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それからのことは記憶が定かではありません。
居酒屋から誰かに連れられて出たことは覚えています。それが誰だったか。フォル商会の者だったようにも思われますが、はっきりとはいたしません。アルスタス王国の検察官に尋問された気もいたします。医師にも何かを尋ねられました。
ですが、未だにあの時の断片的な記憶がどう繋がるのか、判らないのです。
おそらくわたしは、しばらく狂っていたのでしょう。
わたしがようやく時間の流れを正しく認識できるようになったのは、アルスタス王国の王がわたしを見舞って下さった時です。
『これからどうするの?』
王に問われ、わたしの意識が焦点を結びました。
わたしの顔を心配そうに覗き込まれる王の幼いお顔を見て、
ああ、生きておられた。
と、心の底から安堵いたしました。
人から聞いた話では、狂乱の魔術師との戦いの最中に風神様の戦巫女様が王宮に降り立ち、すぐに逃げるよう命じられ、摂政様が迷うことなくお言葉に従うことを決断し、危ういところで助かったそうでございます。
『狂乱の魔術師を追います』
と、わたしは答えました。
答えて初めて、そうだ、そうするのだ、と、わたしは、わたしの進むべき道を見出しました。
王の問いがわたしに目的を与え、わたしを正気に戻してくれたのです。
これまでの経緯を記した手紙をフォル商会の者に預け、カズイィ様、イス様、フィン様の遺髪と、ようやく見つけたルケアのローブの切れ端、それとカズイィ様がお持ちになられていた短剣とともに、わたしはアースディア大陸の奥地へと足を向けました。
東部諸王国には争いもありましたが、秩序もありました。諸王国を繋ぐ整備された道もございました。しかし、アースディアの西部では、道すらございませんでした。道があっても、何度も途切れていました。
けれどもそこにも国はあり、人の営みがありました。
忘れられぬ出会いもございました。
ルルイ様、イロス様、カァク様。わたしが出会ったおひとりおひとりについてお話ししていたのでは、いくら時間があっても足りません。
あちらでの言葉、でございますか?
はい。
そのことにつきましては、東部諸王国を北上している間にフィン様に教えて頂き、少しは話せるようになっていましたし、意外と身振り手振りで何とかなるものだと、アースディア大陸の西部でわたしも初めて知りました。
もちろん、多少言葉が話せたとしても苦難がなかった訳ではありません。
この指は凍傷で失いました。こちらの傷も、アースディアの西部で受けたものです。ここでお見せすることはできませんが、背中には大きな火傷の痕もございます。ああ、ご存知でございましたか。はい。アースディア大陸の南部にまで踏み込み、そこで危うく夕食として食べられてしまうところでございました。
そうして山岳地帯を越え、大河を越え、陽も差さぬ森林地帯を越え、遂には人もなく、ただ荒れ狂う海しかないアースディア大陸の南の果てへと辿り着き、そこでわたしは、狂乱の魔術師と再び相まみえたのでございます。
『しつこいのぉ。お前も』
まるで世間話でもするかのように、激しく飛沫を上げる海を呆然と見ていたわたしに、狂乱の魔術師は話しかけて参りました。
振り返りますと、ほんの数メートル先の小さな岩の上に狂乱の魔術師が座っておりました。
『せっかく命を拾ったというのに、何の為にワシを追う。ワシが殺したヤツラの復讐でもしようというのか?』
カズイィ様の、イス様の、フィン様の御姿が脳裏に浮かび、身体中の血が息苦しいほどに滾ったのを覚えています。
『はい』
わたしの抑えきれぬ怒りに、狂乱の魔術師も気づいていたでしょう。わたしは大きく息を吸い込み、頷きました。
