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狂乱の魔術師は行く先々で破壊の限りを尽くしておりましたから、狂乱の魔術師の跡を追うことは難しくはありませんでした。
しかし、わたしたちが追いつくより先に、狂乱の魔術師は西の大洋を越えてしまいました。
西の大洋を越えた先にあるアースディア大陸に渡ったのです。
途方に暮れていた私たちを救ってくれたのは、キャナ王国有数の商人であるフォル商会でした。
フォル商会がアースディア行きの船を出すというので、その船に乗ったのです。
途中、何度もひどい嵐に遭い、もう駄目かも知れないと覚悟を決めながらも、わたしたちは何とかアースディア大陸に辿り着きました。
当初の予定よりもずいぶんと南方です。
貴女様であればご存知のこととは思いますが、敢えて説明させて頂ければ、アースディア大陸の東岸の国々は東部諸王国と呼ばれ、時代により国の数に増減はあるものの、現在は11の国があり、わたしたちが辿り着いたのは東部諸王国の11の国の中でも最南端の国、ラウキャナ王国だと判りました。
フォル商会の船とは、ここで別れました。
彼らは、元々の寄港予定地であるアルスタス王国の王都チャオに海路で向かい、わたしたちは陸路で東部諸王国を北上することにしたのです。
陸路を行くことにしたのはイス様のご提案です。
狂乱の魔術師の手掛かりを求めながら跡を追うには陸路の方がいいだろうというお考えからでした。カズイィ様もフィン様も賛成し、では行こうと街を出たところで、わたしたちは何人もの兵士に取り囲まれてしまいました。
いささか生意気な言い様にはなりますが、正直に申せば、またか、というのがわたしの偽らざる気持ちでした。
旧大陸でも同様のことが何度もありました。
ただ、旧大陸の場合と異なっていたのは、兵士たちの話す言葉が、わたしには判らなかったことです。
『これなら判るよ』
そうおっしゃったのは、フィン様です。
フィン様ひとりが前へと出て、兵士たちに何かを話しかけられました。おそらくは旧大陸から来たと、キャナ王国から来たと伝えられたのでしょう、フィン様が『キャナ』と言われた途端、兵士たちは明らかな驚きを見せました。
何事かと見守るわたしたちの前で兵士たちの一人が慌ただしくどこかへ駆け去り、引かれてきた馬車にわたしたちは乗せられました。
意外にも兵士たちの態度は友好的で、『どこへ連れていかれるのでしょう』と、わたしがフィン様に尋ねると、
『王宮だ』
と、フィン様はお答えになりました。フィン様のお声にも驚きがありました。
『兵士たちは、この国の王はキャナ王国から来たと言っている』
王宮のある王都まで5日ほど馬車に揺られ、その間に、より詳しい事情が判ってきました。
ラウキャナ王国を治める王の一族は確かにキャナ王国の出身ではありましたが、彼らがアースディア大陸に渡ってきたのは500年も前で、以来、当時の王に臣下として仕えてきたものの、100年ほど前に国を揺るがす騒乱があり、民に推戴されて、主である王に代わって玉座についたのだそうです。
兵士たちが友好的になったのには、わたしたちがキャナ王国から来たというだけでなく、別の理由もございました。
東部諸王国とひとまとめに呼ばれてはいても、諸王国同士で争いがなかった訳ではありません。
つい最近まで、ラウキャナ王国も、すぐ北に位置する隣国といくさをしていたそうでございます。
それを止めたのが、狂乱の魔術師の襲来でございました。
キャナ王国でも、狂乱の魔術師の襲来によって百神国とのいくさどころではなくなったのと同じことが、アースディア大陸でも起こっていたのです。
兵士たちがわたしたちに友好的になったのは、彼らと同じくわたしたちもまた、狂乱の魔術師の被害者だったからです。
王都に到着し、わたしたちは王宮で王に拝謁いたしました。
王は、予想外と言うと失礼かも知れませんが、まだ20代後半と思われるお若い方でした。
