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第5話「シンギュラリティ」

5 シンギュラリティ


ジリリリリリリッッ

トタトタトタ

ガタッドガガッドンガラガッシャン

目覚まし時計といい加減な騒音に、思わず眉をひそめて目を覚ます。手にはボールペンが握られ、布団の横に五枚の用紙とノート一冊が散らかっている。昨夜はおそらく、この報告書を読み込むうちに寝落ちしてしまったのだろう。

「おきッ、起きてー!悠君⁉」

ズバァムッ

ドアを乱暴にこじ開けて入ってきた女性は、目を大なり小なりの形にさせながら右手に冊子を握り潰している。その表紙には『二〇四〇年六月十九日 ()(じょう)(えん)抗争について』と書かれ、そこに赤文字で『革命戦争残党によるもの?』とも書かれている。

「悠君、確か今日がカキョウなん…だッだばぁッ⁉」

部屋に入るや否や入り口につまずき、盛大に入り口で転げ落ちた。持っていた冊子が宙を舞い、影伏の脳天に直撃する。その衝撃に思わず声を上げる間もなく、頭からのけぞるようにして枕に後頭部を衝突させる。意識したわけでもないのに、ブリッジをしているような体制になってしまった。

「ああぁ…悠君ごめんねぇ~。」

半べそを掻きながら謝る彼女の名は〝感取 (よう)〟、感取の妹にして公安一課の刑事である。これほどドジを重ねていると、なかなかそうは見えないものだ。

「遥さん、今日も一段と騒がしいですね。」

「うぅ~」

ぶつけた額を撫でながら、顔をぐしょぐしょにしている。かなり幼く見えるし、髪の毛も感取と同じ灰色でとても成人女性には見えない。胸部も完全な板であるが、一応二十二歳である。

「お兄ちゃんから連絡来てたよ⁉今日、アレなんでしょ?」

「まぁ、確かにアレですね。」

ブリッジ状態のまま腕を組んだ影伏は、眼先にある窓の先を眺めながらボーッとしていた。彼の思考能力にはある欠点がある。それは、考え込んで寝落ちした時は一時間ほど何も考えられない状態になってしまうところだ。もちろん起きてから一時間は、無気力になり何もやろうとすることができない。なんだか賢者タイムに似てるね。

「朝ごはん…要らない。」

「あぁー、うん。分かったよぅ…」

少しだけ悲しそうな顔をした感取妹は、「よっこらせ」と言いながら立ち上がり、腰に手を当てながら、前髪を耳に掛ける。

「とりあえず、虚無モード終わったら早く行きなよ?」

「うー。」

影伏の横に落ちていた冊子を持ち上げ、その下にあった資料とノートに目を向ける。ノートの表紙には、影伏たちが今追っている事件の名が書かれていた。「またか」とため息を漏らしながら、そこにあった資料をまとめて机の上に置いた。

「はぁーーーー」

長い溜息を吐きながらのけぞった身体を戻すと、影伏は握っていたボールペンを布団の横に放り投げた。まるで風船がしぼんだかのような動きに、感取妹は思わず鼻で嗤う。

「もう七時だから、落ち着いたら急ぎなよ。」

感取家から警視庁までは徒歩一時間、七時起床で一時間後の八時に家を出たとしても、九時出勤にギリギリすぎる。部屋を出た感取妹は、階段を一段ずつゆっくりと降りる。彼女は階段を降りるのも一苦労だ。

リビングの机に置かれた二人分の朝食を眺める。片方は感取妹が少しだけ手を付けているが、もう片方は既に冷め切って米もカピカピになっている。そろそろ降りてくるものだと思って、ラップをかけていなかった。

「えーい、今日は捜査もあるし頑張るぞい!」

そういった彼女は、勢いよく食べかけの朝ごはんをたいらげ、冷え切っている影伏が食べるはずだった朝ごはんも平らげた。ゲップをして、椅子の背もたれに寄りかかる。腹を擦りながら、机に置かれた捜査資料を手に取った。

