4 故郷
旧友と再会した次の日の午前、私は旅行の残りを切り上げて東京に戻った。どうにもあの瞬間以来、彼の事が頭にこびりついて消えなかった。直近の元彼氏のことはどうでもよくなっていた。部屋の中を探したが、大学入学と共に上京し、一人暮らしを始めたワンルームには、高校時代の欠片など残っておらず、ただ本とDVDケースと埃だけが堆積していた。
私は両親に連絡を取り、ボストンバッグの中身を大して入れ替えることもなく、次の日には実家に帰省した。
蝉の鳴く河川敷沿いは、来週に迫った祭りを飾る灯籠が延々と吊り下げられていた。海のないこの町は、代わりに川の音と、蛙の死体がアスファルトで干からびた匂いがしていた。
「ただいま」
実家の門をたたくと、母がすぐ出てきた。
「珍しいわね、あなたがこの時期に帰ってくるなんて。大学生になってからというもの、サークルやら勉強やらバイトで忙しそうにしてたじゃないの」
母は良く冷えた西瓜と麦茶を出してきた。
「サークルは四年だからもう引退した。バイトも辞めたし、授業もないから今は暇なんだ」
私はリビングのテレビでゲームをしている高校生の妹をちらりと見る。素早い動きでテトリスをしていた。
「父さんと一緒で、どうせ本ばっか読んでるんでしょ」
妹がテレビから目を逸らさず言う。
「ゲームばっかりよりは活字のほうがいくらかましでしょう。あなたはもうちょっと本を読むようになってほしいんですけどね」
母の皮肉に妹は肩をすくめる。
「長い話は集中続かないんだよね」
私は西瓜と麦茶を食べ終えると、二階の自室に入った。正月などに帰省しても、ほとんどリビングで過ごすので、一人暮らしを始めてからは滅多に自分の部屋に入ることはなかった。母が掃除してくれているのか、埃っぽい感じはせず、むしろ私が普段住んでいる東京のワンルームの方が不衛生なような気さえした。冷房を入れていないので、少し籠った空気が暑い。私は棚を一つずつ開けていった。
「あった」
菓子の入っていた箱の中に、一組のピアスを見つけた。一昔前のデザインで、ゴールドの花があしらわれている。もらった当時は古臭いと感じ、さらに金色は自分に似合わないからとあまり身に着けることのなかったピアスだったが、今見ると、おそらく人世代上の女性のアドバイスをもらったうえで慎重に選ばれた上等なものだったのかもしれないと私は思った。
そういえば彼はあまり美的なセンスが無かった。デートの時も着る服がどこか慣れていない感じが抜けず、普段は無頓着だった。美術館に行ってもパンフレットの説明書きばかり読み込んでいたし、絵心も無かった。好きな小説や映画もまともに答えられず、当時の私は軽く失望のようなつまらなさを覚えていた。恋愛的に好きになれないのなら、そこが駄目ならあとはもう趣味のあう友達として接していくよりほかに、彼と関係を維持する理由がどうしても見いだせなかったのだった。美的なセンスが一致しないというのは私にとって十分致命的な相性の悪さに思えた。
「帰ってたのか」
手のひらにそれを乗せて眺めていた後ろから声をかけられて、私は慌てて手を握った。
父だった。両手に本を抱え、分厚い眼鏡をかけている。去年の正月に会った時よりも少しレンズが厚くなっているような気がした。父は小説家だった。私は専らミステリーやサスペンスばかりを好んで読むので、純文学を書く父の作品についてはあまりよくわからなかったが、父の集めた大量の本と、地下の巨大な書庫が私を読書好きにしたと言って間違いない。読書は私の感性を育て、人よりも多少は美しいものへの反応が敏感になったのではないかと思う。
「夏祭りに誘われたから」
「そうか」
父はそのまま階下に降りていこうとしたが、階段の手前でふと足を止める。
「着ていく浴衣はあるのか」
浴衣という言葉にまた、記憶が少しずつ思い出される。
「いや、浴衣は着ないつもり」
父は少し黙る。父の書斎に、あの夜、私が祭りに出かける前に、浴衣を着て家の前で撮った写真が飾られているのを、私は知っている。幼稚園の時から、小学生、中学生の頃の私が浴衣を着て姉妹や家族で映る写真もある。
「……違う色とかでも着ないのか」
「ううん、もう着ない」
父は階段を下りて行った。家族には私の恋愛関係について話したことはない。ただ、夏祭りの夜に浴衣でおしゃれをして出かけていく娘を見れば、察するものはあっただろう。並ぶ写真の中で、高校生の私の写真だけが、私一人で映っていた。
大して好きという感情がなかったくせに、夏祭りという文脈に酔わされた私は、浮かれたように浴衣でめかしこみ、彼の隣を歩いた。その状況に催眠のように浮かされていた。彼は私の姿を見て、顔を真っ赤にして口下手に褒めた。私はあの時、そこそこ良い気分になって、多少大胆な気持ちになっていたと思う。りんご飴の赤や、金魚の背を思い出す。彼は美しいものへの感受性は私より欠けていたところがあったものの、それを努力で埋め、私と話しをしようと何度も必死に試みていたのにも気付けないくらいに、一人で祭りという現象を楽しみ、満足していた。彼の顔はもやがかかったみたいによく思い出せない。毎年同じ色ばかりを記憶に塗り重ねているから、自分の心情や祭りの灯の色ばかり覚えているのに。
私は今になってふと気づく。もしかしたらあれは、私が今まで理解しようとしてきた「愛」というものなんじゃないか。
はっとして立ち上がる。菓子箱が膝から転がり落ちて、細かい物が床に散らばった。
私にだって、愛し愛されてみたいという人並みの感情があったのだ。そして、それは最初から与えられていた。ただ、目の前にあるものに気づけなかっただけで。私は彼に何てことをしたんだろう。いつも私は後ろばかりを見て、今をおざなりにしてきた。
当時はわからなかったけれど、今ならわかる。旧友が下半身でものを考えるケダモノと評した男たちではあったが、その時間は、遠回りではあったものの、逆説的に私の中で成果を結んだのだ。彼が私に向けてくれていた感情は、拙く幼かったけれど、あれは確かに愛だった。