本来は王になられる立場ではなかったものの、前王や王太子が重臣とともに狂乱の魔術師に殺され、急遽玉座につかれ、皆の予想を裏切り、混乱するラウキャナ王国を見事にまとめられたのだとか。
王は『狂乱の魔術師とは何者なのだろうか』と問われ、わたしたちは狂乱の魔術師について知っていることをお伝えしました。そしてまた、わたしたちが何故、狂乱の魔術を追っているかもお話しいたしました。
キャナ王国に源流があるからでしょう、王は”古都”のこともご存知で、『”古都”が滅んだのか--』としみじみと呟かれました。
そういう事情であればと、王は、わたしたちが狂乱の魔術師を追えるように便宜を図って下さいました。
具体的には、道中を護衛するための兵士をつけて下さり、東部諸王国の各国に対してわたしたちの身分を保証する書状を持たせてくれたのです。
ラウキャナ王国を後に、わたしたちは狂乱の魔術師を追って東部諸王国を北上いたしました。
書状のおかげもあり、道中、トラブルはほとんどありませんでした。
『人は愚かだな』
と、ルケアが独り言のようにわたしに話しかけてきたのは、その道中のことです。
そこは山間の小さな村でございました。
急峻な斜面に見事な石垣の畑が続いてはおりましたが、石垣のあちらこちらが大きく崩れ、多くの人々が崩れた石垣を積み直していました。
わたしたちは狂乱の魔術師にあまりに囚われ過ぎていたのでしょう、石垣が崩れているのは狂乱の魔術師に襲撃されたからかと民人に尋ねたところ、そうではない、隣国とのいくさで崩された、との返事でございました。
人々も隣国とのいくさから逃れていたが、狂乱の魔術師の騒動でいくさどころではなくなり、故郷に戻った人々が石垣を直しているところだったのです。
それを聞いたルケアが、
『人は愚かだな』
と申したのです。
『人がアースディア大陸を発見したのが800年か900年前。たったそれだけの期間で山を切り開き、石垣を組み、こうして見事な畑としたものを、いくさで崩す。
愚かだと思わないか?』
わたしの返事を待つことなく、『だが』とルケアは言葉を続けました。
『たくましい』
わたしは石垣を直す人々に視線を戻し、『はい』と頷きました。わたしの返事が届いていたかどうか、
『“古都“も、復興しているだろうか……』
と、ルケアは呟きました。
あまりに悲しげなルケアの声の響きに、わたしは返事をすることさえできませんでした。
ルケアの心に何か変化が起こったのだろうか。狂乱の魔術師を追うこの旅が、長い道中に出会った幾多の人々との触れ合いが、怒りに擦り切れたルケアの心を癒し、復讐心に囚われたルケアの魂を鎮めたのだろうかと、わたしは思いました。
『わたしにはそうは思えない』
と言われたのは、フィン様です。
『ルケアは、狂乱の魔術師が襲来した際にはキャナ王国にいたが、その前には洲国にいたのだよ。
わたしは外交官という立場から、ヤツとは顔見知りでね。
”古都”の魔術師は魔術研究に関しては真摯だが、周りが見えずつき合いづらいヤツが多い。
だが、ヤツはよく笑った。
不死を売るなどバカバカしい、とも言っていた。
”古都”の魔術師でありながら、な。
わたしはヤツのそういったところが気に入っていた。ヤツを友人だとも思っていたよ、わたしは。
ヤツがわたしのことをどう思っていたかは知らないが。
わたしがこの調査隊に加わったのも、他に行く者がいなかったのは確かだが、何よりルケアのことを放っておけなかったからだよ』
フィン様が以前からルケアをご存知で、友人とまで思っていらっしゃったとは、わたしにとって相当の驚きでした。
しかもその友人のために、帰れるかどうかも判らない調査隊に加わられたとは。フィン様の友情の厚さに驚き、我が身を顧みて己の志の低さ故でしょう、フィン様への畏敬の念さえ覚えながら、
『失礼ながら、わたしには信じられません。ルケアがよく笑っていたとは……』
と、最も驚かされたことを口にしました。
フィン様も浅く頷かれました。
『わたしも別人かと思ったよ。ルケアとキャナ王国で再会した時には。
イス殿もルケアを見かけたことがあるそうだ。調査隊として赴いた”古都”で。ほとんど炭化した幼子の遺体を抱いて、ひとり、慟哭していたそうだよ』