「はぁー、行きたくなーい。」

食事をした後の眠気に襲われながら、パステルカラーのモフモフなパジャマ姿で手足をバタバタさせる。

そういえば、感取妹と影伏がなぜ同居しているかについてだが、それは彼が高校生でありながら刑事をすることになった事件まで遡るため、今回はまだ伏せておこうと思う。今回の事件とはあまり関係ないというのもあるが。

そんなやや不貞腐れ気味の感取妹は、食器を洗って片づけた後、自室でスーツに着替える。黒いシャツと黒いズボンを履き、その上から黒いジャケットを羽織る。首に柄無し無地の彼女の髪色と同じ灰色のネクタイを締め、伸びた後ろ髪を黒いヘアゴムで縛る。

公安刑事でこれほど目立つ組み合わせを着こなしている者は、おそらく彼女だけであろう。ネクタイをキュッと言う音を立てて締めると、一度息を漏らして姿見を見つめる。彼女の瞳は感取とは違って黒い。そしてその目は、ネクタイを締めた瞬間に様子が変わる。

「チッ」

乾いた舌打ちをした彼女は、自室を出てリビングのソファーに置いてあるバックを手に取った。腕時計に目を向けると、時刻は七時半であると確認できる。今日は捜査会議があるため早めにいかないとならないのだ。

「いってきます」

影伏の部屋の方を冷えた目で睨みつけながら、彼女はドアノブに手を掛ける。

公安一課の刑事である彼女には、表と裏がある。黒く冷徹な表の彼女と、パステルカラーが似合うふわふわな裏の彼女。どちらも明確に〝感取 遥〟であるが、あまりにも別人に見えて仕方がない。とりわけ、感取家の人間は代々特徴的な人間が多いらしい。ただし、その情報を口にしたのは感取本人であるため、信憑性は薄いのだろう。


「どういうことだよ!」

「まぁまぁ、落ち着けって。」

二〇四〇年六月二十日、現時刻七時四十五分、異能課一係本部事務室。

朝日が横から差し込むこの部屋で、感取が田裂と何かしらでもめていた。

「なんで、どうして、彼女の身辺調査ができないんだ⁉」

「俺にだってわかんないこともあるの。」

「何だよそれー!」

プンプンと口で言いながら怒る感取。恐らく本気では怒っておらず、おおかた上がそういう結果を出すことを予想していたのだろう。おそらくこれは、ただなんとなく田裂に八つ当たりしているだけだ。田裂もそれをなんとなく察して話を合わせている。

要するに、茶番だ。

「おはよーござ…どうしたんですか、お二人とも⁉」

そして、この茶番を知らない新人、水城が出勤してきた。

「もーう、聞いてよー!」

ウザがらみする感取。

「いいや、あんま気にすんな。」

それを気に掛ける田裂。

「えーなんです?」

無知ゆえの関心が止まらない水城。

田裂の親切心を無碍にされてしまったが、実は解放されてホッとした田裂。そして彼等二人が話している隙に、デスクの上から二番目に入っていた資料を取り出す。それを見ながら、キーボードをリズミカルに叩きはじめた。

「それで?」

「どうやら上の人間たちは、彼女について詮索してほしくないみたいでさ、そんなんじゃ操作進まないって言ってるのに…」

「いやいや、それどう見たって怪しいじゃないですか?」

「そうなると、事件当時あの店を捜査していなっかったのも頷けるよねー。」

「あー、確かにそんなこと言ってましたねー。」

それを聞いて、水城がなんとなく気になったことを感取にぶつける。

「でも、なんでその普通な輸入雑貨商が警視庁によって守られてるんでしょうか?」

「うーーん。」

そうなる原因になり得る者は、主に二つである。

実は警視庁や国家におけるすごく偉い人物、もしくはその関係者及び親族である場合。それと、その者の持っている異能力が〝Sランク〟である場合だ。

この二つは水城の頭にもすぐに浮かんだ。しかし、仮に偉い人物であれば、失踪していることはかなりの大問題である。それでも少しも騒がない理由としては、さらに偉い人が匿っていた場合であろう。水城はその場合は無いと判断した。