『復讐するために、追って参りました』
そうわたしは答えました。
わたしの腰には、カズイィ様の形見の短剣があります。この短剣でコイツを突き殺したいという思いに、視界さえ歪みました。
『ですが、貴方様を殺すことが、わたしの復讐ではありません』
怒りを吐き出すようにわたしは告げました。
『ほう』
『何故、”古都”が滅んだのか。それを知り、生きて国に帰ることこそ、わたしの復讐でございます』
『そんなに知りたいか?』
『はい。是非、知りとうございます』
狂乱の魔術師がくつくつくつと嗤いました。
『よかろう。教えてやろう』
意外にも狂乱の魔術師は穏やかな声でそう答えました。
彼が何故、そう答えたのかわたしには判りません。しかし、ルケアが申したように、知りたいというのは魔術師にとって業のようなものです。是非にでも知りたいと答えたわたしに、狂乱の魔術師は自分と同じ業を見たのかも知れません。
『お前は雷神の信徒だったな』
と、狂乱の魔術師はまず、わたしに尋ねました。
『はい』
『ならば、雷神に訊けばいいものを、わざわざこんなところまで来るとはのぉ』
『どういうことでございましょう?』
『”古都”という、あの下らぬ国を滅ぼしたのは他でもない、雷神の戦巫女である、あの雷娘よ』
嘘だ、と思いました。
『何故』
そう問い返したのも、本当のことを言え、と思ったからです。
『雷娘が、バカ。じゃからじゃ』
狂乱の魔術師の答えは、わたしの意表を突きました。
『風神の小娘と雷娘に追われるのもいい加減、飽きてきたからのぅ。聞けば、我が主を信ずる者どもの国があるという。ならば、役に立ってくれるかと行ってみたが、とんだ腑抜けどもじゃった』
『議場と呼ばれる建物の内部だけが酷く荒らされ、焼けていない複数の死体が壁に張りついていたと聞いております』
『ほんの小手調べと思ったら、あの程度の術で皆、死におった。我が主の信徒ともあろう者が情けのないことよ。
シャッカタカーも下らぬ国を造ったものと『ワシのことを殺しすぎなどと言いおって、自分は10万の軍を皆殺しじゃ』と次席とやらに言ったら、『首席が殺したのはその半分にも満たぬわ』とせせら笑いおった。
そんなこと、知っておるわ。
コイツも下らぬヤツ、捻り潰してくれようと身体を乗り出したところへ、風神の小娘と雷娘が乗り込んで来おっての。周囲を見回して、『てめぇ、また無益に人を殺しやがったのか!』と雷娘が叫んだのじゃ。
”古都”の者どもは役に立たん、壁の裏に隠されていた転移陣は潰されておるわで、さて、どうするかのぉと思って、時間稼ぎのために、『無益にと言うがの、ここは我が主の国。壁に張りついているのも、我が主の信徒じゃ』と言うと、あのバカ娘、何と応じたと思う?』
何故わたしに訊くかと『わたしに判ろう筈がございません』と、わたしが首を振ると、
『我が主の御名を口にしたのじゃ』
そう狂乱の魔術師は答えました。
狂乱の魔術師の言葉を意味を、わたしはすぐには理解できませんでした。
『我が主の御名を口にし、--の国かよ、とな』
これまで感じたことがない程の恐怖とともに、理解は訪れました。
冷たい汗がどっと吹き出しました。
そんなことがある筈がないと疑い、反面、あまりにも常軌を逸した話に、わたしは狂乱の魔術師の話が本当なのだと信じてもいました。
わたしたちは皆、惑乱の君の御名を知っております。
誰かに教えられた訳ではありません。
生まれる前から知っていたかのように心に刻んでおります。同時にまた、御名を口にしてはならぬと魂の深いところで知っております。惑乱の君の御名を口にすれば、惑乱の君の呪いによって死ぬ、と知っております。
ですから御名を口にすることはありません。