『……』
『--で、』少し前に通り過ぎた街の名を、フィン様は口にされました。『ルケアが誰かと話していたのを見かけた』
『誰か、とは?』
わたしの問いに、フィン様は厳しいお顔をされました。
『誰かだ。姿は見えなかった。建物の陰に立って、姿を隠していた。
おそらくわたしの存在に気づいていたのだろう。
ルケアはその誰かに、ほとんど縋るようにして、笑っていたよ。とても嬉しそうに。だが同時に、とても凶々しく、狂気すら孕んで』
『凶々しく……』
『人を恨むというのは、己自身をも蝕むものだ。肺腑が捩れるというが、深い恨みの念は本当に己の内臓を喰らい、人を壊してしまう。ルケアがまさにそうだ。
ヤツは恨みの念で己自身を焼いている。
わたしには、ルケアが恨みを捨てられると思えないんだよ』
フィン様のお話を聞いて、わたしは腹の奥で不安が渦巻くのを感じました。しかし、わたしはフィン様のお話をまったく理解していませんでした。
その時には、まだ。
狂乱の魔術師を追って東部諸王国を北上いたしましたが、東部諸王国の最北端の国、アルスタス王国の王都チャオに着いてもまだ、わたしたちは狂乱の魔術師の影すら踏むことができませんでした。
アルスタス王国は元々、わたしたちが目指していた国です。
わたしたちはここでラウキャナ王国で別れたフォル商会の人々と再会し、ラウキャナ王国の王が持たせてくれた書状のおかげで、アルスタス王国の王宮に招待され、王に拝謁いたしました。
王はまだ10歳にもならない御方で、母君が摂政として実務を執り行っている、とのことでした。
ですが、幼くとも流石は王です。
『えんぽうより、おつとめ、ごくろうさまです』
と言われた口調にはたどたどしさがありましたが、長旅のわたしたちを労うお優しさと同時に、確かな気品と威厳がございました。
チャオの街に戻り、さて、これからどうしようと迷っていると、
『このまま探せばいい』
と、ルケアが言ったのです。
『そうすればヤツの方から現れる。自分を追っている者は何者か、確かめるために』
『何故、そうはっきり言い切れる』
イス様の問いに、
『ヤツが魔術師だからだ』
とルケアは答えました。
『知らぬことを知らぬままにはできない。それが魔術師というものだ。
我々が追っていることはヤツもいずれ気がつくだろう。いや、もうすでに気づいているかも知れない。だとすれば、ヤツの方から現れる。
魔術師にとって、知りたい、という思いは業のようなものだ。
だから、ヤツは必ず現れる。
我々の前に。
必ず』
カズイィ様もイス様もフィン様も、もはやルケアに、何故、と問い返すことはありませんでした。
カズイィ様がわたしに、『奴隷の身分から解放する』とおっしゃったのは、その夜のことです。
大きすぎる驚きは人から思考を奪います。
大変失礼なことに、わたしは『えっ』と声を上げて、ぽかんとしたままカズイィ様のお顔を見つめていました。
同席されていたイス様の笑い声に、わたしはようやく我に返りました。
『お前でも、驚くということがあるのだな』
と、イス様はおっしゃられました。
『何をおっしゃいます。いつもわたしは右往左往しております』
慌ててわたしが答えますと、
『とてもそうは見えないがな、キト』
とイス様は更に笑われます。
イス様にわたしがどんな風に見えているのか、気にならないでもありませんでしたが、わたしはカズイィ様に、
『何故でございましょう。奴隷の身から解放するのは、キャナ王国に戻ってからのお約束の筈です』と尋ねました。
予想外のことが起こった時に、良くない想像をするのもまた、人です。
『何か、わたしが不始末を致しましたでしょうか。ここでお役御免ということでございましょうか』
と、震える声でわたしは尋ねました。
カズイィ様は優しく微笑まれ、
『そうではない』
と否定され、すぐに笑いを収められました。
『むしろお前には、難しい役目を担って貰わなければならん。その為に、お前を奴隷の身分から解放するのだ』
『どのようなお役目でしょう』