つまり、彼女の導いた考えは……

「彼女、異能者でSランクだったんじゃ?」

Sランクの異能者は、世界に一桁しか存在していない…と、有名な異能学者は言った。それはあながち間違いではなく、それほど希少な力なのである。

現在登場してきた人物の中でも、Sランクの異能者は5人しか居ない。

「仮にSランクだったとして、どんな能力なのさー。」

感取がやや冗談のように問いかけると、水城真剣な顔でこう答えた。

「瞬間移動…とか。」

「………なるほどね。」

彼女の回答に間を置いて答える感取。彼の口元は、少し二ヤついていた。後ろの田裂は、話を聞かずにカタカタと打ち続けている。持っていた資料はもはや見ていない。ただ一心不乱に、キーボードを打ち続けている。

「瞬間移動能力が、Sランクである根拠は?」

感取が水城に不意に問いかける。それに水城は「うーん」と腕を組んで少し考えると、その質問にこう返した。

「ランク分けの定義は知らないんですが…感取さんの能力を参考にすると、多分〝その力が神に近いほどランクが高い〟と言う事になるんでしょう。それこそ、感取さんの能力はこの世界の根本的な部分に干渉しているので……」

「ふーん…」

そもそも〝能力ランク〟と言う概念は彼が作ったモノであり、その基準は彼が一番知っているはずだ。そのはずなのだが…

「ふふーん…それはどうだろうねぇ?」

少し二ヤ付いた表情で水城を見つめる感取。その笑顔に不気味さを感じた水城は、一歩引いてもう一度考え始めた。

もしその瞬間移動の能力者が居ることを警視庁の上層部が認知していて、その者が犯罪を犯しているのも黙認しているとしたら。もしくは、その人物が行っていることは犯罪じゃなく〝捜査〟だとしたら。そもそも、Sランクの異能者を国は何人認知できているのだろうか?じぶんの異能力がBランクである理由も…

やがて水城はグルグルと回りだした思考に支配され、一言も喋らなくなった。

「あぁーこれ、もしかしてゾーン入っちゃってる?」

「………。」

無言のままその場を離れた水城は、自分のデスクに腰を掛け、カバンを肩に掛けたまま悶々と考え始める。

「うーん…長考するのはいいけど、ちゃんと捜査してよ?」

戸部の予言通りであれば、明後日が事件発生日である。そのため、二日中に事件を未然に解決させなければならない。

「それで……?」

手を止めた田裂が、話し終わって落ち着いた感取に問いかける。

「お前は今日、どうするんだ?」

机に置かれたカレンダーの六月二十二日の部分に、赤色のマッキーで『事件発生』と書き込む。先ほど資料を取り出した引出しから茶色の手帳を取り出した田裂は、PCの画面とその手帳を照らし合わせながら、その手帳に住所を書き込んでいく。

「そういえば、遥から応援任されたからそれに行くのと…近くに頭木ちゃんが出入りしていた店があるから、そこにも寄っていくよ。」

「遥って、お前の妹公安だろ?刑事部の人間が一緒に行っていいのかよ……」

「まぁ、そこらへんは〝新刑事部〟ってことで。」

「なんじゃそりゃ。」

感取妹が担当している『極左勢力団体:慈条園』の内部抗争は、異能力犯罪に関係している部分も多い。だからこそ、彼女はわざわざ兄の協力を仰いだのだろう。

「あくまで今の〝二万人失踪〟が最優先だからな。」

「わかってるよー、凌弥もガンバ!」

暴力団やテロ集団、ヤクザ組などの極左集団は、異能力の発生によって増加傾向にある。そのため、新警視庁になってから公安のやり方も少し変化したのだ。新しい課を新設したわけでは無いため、〝公安部〟という名前はそのままだが。

そして、感取兄妹はなんだかんだと仲が良いらしい。

「あのー…」

ずっと黙り込んでいた水城が感取に声をかける。彼女の脳内で決着はまだついていなかったが、どうしても気になることがあったのだ。

「その〝慈条園〟って、渋谷にありませんでした?」

「いや、そっちはもぬけの殻だよ。」

「え?」

水城の知っている〝慈条園〟の情報は、本拠地が渋谷にあって、その元締めが今は刑務所に収監されていると言う事である。活動をまだ続けていたのは、元締めが「捕まる代わりに彼らを見逃せ」と交渉したからである。公安は、それを監視付きであることを前提で承諾した。しかし、渋谷にあった拠点が空箱になっていたことは知らなかった。

