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3 浴衣

「あんたが全然連絡しないから、私わりと心配だったんだよ? まあ、どこかで飄々と生きてそうとは思ってたけどね」

 私たちは居酒屋のチェーンに来ていた。まだ日が高いこともあり、店内は空いていた。

「同窓会には顔を出してるじゃん。二年前行った」

「そうじゃなくて、もっと日常の様子のこと。インスタもビーリアルもやってないから全然わかんないよ」

「知ってるでしょ。個人的思い出を他人に無節操に共有するの、苦手なんだよ」

 レモンサワーと餃子を注文する。あの頃はこれがマッチと菓子パンだった。

 旧友は、たまたま親戚の法事に来ていたらしい。落ち着いた色の口紅を引いていた。

「他人全般に興味が薄いの、変わってないね」

「他人に全く興味がないわけじゃないんだけどそう見られる。君のこともちゃんと覚えていたし、会えてうれしい」

 すぐに料理が運ばれてくる。写真を撮る旧友を横目に一口かじると、肉汁があふれ出す。

「美味しい。昔一緒に食べた、あそこの餃子屋のたれの味がする」

「確かにわからんこともないかも。似てるね」

 私たちは餃子を食べながら近況をぽつぽつと交換しあった。私は半年間部屋に籠ってばかりだったので、主に話す内容は大学一年から三年までの三年間についてだった。旧友は地元の商店に就職し、順調に仕事を頑張っているようだった。

「そういやさ、最近あんたの高校時代に付き合ってたあいつと会ったよ。夏だから実家に帰省しているのかも」

 彼は高校時代に出来た私の最初の恋人だった。

「そう。元気そうだった?」

「大学の研究とか忙しいらしいよ。そういえば、最近はいい男はいないの?」

「いや、何人かと付き合ったけど大して面白くなかった。もう半年くらい一人だよ」

「何人かと? あんたそんなに恋多き女だっけ。高校時代は恋愛にはまるで興味ありませんみたいな顔してたじゃん」

「当時も今も興味ないことは無いよ。彼の告白を受けて以来、巻き込まれる形で興味は持たざるを得なかった。ただ、恋愛の楽しさとかはいまだにさっぱり」

「楽しさを見出そうとして色々試してみた結果、やっぱり一人がいいって結論?」

「ひとりだと割と安定してるかな」

 振り返ってみれば、この半年間は精神的には浮きも沈みもせず、一定のテンションを保っていたように感じる。冗長なエピローグのような。

 旧友がしきりに恋人について聞きたがったので、高校時代の初めての彼の後、大学一年で同じ学科の人と、二年でバイト先の先輩と、三年で直近の元彼氏と付き合ってきたことを一人一人説明した。何人もの男と付き合ってきたと言うと、モテ自慢かと顰蹙を買う可能性があるので、信頼している人以外に滅多に打ち明けることはないが、冷静に考えてみれば、多くの男性と付き合ってきたということは、多くの男性と上手くいかなかった実績があるということに他ならない。私は別にモテているわけではない。人を選ばなければ異性と付き合うことなどは、存外簡単にできるものなのである。世間の人の多くは、自分の好きな人と付き合うことを夢見ているから、付き合うということに特別感を感じているというだけなのだ。私にはその人を好きになるという課程がそもそもわかっていないので、相手に対するこだわりがなく、相手の望む恋人像を把握し、多少のプライドを捨ててそれになりきれば、簡単に関係を構築できた。

「何それ、高校時代のあいつ以外、全員下半身でものを考えるようなクソ男じゃないの。あんた見る目無いよ。さっさと忘れな」

 旧友は竹を割ったように言い放つ。このすっきりとした物言いが私は好ましく思っていた。自分がけなされているのに、どこかすがすがしさすらある。

「とにかく恋愛について場数を踏んで理解しようとしたんだよ」

「あんたが理解したのはたぶん大学生男子の性欲であって、恋愛感情ではないね」

「そうかもしれない。お子様的な幼稚なふるまいだとは薄々自分でもわかってる。とにかく、経験を積んでみてようやく一人でいることの安寧を知った」

 安寧なのだ。恋愛感情について理解しようともがいている時よりも、ずいぶん穏やかに日々を暮らせるようになっていた。自分自身の中で起こる感情の渦は制御しづらく苦しいが、そこから離れて、小説や映画などの物語の海に沈んでいる時は、物語の中の主人公たちの感情の起伏を外から穏やかに眺めていられた。