『生きて帰ることだ』
『え?』
『ルケアの言う通り、狂乱の魔術師は、遠からず我々の前に姿を現すかも知れない。もしそうなった時に、我々が無事に済むとは思えない。
だが、キャナ王国には何としても狂乱の魔術師の情報を持ち帰る必要がある。
わたしが生き残るかもしれない。イスが生き残るかもしれない。フィン殿が生き残るかもしれない。そして、キト、お前が生き残るかも知れない。
もし、お前だけが生き残ったら、お前は一人でキャナ王国に帰らなければならない。その時に奴隷の身では、旅に支障があるだろう。
だから、お前を奴隷から解放する』
と、厳しいお顔のままカズイィ様はおっしゃいました。
『皆で、皆で戻ることは--』
『むろん、それが一番良いことだ。だが、おそらくそれは、難しいだろうな』
優しい笑いを含まれたカズイィ様のお声はとても明るく、その裏に、深い悲しみとご覚悟がございました。
わたしの胸の奥で、重く、闇よりも黒い不安が渦巻きました。
愚かにもわたしはこの時になってようやく、キャナ王国に生きて帰れないかも知れないと、確かな実感とともに悟ったのです。
わたしを奴隷から解放するためには、正式にはキャナ王国の役所に届ける必要があります。
しかし、わたしたちがいたのは異国の地です。
とてもそんなことはできません。
そこでカズイィ様がお考えになられたのは、わたしを解放する書類を、キャナ王国に帰るフォル商会の者に預け、それとは別に、わたしの身分証をアルスタス王国に発行してもらうことでした。
アルスタス王国は旧大陸の国々とも国交がございます。
わたしたちがアースディア大陸に渡る際にアルスタス王国を目的地としたのも、それが理由でございます。
アルスタス王国発行の身分証であれば、旧大陸でも十分通用するのは間違いございません。
事実、もし、アルスタス王国発行の身分証がなければ、こうしてここに、ショナに辿り着くことはできなかったでしょう。
王や摂政様のご厚意もあり、10日ほど後に、わたしはアルスタス王国発行の身分証を手にいたしました。
身分証を手にした時の感動は、今でも忘れられません。
それまで知らなかった熱い思いが胸の奥から沸き起こり、わたしはカズイィ様から手渡された身分証を押し頂きました。
カズイィ様はお優しい主人でした。
わたしが何か間違いをしでかしても言葉で叱るだけで、鞭で打つこともなく、とてもありがたいことに、十分な教育まで受けさせて頂きました。
カズイィ様の奴隷であったことを、わたしは辛いと思ったことは一度たりともございません。
しかし、自分でも判らぬ喜びが心の底から溢れて、わたしは声を抑えて泣きました。
『おめでとう、キト』
イス様が言って下さり、フィン様は優しく背中を叩いて下さいました。ルケアもまた『自由というものがどれほど不自由なものか、すぐに判るだろうよ』と憎まれ口を叩いた後、『良かったな』と言ってくれました。
わたしはただ、深く頭を下げることしかできませんでした。
わたしたちが宿泊していた宿の1階には食堂があり、わたしが奴隷から解放されたお祝いをしようと、わたしたちだけではなく、護衛のために同道してくれたラウキャナ王国の兵士たちを含めて、皆で乾杯いたしました。
食堂にはわたしたち以外の旅人やアルスタス王国の市民の姿もあり、随分と賑やかでございました。
乾杯してから30分ぐらい経った頃でしょうか。
不意に、食堂の明かりが消えました。
『何事だ?』
というフィン様の声が響きました。
とても不自然に。
フィン様以外には、わたしたちだけではなく、他の旅人も、アルスタス王国の市民も誰も一言も声を発しませんでした。
明かりが灯り、わたしは息を呑みました。
食堂の様子は一変していました。
ラウキャナ王国の兵士は全員が、死体となっていました。
他の旅人も、アルスタス王国の市民も、ある者は首を失くしたまま椅子に座り、別の者はただの肉片となって壁に張りつき、皆が皆、死んでいました。
そして、積み上げられた無数の死体の上に、小柄で、四角い顔を皺で覆ったひとりの老人が、妖しく嗤った狂乱の魔術師が座っておりました。