「じゃぁ、今の拠点って何処ですか?」

「あー、もしかして〝二万人失踪〟と繋がると思ったの?」

「いや、少なくとも被害を被ったんじゃないかと……」

水城のその答えを聞いた感取は、自分の部屋から一枚の資料を持ってくる。そこには、感取妹による報告書として、拠点の移動が地図を用いて描かれていた。

「ここって…新宿御苑のすぐそこじゃないですか⁉」

「これ、完全にケンカ売ってるでしょ?それで……」

頭を掻きむしりながら、スマホを取り出して某アプリのトーク画面を水城に見せる。そこには、怒りを露にした感取妹の文字が短文で数回送られていた。そして、きれいに縦読みができるようになっていた。

「うっわぁ…すっごいですね。」

やや苦い顔をしながらそれを眺める水城。そして、文体のテンションからなんとなく感取の面影を感じ、やはり兄妹なのだと改めて理解したのだった。

「と、いうわけで…行って来るよ?」

「応。でも、捜査会議は九時からじゃないのか?」

田裂が時計を確認すると、まだ八時十分である。合流するのはやや早い気がするのだが?

「いやいやー、カワイイ妹にいち早く会いたいんだよー!」

「「うわー。」」

水城と田裂は、眉をひそめながら声を合わせる。感取のシスコン発言に引き気味の水城は、それのおかげで頭がスッキリして今日の捜査を考え始めた。

「それじゃ」と一言だけ言って去った感取は、どたどたを小走りで妹の所に向かった。

「さて、俺も行きますか。」

感取を見送った田裂が、手帳をズボンのポケットに突っ込み立ち上がる。PCをスリープモードにし、入り口付近の木札を裏返す。すると田裂は振り返って水城に言った。

「そうだ、お前今日中に〝自称乙女〟捕まえろよ。」

そして、感取が向かった方向とは逆方向に体を向けて去る。そして水城は、その無茶ぶりを聞いて顔を歪めた。落ち着くために、部屋の入り口から一番遠いドアを開き、そこにある水道の蛇口をひねる。浄水フィルターを通してあふれ出た水を、両手を器にしてため込んで口元へと運ぶ。

「んっ…ぅん………ぷっはぁ。」

口から水気のある吐息を漏らしながら、蛇口から出続ける水を見つめる。もう一度溜息をついた後に、ポケットに入っていたハンカチを口に当てる。

「………なんッッでや⁉」

ハンカチをポケットにしまうと、思わず口から愚痴が出てしまった。蛇口の栓を閉め、頭を掻きむしりながら部屋を出る水城。すると、彼女の目の前にある男の影が映った。

「あ、おはようございます。」

「お、おはよう…ございます。」

その男は、青色の資料を手に、部屋の入り口でアワアワとしている。

「貴方は、未解決係の方…ですよね?」

「あ、はい!」

彼の持っている青い紙から推測した水城は、髪を整えながらその人物に近づく。

「えーっと、自分は牧田と言います。戸部さんの元で刑事やってます!」

近づいてきた水城に持っていた資料を渡す男〝牧田(まきた) (こまれ)〟は、それと同時にポケットに入っていたスマホを取り出して操作し始めた。もらった資料に目を通した水城は、落ち着いて話をするために近くにあった椅子に座った。牧田も近場にあった椅子に腰を掛け、彼女に話を切り出す。

「その資料は、二万人失踪と同じく二年前に起きた事件の…」

「ガガギガ事件?」

その資料の上部には『ガガギガ事件』と書かれ、その横の日にちは『二〇三八年六月二十日』と記されていた。今日の日付を考えると、ちょうど二年前であることがわかる。

「この事件が、どうかしたんですか?」

確かに日にちは近いが、この事件の犯人は逮捕されているはずだし、未解決として受理されていることがおかしい。

「この事件が未解決なのはおかしくないですか?だって……」

「犯人は捕まってないよ?」

「え⁉」

その資料の〝犯人〟の欄には、名前が書いておらず、横に〝犯行人物〟として水城の知っている人物の名が書かれていた。

「真犯人は、まだ捕まえられていないのさ。」


ズダンッ

「――――ッ⁉」

影伏が家の扉を開いた瞬間、影伏の首元を鋭いナイフがかすめ通った。

時刻は八時十分。無理やり本庁まで飛んでいこうとしていたため、マスクを着けていた影伏は刀身を避けることができた。しかし、もし普通に家を出ていれば確実に首を切られていたであろう。

