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1 幽霊

 蝉の鳴く声で目を薄く開ける。カーテンの隙間から朝日とはとても呼べないような、暴力的な光が瞼の上に注いでいた。もう一度目を瞑り、夜のうちに足元まで蹴り飛ばしていたタオルケットを頭の上まで引きずり上げる。もう一度淡いまどろみに溶けようとしたが、眠り続けるのにも限界があるようだった。ぴちょん、と耳元で水の音がした。この夏中点けっぱなしの頭上のクーラーが泣いているのだった。

 私は観念してベッドに身を起こした。ぼさぼさの髪からひとりぶんの汗の臭いがした。枕元のスマホを確認すると、午後一時をちょうど過ぎた頃だった。そのままスマホをいじり、興味もないSNSを三十分は巡回した。芸能人が結婚したり不倫したり、政治家が汚職したり、いじめで高校生が自殺したり、交通事故で老人が免許を取り上げられたりしている様子を、どこか他人事のように眺めた。知らないうちに世間は八月になっていた。

 興味のあるニュースもなく、一晩寝た口の中の気持ち悪さに耐えられなくなってきて、ようやく私はスマホを置いた。洗面台まで歩いていき、ぬるい水道水で顔を洗い、歯を磨いた。歯磨き粉を買いに行かないといけないなと私は思う。タオルで顔を拭い、冷蔵庫に張り付けた買い物リストをちらりと一瞥する。字を窮屈に詰め込まれたメモ用紙が、いいかげん次の用紙に移れと言わんばかりにそこにあった。私はメモ用紙を一枚剥がして、マグネットで横に張り付け、次の用紙に歯磨き粉と書き込んだ。

 私はワンルームの狭い部屋に戻り、部屋の中でも割と面積を占めている一人掛けソファーに座り込んだ。リモコンで部屋の照明を点ける。部屋の中に所せましと置かれたカラーボックスには本と映画のDVDケースが汗牛充棟に詰め込まれ、重みで安い合板の段の板が、一つ残らずたわんでいた。照明を点けるのにリモコンを使わなくてはならないのは、単純に、スイッチが本棚で阻まれて押せなくなったからであった。ソファーの下に置かれていたタブレットを取り出し、今日更新の漫画を読む。これは私の毎日の習慣のようになっていた。

「ちっ、打ち切りか」

 だんだん展開が投げやりになり、物語がめちゃくちゃになってきていると数週間前から思っていた漫画が、案の定打ち切られていた。何が、「俺たちの冒険はこれからだ」、だ。終わらないまま消える物語が嫌いだった。物語はすべて、きちんと終わるべきで、起承転結を守らずに終わらないものは物語ですらない。

 私は顔をしかめ、タブレットをソファーの下に投げ込み、床に山積みになった本の山の頂上からしおりの挟まれた本を取る。完結した小説は良い。一冊と言う具体的で一つのものに、起承転結がすべて詰め込まれ、綺麗にまとめ上げられている。ちゃんと終わっている、それが私を安心させるのだった。

 ベッドの方からバイブ音が聞こえ、私の読書の手は止められた。見ると、私の元彼氏からのLINEだった。半年前、私から別れを切り出し、関係は一区切りついたと思われたが、まだ未練がましくデートの誘いをしてきた。未読のまま非表示にして無視を決め込もうとしたが、その誘いの内容に一瞬手が止まった。

『君がいないと夏休みに何にもすることがないんだよ。やっぱり復縁しないか? 君が好きな小説が映画化したから見に行こう』

 調べてみると、昨日から映画が公開されているようだった。今夜は映画に行こうと決め、私は元彼氏のメッセージを非表示にしてソファーに戻った。

 午後から活動を始めたので、本を読んでいるうちにすぐに日は沈み、窓の外は夕闇になった。私は軽くシャワーを浴び、キッチンの戸棚にかろうじて残っていたパスタを茹でて塩と醤油で味をつけ、スマホで近所の映画館のレイトショーのチケットを取りながらむさぼった。パスタ自体は嫌いではないし、特に食にこだわりもなかったので、毎日パスタでも悪くはなかったが、さすがに具が無いのは精神的にも味気なく、映画を見た帰りにスーパーに行くことにした。

