第一話 大宮司凌 前編
はあ、はあ、はあ。どく、どく、どく。
呼吸音と心臓の脈動。
膝が笑っている。もう一歩足を踏み出すのに、凄まじい気力と意思による決断が必要だ。
春の柔らかな光が木々の間から降り注いでいる。様々な種類の鳥の鳴き声が聞こえてくる。
木々や草花の匂いが肺いっぱいに入ってきて、むせ返るようだ。
もう、1時間近く山道を歩いているだろうか。まだ頂上は見えないのか。
「おおい! 少し休もうよ!」
大宮寺凌は前を歩く雹江冰太郎に向かって精一杯の声を張り上げた。
冰太郎が立ち止まって振り返る。
あれだけ一気に山道を登ってきたのに、ほとんど呼吸は乱れていない。ただ、少しだけ汗をかいている。羨ましい体力だ。
風が強い。
二人の髪の毛や、Tシャツや、リュックサックの紐が舞い上がる。
こういう、よく晴れた風の強い日に、それは出るのだ、という。
「情けないこと言うな! もう5分も歩けば頂上だぞ! 見逃したらどうするんだ!?」
冰太郎にとっての5分は、凌にとっては無限地獄に等しかった。
「もう、歩けないよ! 喉も渇いたし!」
「しょうがないな!」
冰太郎はやっと立ち止まってくれた。
凌が体力不足なのではない。冰太郎が、小学六年生にしては体力がありすぎるのだ。背も高く、運動神経も良く、頭もいい。羨ましい限りだ。
凌と冰太郎は、平たい石の上に並んで腰掛けた。
水筒をがぶ飲みしているのは凌。冰太郎は空を見上げている。
「やっぱり、お前に山登りは無理だったか?」
と馬鹿にした口調。
普段なら何か気の利いたことを言い返してやるのだが、疲れていてそれもできない。
薄味のスポーツドリンクが身に沁みた。
「まさかさぁ、こんなにきつい山道だとは思わなんだよ」
思わず出た年寄りみたいな口調に、二人は笑った。
この山の頂上に、打ち捨てられた祠があるという。…この時の二人にとっては巨大な壁だったが、実は街からそう離れていない標高500メートルほどの丘だった。だが、いろいろと不気味な噂があった。
山の頂上の祠には、一つ目の神様が祀られている。祀られていると言っても、今となっては信仰するものはなく、風雨に晒されるがままになっている。神様はそれを恨んで、今日のような風の強い日は、山の中をさまよっているのだ。
どこからともなく流れてきた噂を聞いた二人は、早速山に登ってみることにした。天気予報で風の強い日を調べて。二人は妖怪マニアを自負していた。よく小学生が、怪獣や戦隊モノに凝るようなものだが、熱の入れようが普通ではなかったのだ。近所で妖怪の噂を聞くと、必ずそこに行くことにしていた。
そういう場所で今までも不思議なことはあったが、妖怪そのものに会ったことはなかった。
今回も、まさか一つ目の神様が現れるなんてことはあるまいと、凌は思う。一方冰太郎はかなり期待しているようだった。
突然、ひんやりとした風が吹いてきた。
太陽が傾き始め、影が長くなりつつある。
何か音が聞こえる。凌が気がついた。
耳を澄ます。やはり、鈴の音が聞こえる。
誰かが山道を登ってくるのだろうか。だが、聞こえるのは道なんてない森の中からだ。
冰太郎が立ち上がる。
眉をひそめ、身構える。
水筒をしまい、リュックを背負う。音は大きくなってくる。
「あ」
二人同時に声を上げた。
木々の間を縫うように進んできたのは、鈍い赤色の、玉。バスケットボールのように飛び跳ね、かと思うと滑らかに飛び跳ねながら、接近してくる。
その玉の中心には、大きな瞳?