「……誰?」

右手でかすめた首を触れながら、相手の姿を視野に捉える。焦る気持ちを落ち着けるため、能力を解除して血液の流れを元に戻した。口と鼻からめいいっぱい酸素を取り込むため、一瞬だけマスクを外す。鼻からタラリと生暖かい感覚。

「私ハ……」

ボイスチェンジャーで声質が変えられ、男女であるかも区別できない。

背丈はおおよそ一六〇センチ程度で、黒いコートに灰色のズボンを履き、体格が見えない程ぶかぶかであった。足は茶色いブーツを履いており、こちらから見てもわかるほどに靴底が削られている。この状態の靴で、よくこれほど安定した歩きができるものだ。

顔は大きなフードをかぶっているため、昼間でも確認できない。

「私ハ、ヴァルキリア…ダ。」

「あぁ…自称、戦乙女さん。」

それを聞いた影伏は、袖を捲り上げて外したマスクを再び取り付けた。

「ここで、捕まえる。」

脚に力を入れて、コンクリートを思い切り蹴りつける。瞬間、影伏は目の前にいたヴァルキリアの背後を取る。それと同時に、右腕に力を入れる。腕の血管がドクドクと脈打ち、皮膚が薄い赤色へと変色していき、徐々に熱を帯びていく。

「クッ!」

歯を食いしばりながら勢い良く体をひねり、右拳を敵めがけて放つ。

ヴォンッ

風切り音だけが周囲に鳴り、巻き起こった風圧が周囲の家の塀を伝って空に逃げる。影伏自身当たった感触を感じず、ただそこには湯気を立たせるほど熱を帯びた自分の右腕だけがあった。

「なっ⁉」

キュルッ

背後から聞こえる生地のこすれる音に、思わず影伏は後ろを振り返る。しかし、そこにあったのはレザーの黒い手袋を纏った拳であった。その黒い物体は、影伏の顔面にめり込み、前歯をゴリゴリと音を立てながら折っていく。

口元から伝わる熱い感覚と、口内に広がる血液の味が思考を鈍らせていく。つけていた灰色のマスクが、じんわりと赤黒い色に染まっていく。

「あッ、痛…」

後ろに倒れこんだ影伏は、激痛走る顔面に思わず手を当てる。その隙にヴァルキリアは、がら空きになっている腹部に蹴りを入れる。背中が曲がり、下腹部から何かがこみ上げてくる。喉元がカッと熱くなり、目の前がグラグラとし始める。

「がッ…あが……」

腹を押さえて疼きながら、口から黄色っぽい液体を流す。口の中に酸っぱい味が広がる。

「貴様ガ捜査ニ入ルト、面倒クサソウダ。」

汚れた手袋を適当に手で払いながら、地面に転がる影伏を目つめる。

「俺……は、た……だの……」

「高校生カ?ソウジャナイダロ?」

まるで影伏を知っているかのような喋り方で、影伏をジッと見つめる。回復してきた影伏は、膝に手を当てて立ち上がる。

「ヨクモマァ、立チ上ガルナ。」

再び影伏の目の前からヴァルキリアは姿を消し、周囲からも気配を消した。

「逃げては……居ない。」

負傷して開かない右目を気にせず、影伏は全神経を周囲に集中させた。

ヒュゥゥ、サワサワ、カサッ

周囲の生活音が耳に入ってくる中、ある一点から影伏の身体は視線を感じ取った。そして、次の瞬間その視線は殺意に変化しすぐ背後に移動した。

「―――ッ!」

指の筋肉繊維一つ一つを意識して手を握り、力の方向を一転に収束させる。そして、その一点を先ほど感じた殺意に照準を合わせた。そして、影伏はそのまま腕の血管に血液をグングンと流し込み、腕の筋のエネルギーを瞬間的に放出する。