 緩やかに、これといった起伏もなく、でもゆっくりと確実に下へ向かっていく。

「あんたが努力したのはわかるよ。でもさっきの言葉、私以外には漏らさないようにね」

「品のない女だってことは承知してるよ」

 私のことを客観的に見れば、多くの男性をとっかえひっかえしている股の緩い女でしかない。

「違うよ」

 旧友は私の顔を覗き込んだ。間近でその顔を見て、あ、化粧してる、と私は思った。汗とアルコールの匂いに交じって、化粧品の匂いがした。

「あんたが恋愛感情を知ろうとして色々な男に手を出したきっかけとなった、あいつだよ。あいつはその他の男と違うってまだ気づかないわけ? あんたが愛とやらを理解しようとして空回るのは別にいいけど、彼までそのケダモノたちといっしょにしたら失礼だよ。あいつは純愛だった」

 私は彼を思い出そうとする。確か、制服を着ていたよな、とぼんやり輪郭が見えて、いや、高校生なのだから制服は全員着ていて当たり前なのだと思いなおす。

 旧友はふうと息をついた。

「ごめん、熱く言い過ぎたね。まあ、あの頃はお互い子供だったし、あんたが恋愛をわかんなくても責められないよ。あいつもあんたを好きになって大変だったろうね」

 それは同意する。こんな私を好きになってしまったのはつくづく運のない男だ。

 確かに旧友から言われてみれば、彼は大学生になってから私が付き合った誰とも違っていたような気がする。不器用で、ダサくて、でもまっすぐで誠実だった。そのまっすぐな心にあてられて、私は恋愛感情について知ろうと決意したんだった。結局どれだけ付き合っても、好きという感情が湧いてくることもなく、だんだん気持ちの不釣り合いが目にさわるようになってきた。私は私ばかりが不誠実な気になってきて、それが耐え切れずに逃げ出した。

 もう数杯目になるサワーを注文する。旧友はさりげなく空のジョッキをテーブルの端に寄せ、私が気付かずに落とした食べかすをティッシュで拭った。彼女は昔から本当に気遣いが出来た。人の気持ちを深く想像して、してほしいこと、欲しい言葉を察する能力が高かった。他人の感情を理解するのが下手な私にも、自分で自分を理解できるような手助けの言葉をかけてくれた。彼女が言う言葉を私は昔からずっと信頼していた。彼女が純愛だったというのなら、それは純愛だったのだろうか。

 少しずつ、仕事終わりらしき地元の人たちが店に入ってくる。

「そういえば、今年は地元に帰る予定はあるの?」

 旧友は私の背後に貼られているポスターを見て言った。花火大会の広告だった。私たちの地元でも、かなり規模の大きい花火大会が行われる。

「特に決めてなかった」

「私、花火大会の運営としてちょっと協力してるの。良いスポット教えてあげるから祭りの日、帰ってきなよ。同じクラスだったメンバーにも声かけておくし。うちの地域の祭りはお盆も終わってわりと夏の終わりのほうだから、皆参加してくれると思う」

「花火か。いいかも。しばらく東京のごみごみした祭りばかりだったから」

「久々に浴衣とか来てみたら? あの商店街のお店でレンタルしてさ。気分が上がると思うよ」

 ふいに、火薬の匂いがした気がした。目の前には灯籠の続く石段があり、私の足には赤い鼻緒が見えた。顔を上げると、数段上に彼がいて、白いシャツが世闇に浮かんでいた。空に花が光って、逆光になった手がこちらに伸びている。そのフラッシュバックは、ぞっとするほど、美しかった。

「あ、浴衣は、いいや」

 次の瞬間、私は居酒屋の喧騒の中に戻っている。

「そう? まあいいや。八月三十日だから、戻っておいでね」

 それから私たちはもう一杯だけ飲んで、それから解散した。旧友は親戚の家に泊まるらしい。

 会計を済ませ、旧友に手を振るとき、旧友のその手に指輪が光っていたのに私は気付いた。

 彼女には一生を誓い合った誰かという存在がある。予約していたホテルまで歩く間、宇宙の中でぱっと手を離されたみたいな、唐突であっけない孤独に私は浮かんでいた。彼女は誰かの物語の大きな一部になったんだな、とぼんやり思う。私たちの高校時代の青春ははっきりと終わっていた。彼女との若々しい生活はもう二度と触れることのできない、時間の向こうに隔たったんだ。

 誰かの物語の一部になる方法くらい、ずっと前から知っていた。愛情を理解し、与え与えられること。こんなの常識だ。でもその常識をいまだに理解できずにいる私は、もしかしたら、いや、きっと一生――。

 足が重い。私は今まで、いったい何をしていたんだろう。

 どぉん、と山の向こうで微かに音がする。小ぢんまりとした夏祭りのフィナーレが聞こえる。またあの夏が目の前にある。

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