに、と私は思う。胸の奥底から、愛しさが湧いてくる。ありがとうと言いたい。こんなに君が素敵な人だったなんて、それに今気づいただなんて。私はなんて酷い女なんだろう。君のおかげで私は愛について考えるきっかけをもらえました。君からもらった感情をずっと心に持っていることができました。

 通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴る。心臓がうるさかった。喉が渇いていく。待って、最初に何て言おう。

 初めて告白された日の事を唐突に思い出す。あの日は家族が全員寝た後に彼から電話がかかってきて、それから、面と向かっては恥ずかしくて無理だから、と電話口で告白されたんだった。一生懸命に、たぶん前から考えて来たんだろうセリフを誠実に伝えようとする必死さに、私は付き合うのを了承したんだ。彼も今の私と同じ気持ちだったんだろうか。気がおかしくなるくらい緊張して、手の汗でスマホが滑りそうだから両手で支えなければならない。

 呼び出し音が止まる。私の心臓は握りつぶされたようにぎゅうと痛む。待って、まだ最初に何を言うか決めてないのに。勢いのままかけてしまったから、心の準備が必要なのに。今私は立っているのか座っているのか、自分の状態もろくに把握できず、微塵も余裕のない頭は湯気が出そうなくらい無駄なエラーを吐き散らして限界直前の警告音を鳴らしていた。でも、緊張と同じくらい、彼の声をこの耳で聞くことができることに心が高鳴っていた。

『はい、もしもし』

 息を止めて、永遠とも思えるほどに長い、しかし時間にしておそらくコンマ数秒の沈黙の後で、声が聞こえた。

 あ、れ……?

 四年ぶりの彼の声は、期待したよりもずっと「普通」だった。彼からは、かけて来た相手が私だということをわからない。冷静で、落ち着いていた。彼の声を私はもうとっくに忘れてしまっていて、私の中には初めて彼が電話で告白してきたときの声の記憶しかなくて、いや、たぶんその時の記憶もそこまで残ってなくて、だから私は頭の中で補完した。思い出を補完して、なんならおそらく脚色していた。熱の行き場所を失って呆けたような私に、彼は言う。

『あの、どちらさまですか』

 どこにでもいる、丁寧で穏やかな男子大学生の声だった。私が今さっき心臓がねじ切れるほど期待した、あの切羽詰まったような、持て余した愛を必死にぶつけてくるような青くて若い声の面影はどこにもなかった。ただ、今日を平静に生きている、リアルな男がいるばかりだった。

 ぱたり、と腕の力が抜けて、私はスマホを耳から離した。電話が切れる。

 冷静になれば、それはそうだった。彼がいつまでも最大の緊張の瞬間のままで生きているわけがない。彼には私が見ようともしなかった側面が当たり前にたくさんある。四年も経てば、一人の風変わりな元カノのことなど忘れ、自分の人生を生きている。私は彼の感情を頭の中で創り上げ、それを理解したつもりになっていただけだった。

 急に何か気持ち悪いような気がして、私はスマホを投げ捨てた。その場にしゃがみこむと、目の前には黒々と伸びた私の影があった。

 私が愛しく思っていたのは、結局物語だったのだ。彼との高校時代のささやかな交流が、やっと私の中で、不変の決して書き換えることのできない過去、戻ることのない隔たった物語となった。それを愛しただけだったのだ。物語に登場する彼は、物語に登場する私を好きで、それは、今現在の私を変わらず好きでいるということではない。だってそんなの当然だ。物語は終わっているんだから。今現在の彼は、今現在の彼の物語の登場人物である女の子を好きになる。そうじゃなきゃおかしい。物語の彼と現実の彼を危うく同一視しそうになり、そのギャップに勝手に気持ち悪さを感じた。

 ぽたぽたとひび割れたコンクリートに染みが出来ていた。私が四年かけて理解したのは、他人の感情じゃない。結局自分自身のことだった。自分自身の頭の中から抜け出せずに、自分が美しいと思うものを、過去を脳内で脚色して物語にすることで理解しようとしただけだ。

 やっと気づいた。私は、終わるものを美しいと思う。もうどうしようもなく改変が不可能な、唯一性を崇拝する。古い絵が好きだ。もう変わらないから。それはオマージュされ、歴史の中で伏線みたいに何度も再会する。推理小説が好きだ。登場したアイテムはすべてクライマックスでまた現れ、一つの秩序ある謎解きにまとめ上げられる。完結した芸術作品は全部好きだ。起承転をすべて通って、きちんと結で結ばれる。

「ああっ、綺麗だなあっ」

 ひょっとしたら、彼の告白シーンも、夏祭りのワンカットも、全部私の妄想なのかもしれない。本当はそんな綺麗な思い出なんかなくて、その時適当にシャッターを押した写真を、後から脳内で加工して美化しただけなのかもしれない。そうして現実という素材を使って作った物語を、頭の中のアルバムにしまい、何度も見返しては、作品との再会に気持ちよくなっていただけなのかもしれない。

 でも、私はそれでいいと思っているのだ。不変の物語は美しいから。私は今を大切にできないから、今誰かにもらっている愛もわからない。時間が経ってその出来事が物語になって、私が過去を振り返った時のみ、その美しさがわかる。私の寂しさはほかならぬ私のせいで、永遠に満たされることはない。でも、その寂しさすら、完結した後の美しさの一端を担っていた。完結は寂しい。でも、完結しなければ美しさはわからない。

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