ズドンッ

「カハッ⁉」

拳に触れる肉の感触と、肌に触れる骨の感覚。間違いなく、奴の身体に触れている。

それを脳が認識した瞬間、左目だけを見開き上半身をひねらせる。右足にぐっと力を籠めたせいで、地面のコンクリートがパキパキと音を立てて割れていく。

右手の力をなるべく抜かずに、左に力を入れていく。右目が見えないおかげで、普段よりも上昇倍率が上がっている。左腕が白い湯気を立たせながら、ヴァルキリアの身体めがけて軌道を描いていく。

あと、三センチ……二センチ…………

近づくにつれ、速度の上昇に伴った空気抵抗が左手を襲う。血管が浮き出し、一本…また一本と音を立てて切れていく。手がだんだんと内出血によって、青紫色に染まっていく。

「んんんんッッ‼」

歯が何本か折れているせいで、うまく踏ん張ることができない。奥歯がギリギリと音を立てて歯茎に沈んでいく。あと一センチ……彼の赤く染まった視界には、自分の右手が左脇にはまって体勢を崩している奴の姿があった。それでも、いまだにその者の顔を確認することができない。

ギュルギュルギュルッッ‼

風切り音が耳を(つんざ)き、周囲の塀がバキバキと音を鳴らし始める。その風圧を受けて、ヴァルキリアのフードが強く揺れ始めた。その中から変成器と肌色の部分が、ちらちらと見え始める。そしてついに、影伏の拳は奴の身体に到達した。

バッッビキビキッ

周囲に閃光が走り、目をバチバチと眩ませる。左手から身体中に衝撃が走り、それと同時に異様な爽快感が心を突き抜けた。

「んんんんぅぅぁぁああああッッ‼」

叫んで力を籠めるほどに周囲の閃光が激しくなっていく。触れている感覚はまだ消えておらず、しっかりと奴を捕らえている。その閃光が視界を全て覆い尽くし、影伏の視界は真っ白に染まった。それでも、さらに力を加えていった影伏は、自分の拳から何かがあふれ出てくる感覚に気づく。それに意識が触れた瞬間、周囲の白い空間が一気に黒く染まり、自分の腕が奴の身体からはじかれる。同時に今まで蓄積していたダメージが現れ、腕を内部からぐちゃぐちゃにかき乱していく。

「――――クッ⁉」

突然の出来事に困惑するも、視界からヴァルキリアの姿がないことからある事を察する。

「―――ッ、逃げられた。」

真っ青になって言う事を聞かなくなった左腕を押さえながら、影伏は見える左目で周囲を確認した。どこにも先ほどの奴の気配は感じないし、逃走した痕跡も存在しない。あるのは、滅茶苦茶になったコンクリートの道路と塀である。

「怒られる……か?」

かろうじて動かせる右腕で、ポケットに入っているスマホを取り出す。息を切らしながら番号を打ち込み、通話ボタンを押そうとする。でも、ボタボタと垂れ落ちて来る血液のせいで、スマホの液晶が上手く反応しない。ヌルヌル、ベタベタと血でまみれていくほど、影伏の意識が遠のいていく。

「やば…い……。」

意識が途切れる直前、ギリギリ通話ボタンを押すことに成功。電話先から聞き覚えのある声が応答する。

『只今、電話に出られませ……』

そう、かなり聞き覚えのある声であった。


「………せ君………げ伏君………………。」

遠退く意識の中で女性の声が聞こえる。

「影伏君⁉」

その女性の声が脳に伝わった瞬間、重い瞼がゆっくりと開いた。視線の先には、顔と髪を濡らしている女性がいた。水城である。

「よかったー、大丈夫ですね。」

影伏の背中に手を当て、上体を起こさせる。ゆっくりと呼吸を落ち着かせて、脳に少しずつ酸素を送っていく。数分間深い呼吸を続けた後、思考能力が落ち着きを取り戻した。落ち着くのを待っていた水城は、影伏にさっそく質問を投げかける。