いえ、そうではなく、懼れがあります。そもそも口にしようという気にはなれない何かが心の底にあります。
『ま、まさか……』
『流石にワシも肝が冷えた。
バカじゃバカじゃとは思っていたが、あそこまでバカだとは思わなんだ。
たちまち我が主の呪いの炎が雷娘を包んだわ。ワシも見るのは初めてじゃ。我が主の名を口にした者に何が起こるかも、あの時に初めて知ったわ。青白く、薄く透き通った冷たい炎が、雷娘の身体中から噴き上がった。
しかもじゃ。とても信じられぬことに、膝をつきはしたが、雷娘は倒れなんだ。低く唸って、立ち上がりおった。
すると近くにいた”古都”の次席が、主の呪いの炎に包まれたのじゃ。呪いが雷娘に収まらなかったのじゃ』
立ち尽くす、というのはああいう状態をいうのでしょう。何も言えず、わたしは凝然と狂乱の魔術師を見つめていました。
『呪いに巻き込まれては大変と、ワシは後ろも見ずに逃げたわ。
風神の小娘が追ってきて、『ジジィ、てめえの術か!』と怒鳴るのに、『お前も判っておろう!』と返したところへ、更に驚いたことに、激しく燃えながら雷娘が議場から出て来た。信じられるか?雷娘は我が主の呪いの炎に包まれながら、ワシを睨んで『待ちやがれ、ジジィ!』と声を張り上げおったのじゃ。
悪夢かと思ったわ。
風神の小娘も愚かにも、雷娘のところへ飛んで帰り、あやつを支えようとして、二人して我が主の呪いの炎に包まれたのじゃ。
ワシはこれまで幾人も雷神、風神の英雄と戦ったきた。
雷娘は、いや、風神の小娘もじゃ、あやつらはこれまでのヤツラとは違うと思ってはいたが、あれほどとは思わなんだ。
まさか二人ともあれで死なぬとは思わなんだわ。
あやつらがワシの前に再び何事もなかったかのように現れた時には、ワシともあろう者が、暫くポカンと呆けてしまったわ。
つまり、”古都”とやらが滅びたのは、我が主の呪いを受けても雷娘が死ななかったからじゃ。それが原因よ。
風神の小娘と雷娘が我が主の呪いを受けて何故、死ななかったか、いや、我が主の呪いの炎があやつらを殺すことなく、何故、収まったかは、ワシも知らぬが--』
狂乱の魔術師はそこで言葉を止め、しばらく考え込んでおりました。
『ワシは知らぬが』
そう言って顔を上げ、それまでと異なり、何やら楽しそうに、狂乱の魔術師がにたりと嗤いました。
『知っていそうなヤツなら、知っておるぞ』
***
「そうして教えてくれたのが、貴女様でございます」
と、キトが言う。
「わたし?」
キトと向かい合って座った”古都”の首席が問い返す。
「はい。ショナの首都、デアの、先程のお屋敷を訪ねれば、貴女様に会えると。貴女様であれば、すべての事情を知っているだろうと。
お願いでございます。
何故、”古都”が滅んだのか、いえ、そうではありません。それは判っております。雷神様と風神様の戦巫女様が受けた呪いの炎が何故、お二人を殺さないまま収まったのか、ご存知であれば、その理由を教えては頂けないでしょうか。
シャ……」
「そこまでよ」
幼い声がキトの声を遮る。キトの前に座っていた”古都”の首席が振り返り、「フラン姉さま」と言う。
キトは口を閉じた。
これまでの旅の経験がそうさせた。
注意深くなければ死ぬしかなかった旅の経験が彼を生かした。
そこにいたのは、10歳ほどと見える少女だった。”古都”の首席の後ろでオレンジジュースを飲んでいた赤い髪の子供だ。しかし、何故だか歳が判り難い。改めて見返してもやはり10歳ほどにしか見えない。見えないが、キトは、何故か、この子は自分よりもずっと年上ではないか、と思った。
「もう宜しいのですか?フラン姉さま」
「ええ。ありがとう、ルル」
”古都”の首席の問いに少女が答える。
「狂乱とその子の接続は切ったわ」