人間の瞳とは違う。だが、明らかに二人を標的にしているのがわかった。
先に踵を返したのは、冰太郎だった。持ち前の運動神経を生かして反転し、駆け降りていく。
「おい! ぼーっとするな! 早く逃げろ!」
そう叫んだ時、冰太郎は五十メートルほど進んでいた。
凌も後に続こうとする。だが、足がすくんで全く動けない。
赤い玉がどんどん迫ってくる。
表面を覆う赤黒い霧、その中央にある漆黒の孔。
そいつは、凌の目前まで迫ってきた。
凌は悲鳴をあげる。
汗びっしょりだ。布団の中が湿っている。
目覚まし時計がけたたましく鳴り響いていた。
今、午前6時。
夢を見ていた。多分、小学生の頃の。
夢の内容を思いそうとするが、はっきりは思い出せない。
多分、冰太郎と妖怪を探しに行った、何度目かの冒険の一つだろう。
怖い思いをした記憶があるが、霞の彼方の記憶が像を結ぶことはなかった。
そして、心臓が高鳴っているのがわかる。
緊張しているのだ。
今日から高校生活が始まるから。
友達はできるか、部活は何にするか、勉強についていけるか、彼女はできるか…そんな思いが一気に頭を駆け巡る。
階段の下から、母が呼ぶ声が聞こえる。朝食ができているのだ。
中学生の頃より1時間も早く起きた。高校は、町外れにあって、かなり遠い。自転車での通学が許可されているが、慣れてくるまで通学時間が予想できない。これから三年間、どんな生活が待ち受けているのか、不安で一杯だ。
小学校を卒業して、学区が変わった。それで、今までの友達とは縁が切れてしまった。中学では、あまり友達ができなかった。中学で主導権を握っていたのは腕っぷしの強い不良たちで、凌のようなおとなしい人間には辛かった。
心にぽっかりと穴が空いたような中学生活だった。
つまらないわけじゃない。仲間とゲームや漫画の話をしたり、校庭で追いかけっこをしたり、たまに可愛い女の子の話をする、そんな毎日だった。だけど、ふとした瞬間、何かが欠けていると思うようになった。
ワクワクするような何か、必死で追いかけたい何か、それがなかったのだ。
運動部の人間は必死でボールを追いかけていた。漫画家を目指して絵のトレーニングを繰り返しているヤツもいた。お笑い芸人を目指している奴もいた。
だけれど、凌は何を目指せばいいのか分からなかった。
高校受験して、一応希望の高校に受かって、それでどうするのか。
分からない。
何のために生きるのかと言う問いは、目を逸らしていても、常に頭の片隅に存在していた。
何のために生きるのか。
凌が朝食を食べている間、母は黙って会社に向かう支度をしていた。母は出版社で働いていて、激務だった。息子の高校のことより、仕事で頭が一杯なのだろう。下手に励ましの言葉を掛けられるより楽だった。
歯を磨き、顔を洗い、髪の毛をセット。
新しい制服に袖を通す。独特の匂いがする。悪くない匂いだ。
ネクタイを締める。中学までとは違い、サラリーマンみたいなネクタイだ。
腕時計を見ると、6時55分だった。
遅くなってしまっただろうか。
新調した自転車にまたがり、高校へと向かう。中学最後の春休みに何度も練習した道だ。
朝早いので車通りは少ない。
顔に思いっきりぶつかってくる風には、新緑の香りが混じっていた。街路樹にとまった鳥の群れがけたたましい鳴き声をあげている。太陽の光は街全体を照らしている。
制服の内側にじんわりと汗をかいた。
そして、通学路随一の難所、井戸坂と呼ばれる坂を一気に駆け上がると校舎が見えてきた。
蟻が巣穴に集まってくるように、何人もの生徒が登校していた。新一年生は、雰囲気で分かる。期待と不安で胸いっぱい、って感じだ。
新一年生は、すぐに体育館に集められた。クラスごとに整列させられ、パイプ椅子に腰掛ける。
見知った顔はいないかとキョロキョロと見回す。同じ中学の奴らも何人かいたが、もともと仲が良かったわけではない。
不安が頭をよぎる。最初から友達がいるやつと、そうでない奴は、やっぱり三年間の学園生活が変わってくるだろう。凌は、自分が少し暗い人間の部類であることを自覚していた。だから、少しでも仲の良かった友達がいてくれるといいのだけれど。
クラスの中には、一人もいないようだ。凌はため息をつく。
遅れてきた生徒がパイプ椅子に座った。集合時間を過ぎているのに慌てた様子もない。そしてそいつの顔を見て、それまでの不安が吹き飛んだ。背が高くなり、少し痩せたようだが紛れもなく。