「あの、いったい何があったんですか?」

周囲の状況を見渡しながら、水城の頭上に〝はてなマーク〟を浮かべている。彼女の身体が濡れているのは、彼女の能力を使用する上で必要なことなのだ。

「水城さんこそ、どうしたんですか?」

「私は、少し変な音を聴いた後に電話がかかってきたので、都庁の屋上まで登って行って、そこから飛んできました。水一本使い切っちゃいましたよ。」

ビシャビシャの髪の毛を手でいじりながら、都庁がある方角を眺める。目線の先には、ビルのすき間から見える都庁が見える。都庁の大きさは〝新警視庁〟に変わってから少し大きくなった。

「それで?」

「………。」

一度俯いた影伏は、俯いたまま水城の問に答える。

「ヴァルキリアに遭遇した。」

「え⁉」

その発言に衝撃を受けた水城は、思わず影伏を支えていた手を離す。当たり前のように、影伏の背中はコンクリートに打ち付けられた。

「あ、ごめん。」

「………いえ。」

肘を地面につけて腕の力で体を少し持ち上げ、腹筋に力を入れて上体を持ち上げる。腹部の筋肉がピクリと痛み、その痛みで顔を一瞬だけ歪ませた。

「どうして、影伏君の所に?」

頭に〝?〟を浮かべたままの水城は、影伏の顔をジッと見つめた。影伏はそれに反応して、顔を別の方向に向ける。その先には、衝撃でドアノブが少し歪んだ赤茶色のドアがあった。感取家のドアである。都内の中心に一軒家を立てるほど、感取は財力を持っていたのだろうか?

「っていうか、何で感取さんの家に影伏君が?何か用事あったの?」

「用事もなにも、ここに置かせていただいているんです。」

「す、住んでるの?」

感取が都庁の一室で居住しており、この家には感取妹しか住んでいないはずだ。女性と男子が、一つ屋根の下で…二人きり?水城の脳内には、真っ先にある単語が現れた。

「同……棲?」

「いやいや、そんなんじゃないですから。」

淡々とした表情で答える影伏。それに合わせて、水城の肩を借りながら体を起こす。

「そんなことより、水城さんが来た時には奴は居ませんでしたか?」

首をゆっくりと動かしながら周囲を確認する。誤って能力が発動しないように、マスクを耳から外して右手首に耳に掛ける部分を通す。不織布の使い捨てマスクではないため、血で汚れた日はしっかりと洗わなければならない。

「人影は見なかった。」

「そうですか…なら、もう近くにはいないですね。」

「まぁ、そうですよね。」

水城がよろけている影伏の方に手を伸ばしたが、影伏は「大丈夫」とだけ言って都庁の方へ歩き始めた。一歩、また一歩と踏み出す度に、歩いている時の違和感がなくなっていく。

「それよりも、今は狙われた理由が重要ですよ⁉」

彼の背中をしばらく眺めていた水城が、いそいで影伏を追いかける。水城の問いに、まとまらないあやふやな答えを返す。

「彼女は、別に僕を狙ったわけじゃない……と、思います。」

「………?」

「って言うのも……」

「いや、ちょっと待ってくださいよ……。」

影伏の言葉を遮るように、水城は感じた違和感を指摘した。

「彼女って……どういうことですか?」

「あ、あぁ。」

彼女の指摘に、何気なく顔の殴られた部分に触れる。鼻は少しめり込んでおり、唇も何カ所か切れている。右目はだいぶ回復したが、視界がやや赤いのは引き続きである。そのまま顎を触りながら、先ほどとは違って確信づいたように返す。

「彼女の拳を顔面で受けて、彼女の手の輪郭を確認した。それと、顔の輪郭も一部確認できた……あれは、女性です。」

「それ本当ですかー?」

「はい、間違いありません。」

眉を少しだけ下げて進行方向を睨みつける。彼の表情から、冗談を言っているようではなさそうだ。それを信じることにした水城は、一番怪しい人物の名を頭に浮かべる。

〝頭木 まりな〟

彼女の謎が、少しずつほどけていきそうな気がする。そして、彼女が行方不明になった後のどうなったかがわかれば、今回の事件を解くことが出来そうだ。

「昨日の容疑者二人を、田裂さんと感取さんが洗い直しているはず。だとしたら私たちが今からしなきゃいけないのは……」

「何を言っているんですか?」

「え?」

水城の独り言を聞いていた影伏が、その語りに割り込んだ。そして、水城の手を引きながら近くにあった地下鉄の入り口に向かう。

「ちょッ、何処向かうんですか?」

「感取さんと合流します。」

「待って、異能課にまだ牧田さんが……」

水城の言葉に耳を傾けようとしない影伏は、そのままトテトテと地下に降りていく。西新宿の方から新宿御苑に向かうのは、地下鉄で移動するのが一番楽だ。負傷している中で、最も効率的な最短ルートである。

