第1部 第10話 孤高のメス
手術準備室。
白衣を脱ぎ、滅菌ガウンに腕を通すカイの指は微かに震えていた。
(……落ち着け。)
胸の奥で、心臓が速く打つ。
特殊症例――大動脈瘤破裂、搬送までの時間がギリギリ、しかも手術可能なスタッフは不足している。
通常なら助教授クラスが対応するはずだが、
医局は静かに彼を突き離した。
(やってみろ、と。)
ガラス越しに見つめる狸教授。
その隣、助教授がぼそりと呟く。
「……本気ですか?彼はまだ研修医だ。」
「だからこそ、面白いんだ。」
狸教授は微かに笑う。
「駒が駒のままでいられるか、見ものだろう。」
カイは手を見つめた。
(あの夜と同じだ。)
皮膚の奥を走る微かな熱。
脳裏に、患者の全身像が立体的に浮かぶ感覚。
自分の手技が、どの血管、どの臓器、どの動脈にどう影響するか――
計算ではなく、感覚で分かる。
「……いける。」
小さく呟き、目を閉じる。
扉が開き、カイは手術室へと歩き出した。
天城レイは病院屋上に立っていた。
耳元の通信機から、シグの声が届く。
『ナノマシンの制御系、安定。
対象の神経ネットワークと完全同期が始まる。』
「――頼んだぞ、カイ。」
レイは夜空を見上げ、
かつて失われた未来、救えなかった命を思い浮かべた。
手術室。
ライトが照らす中、カイはメスを手に取った。
助教授が入室し、肩を並べる。
「……本当にやる気か。」
「はい。」
カイの声は静かだった。
「ここは俺が切ります。」
助教授の目がわずかに見開かれる。
だが、カイは既に目の前の患部に集中していた。
手が、動く。
鋭く、正確に、迷いなく。
(なんだ、この感覚……。)
刃を入れると同時に、脳裏で患部の血流と修復像が立体的に浮かぶ。
体が勝手に、最適解を選び取っていく。
(これが、ナノマシン……?)
手術室全体が静寂に包まれる。
──それは、奇跡を目撃する空気だった。
狸教授はモニタールームで、薄く笑った。
「理想、か……。」
その瞳の奥に、かつての理想を失った男の影が滲んでいた。
「面白いものを見せてもらった。」