冰太郎だった。
「フフ…」
思わず笑い声が出てしまった。
冰太郎がいるなら、高校生活は楽しいものになるだろう。
小学生の頃一緒に行動した仲間なのだから。
冰太郎の方を何度か見たが、こちらに気がついた様子はなかった。
学校長の長く退屈な話が始まって、終わった。
凌のクラスは一年三組だった。体育館から教室に向かう途中で、冰太郎の肩を叩いた。
「3年ぶりだな! 冰太郎! オレだよ! 凌だよ!」
冰太郎は凌顔をジッと見た。何か嫌なものを見るような目つきだ。友達に再会した時の顔じゃない。線香のような風変わりな匂いがした。
冰太郎は舌打ちすると、足早に去っていった。
呆然と立ち尽くす凌。
何か嫌われることをしたのだろうか。
でも、だとしても。
舌打ちはあんまりだ。
それにそもそも、三年間会っていなかったのだから、嫌われる理由なんてないはずだ。
オレのことを忘れてしまったのだろうか。
1年3組に入る。名前順に決められた席に座る。冰太郎は右斜め前の席に座り、俯きがちに何か本を読んでいた。よく見ると、和綴の本だ。どこで手に入れたのだろうか。
凌の隣には女の子。何か話しかけようと思うのだが、きっかけが掴めない。前の席に座った男子がこちらを振り向いた。
「なあ、この学校、結構ボロボロだよな。花子さんでも出そうな」
花子さん、とはトイレの花子さんだろう。懐かしい名前だ。
「ハハハ、出たら面白いけどね」
会話を繋げようと思案していたところで、大きな音がした。誰かが教室の扉を開けたのだ。
いかつい髪型、隆々とした体格、すでに着崩した制服、そしてチャラチャラと音のなるアクセサリーをつけた男が、取り巻きを連れて入ってきた。
いわゆる不良という奴だ。しかも、すでに仲間を作っている。
この学校にもあんな奴がいるんだ。凌のお腹は縮み上がった。
席は冰太郎の斜め後ろらしい。ドッカっと音を立てて座る。もう少し静かに行動できないのか。
「なんかこの席、線香の匂いがするんですけど」
明らかに冰太郎に対する嫌味か挑発だ。冰太郎はそれを無視して本を読み続ける。
「オレと喧嘩したい奴はいつでもどうぞ! オレは強いからね」
こうやって、自分は強いという第一印象を植え付ける。不良がよくやる戦術だ。負けたくはない、だが勝てないだろう。
「それにしても線香臭い。オレ線香の匂い嫌いなんだよね」
「オレも嫌い!」
「オレも!」
すでに形成されている不良仲間たちが同調する声をあげる。
冰太郎は無表情に本を読んでいる。
あんな周囲を拒絶する雰囲気だから、不良の標的にされるんだ。
でも、いい気味だとも思う。
感動の再会となるはずが、凌のことを無視した。つまり、小学校の頃の関係を否定したってことだ。そんなの、許されることじゃない。凌の心の中にも不良に同調する感情が生まれる。
それにしても、なぜ線香くさいのだろう。
ふと、首の後ろあたりにチリチリと痛みを感じた。誰かの視線?
視野の端に、赤い玉のようなものが浮かんでいる。だが、その方向を振り向くと何もない。
しばらくするとまた視野の隅に現れる。
目がおかしくなったのか? それとも疲れているのか。
チャイムが鳴ると同時に、担任の先生が入ってきた。体育会系のいかめしい先生で、それで教室は静かになった。
オリエンテーションや部活紹介のイベントが終わると、すでに日が傾きかけていた。何だか目まぐるしい一日だった。
自転車置き場に向かうと、冰太郎が自転車を引き出そうとしていた。
もう一度声をかけてみよう、と思う。さっきは何か機嫌が悪かったのかもしれない。
「なあ、冰太郎…」
だが、冰太郎はもう一度舌打ちをすると、どこかへと去っていってしまった。
方向が同じクラスメイトが話しかけてきた。部活は何にするのか、可愛い女の子はいたか、そんな会話をしながら自転車を漕ぐ。とりとめもない会話だが、それだけに相手との距離を保つにはちょうどいい内容だった。
街中に出る。もう、同じ方向の知り合いはいない。
一人で自転車を漕ぐ。サラリーマンや大学生でごった返す駅前は、西日の作る巨大な影に沈んでいた。
今日の冰太郎の冷たい態度を思い出した。
もう、許さない。友達じゃなかったのか。小学生の頃あんなに一緒だったのに。このまま教室で孤立していけ!