両の足が頼りなく、がくがくと震えていたのを覚えています。
死体の上に座った老人が狂乱の魔術師だと、心の中では理解していました。この状況です。他の誰かであろう筈がありません。しかし、その時のわたしは、夢の中にいるよりも尚、夢の中にいるかのようでした。すべてが絵で描かれた幻か何かのように、目の前で起きていることがとても現実だとは信じられずにいたのです。
『何故、ワシを追う』
何重にも重なったしゃがれた声が響きました。
狂乱の魔術師の声でございました。
何本ものパイプが狂乱の魔術師の喉に埋め込まれているのが、何故か鮮明にわたしの目を捕らえました。
ああ、あのパイプがあるから、このように声が重なって響くのか。
他人事のようにそう考えたことを憶えています。
わたし以外の皆様は、わたしのように呆けてはいませんでした。カズイィ様も、イス様もフィン様も、ルケアもまた素早く膝をつきました。
カズイィ様たちが膝をついたことでわたしもようやく我に返り、カズイィ様たちに遅れて慌てて膝をつき、顔を伏せました。
『わたしはキャナ王国の検察官を務めるカズイィと申します。隣にいるのは同じくキャナ王国で外交官を務めるイス、そちらがやはりキャナ王国の魔術顧問のルケア、そしてそちらにいるのが百神国ゴダの外交官、フィン殿です。最後の一人は、随員のキト、と申します。
王命により、魔術師殿にお尋ねしたいことがあり、参上いたしました』
狂乱の魔術師の問いに答えるカズイィ様のお声には、少しの揺らぎもございませんでした。
顔を伏せたまま、わたしは胸が熱くなるのを感じていました。
狂乱の魔術師を前にして少しも恐れを見せないカズイィ様を誇りに思いました。カズイィ様にお仕えしていることを誇りに思いました。
『キャナから追って来たか。ご苦労なことよ』
低い狂乱の魔術師の笑い声には、そんなカズイィ様を侮る響きがありました。
『それで、何を訊きたい?』
『はい』
わたしは顔を伏せておりました。
ですから、それから何が起こったか、正確には知りません。おそらく、カズイィ様は顔を上げ、狂乱の魔術師に視線を向けられたのでしょう。
『何故、”古都”が滅んだのか、教えて--』
『そこで見ているのは、誰じゃ!』
狂乱の魔術師が激しく叫んだ声を聞き、わたしは何事かと顔を上げました。
イス様が『何をする!』と叫び、フィン様は『キト!』とわたしを庇われ、イス様よりもフィン様よりも早く、ルケアの『我が恨み、思い知れ!狂乱!』という叫び声が響いて、真っ赤な炎が、居酒屋を染めました。
わたしは爆発音と共に投げ出され、床に叩きつけられました。呻きながら身体を起こしますと、全身が焼け爛れた狂乱の魔術師が大きく目を見開いて仁王立ちし、周囲を睥睨しておりました。
そこへ、何者かの、複数の笑い声が響きました。
『いいザマだな。狂乱』
いつ現れたか、数人の見知らぬ者たちがわたしたちを囲むように立っていました。
『復讐者どもめ……。ソイツも、キサマらの仲間というコトか……!』
狂乱の魔術師が言ったソイツというのがルケアのことだと、わたしは理由もなく悟りました。
『おお。そうだ』
男の一人が笑いを含んで応じました。
『後のことを任されたからな。ここで死んで貰うぜ。ジジィ』
『ヤレるものなら、ヤッてみるがよい!』
そう叫ぶなり居酒屋の壁が打ち砕かれ、狂乱の魔術師が外へと飛び出しました。男たちもすぐに狂乱の魔術師を追って姿を消しました。
わたしは誰かに呼ばれた気がして、視線を回しました。
フィン様でした。
青白い顔のまま、フィン様が震える唇を動かしました。お声は小さすぎて聞こえませんでしたが、わたしは頷きました。
行け。
フィン様はそうおっしゃったのです。
逃げろという意味ではございません。わたしはすぐに察しました。行って、見届けろ。フィン様はそう言われたのです。
わたしは這うように居酒屋を出て、まさしく狂乱の魔術師が、近くの建物の屋根の上で、男たちのうちの一人を、紙人形でも裂くように肩口から二つに引き裂いている姿を見ました。