 部屋着から簡単なTシャツと短パンに着替え、財布とスマホだけ持って私はほぼ二週間ぶりに玄関のドアを開けた。日は沈み切っているというのにアスファルトから立ち上る暑さはむわっとして、冷房で冷えた腕や足にまとわりついた。結露のように皮膚の表面がべたべたとして、それをゆるゆるとしたぬるい風邪が撫でていった。雲が薄く空を覆っているが、夏の夜空はなぜか薄明るく、都会の住宅街と言うのにうるさいくらいに虫が鳴いていた。

 映画は素晴らしかった。記憶に関するミステリーで、各シーンにちりばめられた伏線がクライマックスで鮮やかに回収される。映画館を出ても余韻で頭がどこかぼうっとしていて、くらくらするような軽い酩酊状態のまま、深夜営業の人気のないスーパーで上の空のまま買い物を終え、ふわふわと同じ道を歩いて帰った。

「幽霊も出なさそうなくらい、明るい夜だね」

 横断歩道を渡っている時、ふとその言葉を思い出した。確かに今日の夜は月に反射した太陽光で月光浴ができそうなほど明るい。直近で別れ話をしたばかりの元彼氏だった。車通りも人通りもない赤信号の真ん中で立ち止まる。

「でも俺は、君が時々幽霊に見える」

 元彼氏は時々私にこう言った。

「本当にここにいるのか不安になるような。ねえ、俺のことをちゃんと好き?」

 私は頭の中のその声を振り払った。好きなわけなかった。そのうち恋愛感情が湧くかと淡く期待しながらずるずると関係を続け、結局好きにならなかった。好きという感情がどのようなものなのか、彼は私に教えてくれなかった。彼から教わった事と言えば、本を読まなくても生きていける人種がいることや、他人の家で皿洗いをしなくても訓練次第で平気でいられることや、夜に短パンで出かけると男は興奮することや、沈黙はとりあえず性欲で埋めておけば間が持つことや、下品なだけのキスは口が疲れることなど、正直どうでもよいことばかりだった。

 ジジッと街路灯に当たった羽虫が音を立てて、私は我に返る。

 ポケットの中に手を入れると、ついさっきまたLINEが来ていた。別れ話でうやむやになった旅行の話。この人は半年も脈のない努力を続けていた。そのせいでまだ私たちの恋愛物語は終わらない。半年間、終わらずにずるずると引き延ばされる連載を見ているようだった。今年私は大学生活は四年目に入り、一年年上の彼は春から社会人になり、私はそこで別れ話を切り出した。なんだかちょうどいい区切りだと思ったのだ。大学で知り合い、一年ほど付き合った。これ以上続けても私たちは刹那的な生処理のパートナーという状態から進むことはないという見通しだった。だいたいいつも私は恋愛がうまくいかない。小説や映画を趣味として久しく、古今東西の様々なラブストーリーも教養として吸収している割に、ちっとも愛や恋などというものがピンと来ていなかった。直近の元彼氏は私の人生で四人目の失敗となる。そもそも恋愛の成功とはなんなのかも理解していない時点で、彼らはいたずらに時間を使った犠牲者なのかもしれない。

 早く終わってくれないかな、と私は思う。終わってくれれば私たちのこれは一つのラブストーリーとして完結し、楽しめるかもしれないのに。映画の余韻に浸っている時に思い出してしまったのが、澄んだ水に一滴の墨汁が垂れたように私の心を曇らせた。高架橋の上を終電車が走っていき、鼻の奥に細く夏の雨の臭いがした。

 三年生までですべての履修を取り終えていた私は春から大学に一度も行っていない。就職活動も終え、まさに人生の夏休みと言ってよいほどの一年間だというのに、このラブストーリーがいつまでも終わらないせいで、スキルアップの勉強や自分磨き、友人との交流や親睦を深める旅行などできることはたくさんあったはずなのに、それらすべてに背を向けて、部屋で本と映画、漫画やアニメなど、半年間も物語に溺れてばかりいた。

 ぬるい夜雨が降り始める。家のドアを開けると点けっぱなしの冷房がさらりと全身を包む。

「あ、歯磨き粉、忘れた」

 しかたなく旅行用のボストンバッグを開け、バッグの中に常備している小さな歯磨き粉を使って就寝前の歯を磨く。

 旅行に行ってみようか、とふと思った。まだ元彼氏との物語が終わらないのは、私がするべきこと、回収すべき伏線が回収され切っていないからなのかもしれない。二人で出かけようと計画していた予定はまだ覚えていた。

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