「いやいや、私が背負って走ったほうが早……」

やはり影伏は、彼女の意見を聴こうとしなかった。

発車ベルが鳴って電車の扉が閉まると、その扉に背中を合わせる。

現時刻八時ニ十四分。公安部隊の現場突入まで、あと約一時間。


「話ガ……違うな。」

カチカチ…カチャッ

「今回のテレポート先は〝必要な犠牲者の元〟に行ったはずなのに、何故あんな男の子の所に?もっと他にも居たんじゃないの?警察とか、公安とか……」

スルスル……

「あの事件を解決するためには、必要な犠牲なのは分かったけど……それでも気が引けちゃうなぁ。それと、顔少し見られちゃったかもしれない。」

カチャカチャ

「でも、彼の攻撃は何か違和感あったな……最後に受けたあの攻撃、当たった部分が黒ずむなんて絶対普通じゃない。いったいどういう能力なんだ?」

スッ……サスッスルルルゥ

「彼が今回の計画に関わっている意味、それと彼の能力……追いかけたほうがいいかも?とりあえず移動しなくちゃ。」

キュルルルッッ

「次の行き先は……慈条園の所か。あの人たち嫌い……ナンダヨネ。」

(私はただ……運命に従うだけ。)

キュィィィィイイッッ

「テレポーテーションッ‼」

ヴォンッ


「………え?僕は?」

屋上で立ち尽くす牧田。すると、そこに千嶋が現れた。

「よう、久しぶり。」

「千嶋?捜査一課の頃はいろいろ迷惑かけたな。」

「ここで何してるんだ?」

「いや、水城さんがいきなりさ……」

ビルのすき間から見える被害地を指さす牧田。その先を、目を凝らしながら確認すると、千嶋はなんとなく察して屋上から離れようとする。

「ど、どうしたんだ?」

彼の行動に少しだけ疑問を持った牧田は、千嶋の背中を追いかける。

「どうしたもこうしたも、俺は捜査に戻るだけだ。ここには気分転換で来ただけだからな。お前も、早く仕事戻れよ。」

「いや、それが……水城さん、資料を受け取り損ねてて。」

握っていた青色の資料を千嶋に見せる。すると千嶋は、目を丸くして牧田の顔を見た。

「俺、今からこの犯行人物に会いに行くんだよ。榊さんの命令でさ……」

「榊さん⁉もしかして……」

「……かもな。」

彼らは歩きながら語り合っていると、屋上に向かう階段の下から一人の人物が昇ってくる。その人物を見た二人は、一瞬で体が凍り付いた。

「どうやら……面白くなりそうだね?」

「「け……刑事部長⁉」」


―続―

前回のあとがきでいろいろ書いておりましたが、実はほとんどが全く関係なかったという高等ギャグでした。どうも橋本オメガです。

皆さんは、こういう刑事ものでどんどんいろんな事件が絡んでくる現象をどう考えますか?私は書く側として、心底めんどくさいと感じました。というのが建前で、本音はいろいろ複雑な伏線が張れるのですごく好きだったりします。

二万人失踪編も折り返し地点です。次から少しずつ真犯人が動き始めます……

感想についてもどんどん容赦なく投げていただけると嬉しいです。どうやら、毎週投稿できそうなので、気合入れていきたいと思います。


次回予告

慈条園と“二万人失踪”の関係性とは?

ヴァルキリアの思い描く運命の先には何が?

そして、いい加減戸部の出番があるのか?

今回の次回予告は、本当に次回予告なのか!?

次回、第六話「シンギュラリティⅡ」


4月16日更新予定ですので、ご期待ください。

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