家に帰ってきた。もちろん誰もいない。
冷蔵庫の扉を開けると、ちょうどいい具合に大福のパックが入っていた。一つつまんで口に放り込む。その甘さで、少しだけ疲れがとれた。
窓で切り取られた空には、僅かに太陽の光が残っていた。
態度のでかい不良や、捻くれた性格の冰太郎など心配事はあるが、それ以外はまずまずの高校生活を送れそうではないか。
自分の部屋に戻る。制服を脱ぎ、ジャージに着替え、勉強机に座る。机の上にあるのは、漫画の本ばかりだった。今日はどれを読もうかと本棚を漁っていると、古いノートが床の上に落ちた。小学生の頃の自由帳だ。そういえば、捨てられなくて本棚の端の方に詰め込んでいたんだったか。
パラパラとページをめくる。
冰太郎と作った、妖怪の研究ノートだ。ああ、懐かしい。
冰太郎が図書館で調べた妖怪について文章を書き、凌が絵を添える。冰太郎は何だか小難しい本を読んでいて、文章は上手かった。まるで大人みたいな字で書かれている。
凌の描いた妖怪は、まるっきり想像のこともあれば、既存の妖怪画の引き写しのこともあった。自画自賛じゃないが、絵は上手い。凌にしか描けない絵だ。
冰太郎と過ごした頃、凌は自分の個性を一番発揮していた。妖怪の話なんて、冰太郎に対してしかできなかったから。
一枚一枚、ノートのページをめくっていく。ぬっぺふほふ、野寺坊、如意自在、河童、天狗…、小学生時代の凌が、物凄く頑張って絵を描いていたのが分かる。冰太郎の文章も巧みに書かれていて、今読んでも面白い。
そして、最後のページ。
赤くて丸い、ボールのような妖怪。体の中心に大きな目玉。鈴を無数にぶら下げている。
「ヒトツメノオオムラジ。古塚山に出没するという妖怪。風の強い日、山道を歩いていた漁師が出会った。一説に、風の神様だという。その後、漁師がどうなったかは記録にない。古塚山は近所だ」
このページで記録は終わっている。
確か、この妖怪を探しに行こうと、古塚山に登ったはずだ。
凌と冰太郎は、「妖怪を探す旅」に何度も出かけた。河童が出たという川、笑い声を上げたという地蔵、油を盗んだ幽霊が出没したという寺。もちろん、妖怪たちに出会うことはなかった。当たり前だ、妖怪なんているわけがない。
ヒトツメノオオムラジを探しにいった時のことを思い出す。だが、あまり良く覚えていない。山に登るまでは記憶があるのだが、そこで何があったか、冰太郎とどんな会話をしたのか、思い出せないのだ。
多分、大したことはなかったのだ。だから、忘れてしまったのだろう。
子供の頃楽しかった思い出を失って、大人になっていく。多分、それが人生の正解だ。
凌はノートを閉じだ。
冰太郎も、過去の思い出を捨てている最中だったのかもしれない。新しい自分に脱皮しようとして、それが上手くいかなくって、捻くれているだけなのかも。
だとしたら、あの態度もしょうがない。
明日、もう一度話しかけてみよう。
ランドセルを背負っていた頃、二人は親友だったのだから。
ふ。
部屋の中に風が巻き起こった気がした。
誰か居るのか?
振り返る。
玄関の鍵を開ける音がした。
ああ、母が会社から帰ってきたのだ。疲れた足音だ。ドサリとスーパーの袋を置く音がした。
今日は夕ご飯を作ってやろう。
凌は自室の扉を開けた。