他の男たちの姿はすでにありません。
二つに裂いた身体を路上へと投げ捨て、狂乱の魔術師はわたしに視線を止めました。
小柄な身体がわたしの前に降り立ちました。
皺の一部が持ち上がるように狂乱の魔術師が瞼を上げ、感情の欠けた昏い瞳をわたしに向けました。
死ぬのだ、と思いました。
ここで死ぬのだと。
しかし、わたしは視線を逸らすつもりはありませんでした。例えここで殺されるとしても、最後まで見届けなければならぬと、そう思っておりました。
そこへ、男にしては少し甲高い声が響きました。
『よう。ジジィ。ようやく会えたな』
狂乱の魔術師が背後を振り返り、わたしも釣られて視線を上げますと、左右の建物の上それぞれにひとつずつ、星空を背景に、人影がありました。
大柄な人影で、一人は槍を、もう一人は長剣を手にしていると見て取れました。
雷神様の戦巫女様と風神様の戦巫女様--。
根拠はありませんでしたが、わたしはそう悟りました。神々のご意志と関係なく御力を使っているのです。そんなことを神々が許す筈がございません。万花の都にもお二方は姿を現されたと聞いております。
最早わたしなどそこにいないかのように無視して、狂乱の魔術師はくつくつと嗤いました。
『風神の小娘と雷娘か。今日はひどく気分が悪いからのぉ。よかろう、たまにはお前らの相手をしてやるわ』
不思議なことに、狂乱の魔術師の声には、戦巫女様お二人を愛おしむような響きがありました。
それから起こったことは、まさに悪夢でございました。
狂乱の魔術師が光の筋となって姿を消し、雷神様の戦巫女様と風神様の戦巫女様もすぐに姿を消されました。街のあちらこちらで雷光が輝き、暴風が荒れ狂い、家々が打ち砕かれました。炎が噴き上がり人々の悲鳴が響きました。
アルスタス王国の王都は街の真中に100mほどの高さの小山があり、王宮はその小山の上に築かれていました。
その小山がみるみる膨れ上がり、太い腕が伸び、頭が持ち上がり、がらがらと王宮を崩しながら巨大なゴーレムとなって立ち上がったのです。
誰もが『ああ』と悲嘆の声を上げました。
王が亡くなられたと思ったのです。
わたしは余所者です。王のことについては何も知らないと言っても間違いではありません。
しかし、たどたどしく『えんぽうより、おつとめ、ごくろうさまです』とおっしゃった王のお声を、まだ頬に赤味を残されたあどけないお顔を思い出し、わたしもまた、アルスタス王国の民人と同じく、『ああ』と悲嘆の声を上げておりました。
立ち上がったゴーレムは巨大な腕を振り上げ、大きく口を開き、猛々しい咆哮上げ、チャオ中の建物という建物を、人々を震わせました。
しかし、雲ひとつない星空の何処からか一筋の稲妻が落ちてきてゴーレムを打ち据え、戦巫女様の御一人が--遠目ではありましたが、うす赤く輝く槍の穂先が見えましたから、おそらくは風神様の戦巫女様だったのでございましょう--夜を切り裂く一筋の矢となってゴーレムの胸を撃ち抜き、巨大な穴を胸に穿たれたゴーレムは身体に纏った王宮の残骸もろともガラガラと音を立てて崩れ落ちました。
笑い声が王都の夜空を覆いました。
狂乱の魔術師の笑い声です。
それもおそらくは魔術だったのでしょう、雨の如く降る笑い声に『今日はこれまでにしてやるわ!』と捨て台詞が続き、王都の西へと笑い声は去って行きました。
狂乱の魔術師を追う風神様と雷神様の戦巫女様の御姿が、ちらりと星空に浮かんだのを見た気がいたします。
後には、混乱が残されました。
どこかで子供が激しく泣き叫ぶ声を聞きながら、わたしは居酒屋に戻りました。
もはや賑やかで明るい笑い声はどこにもありません。
『フィン様?』
わたしの問いかけに、フィン様ももうお答えにはなりません。
イス様はお身体の前面が黒く炭化しておりました。
カズイィ様は両の目を水平に断ち切るように、頭を割られて亡くなられていました。いつも笑みを絶やされなかったお口は、まだ狂乱の魔術師に何かを尋ねようとするかのように僅かに開いたままでございました。
ルケアの身体を見つけることは、遂にできませんでした。