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寺の鐘  作者: 相草河月太
1/2

 太助の爺ちゃんは寺の坊さんで、いつも太助や友達に優しくしてくれ、時々は菓子や茶も出してくれる。何をしてるかは知らないが他の坊主や大人たちは爺ちゃんにペコペコ頭を下げ、友達の親はあんまり気軽に遊びに行っちゃいけない、というみたいだが、好きにさせてくれるのでみんな寺で遊ぶのが大好きだ。

 茶は苦いし、時々難しい話を聞かせてくるけれど、太助は爺ちゃんが大好きだった。

 特に、爺ちゃんが怒る時の、独特なやり方が気に入っていた。子供ながらにガミガミ怒鳴りつける大人は怖いけれど尊敬できない。一風変わったやり方でみんなを納得させる爺ちゃんになら、怒られてもいいし、きちんと守ろうという気になる。

 今日もそんなことがあった。

 

 一緒にいたのは木実と梨男と亀吉で、みんなで泥遊びをしていた。昨夜降った雨が寺の境内に水たまりとぬかるみを作り、ちょうどいい「泥場」ができていた。

 早速みんなで裸足になってぬかるみに入り、手をつっこんでこねて遊んだ。ここの土は木目が細かくてジャリジャリしていなくてとても気持ちがいい。ただ泥をこねるだけでも夢中になってしまう。

 山みたいに盛り上げたり、それを踏んづけて潰したり、水でさらさらにして顔につけあったり、みんなでひとしきり遊んだ後は、泥団子を作りだ。大人から見れば今までみんなでワイワイやっていたのが静かになって、何だろうと思ったら、子供達がみんな思い思いにだんごを作ってるのだから奇妙な光景かもしれない。

 何で泥団子を作るかというと、前に爺ちゃんに見せてもらったつやつやなだんごがあまりにも綺麗だったからだ。ピカピカ光って鉄みたいで、太助はそれが泥団子なんて嘘だろうと文句を言ったが、爺ちゃんは笑って目の前でそれを木槌で割った。カチカチのそれに水をかけると、確かに土に戻っていく。

 で、そのあと作り方を教わって、結局あんまりうまく行かなかったけど、それでももっと頑張ればできそうな気がして、いまだにみんな挑戦しているのだ。

 太助は自分のだんごの出来栄えに夢中になっていた。爺ちゃんの言っていたくらいの硬さに丸いだんごが出来つつあり、舌舐めずりをしながらもっと綺麗に整えることばかり考えていた。だから梨男か亀吉のどっちが最初に始めたのかはわからない

 「ゴーン」

 と、鐘が鈍く響く音が突然して、ハッと太助は顔をあげる。

 鐘が鳴るのは五時と決まっているので、いつの間にかそんなに遅くになっていたのかと一瞬驚いたが、日差しはまだ高いし、何だか鐘の音も変に鈍かった。

 隣では梨男の妹の木実が一生懸命下手くそな泥団子をこねている。

 鐘の方から笑い声がするので近寄ってみると、もう一度「ゴーン」と、さっきよりはいい音が響いた。だんごを手に太助が近寄ると、鐘の影ではしゃいでいた梨男と亀吉がびくっとこっちを見た後、再び飛び跳ねて笑い出した。

 「何してんの?」

 梨男が口元を押さえながら指差す方を見ると、鐘に泥団子が綺麗にくっついていた。

 お寺の鐘は爺ちゃん自慢の立派なもので、屋根付きの小屋に吊り下げられた、大人の背丈よりも大きい大層なものだ。煤けたようにもみえるが、それとは違うなんとも落ち着いたざらつきに鈍く光る姿は、子供の太助が見ても感心するくらいだ。

 その立派な鐘に、ぽこんとだんごがくっついて飛び出している。なんだかお腹についたデベソというか、しかめつらした顔に飛び出したおできというか、とても変でおもしろい。

 きゃっきゃとはしゃぐ梨男と亀吉を見ていると、自分もやりたくなって、太助は手に持っていた団子を投げた。

 「ゴーン」

 間抜けな音がして泥団子が鐘にあたり、ぽこんとくっつく。

 それだけでも面白くて大はしゃぎだったのだが、くっついただんごがゆっくりゆっくり静かに滑って、最後につるんと下に落ちた時には、三人は腹が痛くなるほど爆笑していた。

 何やってんの?とあわてて走ってきた木実は、みんなが笑っているのがわからずむくれていたが、笑いを堪えながら梨男が「お前も投げてみろよ」と鐘を指差すので、不思議そうな顔をしながらもそれに従う。

 木実の力では鐘が鳴るほどの勢いはなく「ぺちゃん」という音を立てて小さなだんごが鐘の下の淵につぶれてへばりついた。

 今の太助たちにはそれすらも、いかめしい禿頭に鳥の糞が落ちたようなおかしさがあって苦しいほどに笑い転げた。木実は意味がわからないようだったが、みんなが楽しそうなのでつられて笑ってぴょんぴょん飛び跳ねる。

 「こら!」

 という声に四人は驚き我にかえってそちらをみると、怖い顔をした小坊主が向かってきていた。

 「何やってるか!」

 と、泥のついた鐘を見て顔を真っ赤にする小坊主に小さくなりながらも、太助たちは見えないところで舌を出している。結局怒るだけの相手は馬鹿にしたくなるものだ。

 太助たちは小坊主に呼びつけられてやってきた爺ちゃんの顔が、いつになく真剣なのでそこで初めてまずいことをしたなと思い当たる。しかし爺ちゃんはすぐに怒るでもなく、こちらへ来なさい、といつも茶を御馳走してくれる本堂裏の建物の、庭を眺められる座敷に太助たちを連れて行った。


 さあ、お座りなさい。いや、そんなにかしこまらんでもいい。悪いことをしたとはわかっているようじゃな。木実、泣かんでいい、ほれ、今菓子を出してやろう。亀、誰が先にやったなんて言いつけんでいいんじゃ。みんなあの鐘にだんごをぶつけて面白かったか?音が鳴ったみたいだの、あんまり綺麗じゃなかったが。寺の下の茶屋のおタミさんは、変な時間に鐘が聞こえて不思議がっとるかもの。はは。

 茶はいいもんじゃの。入れるのも、飲むのも心が落ち着く。

 みんなにはあの鐘の話をしたことはなかったかの。あの鐘は、このお寺で一番古いものなんじゃ。

 そう、本堂よりも、中の御本尊様よりも。一度火事でみんな焼けてしまったからの。いや、儂が生まれるずっと前じゃよ。

 でな、あの鐘には、まつわる不思議な話が伝わっててな。それを聞いたら、みんなはあの鐘をもっと大事にしようと思うじゃろうな、きっと。

 それは今から400年ほど前になるじゃろかの。お前たちも、お侍が大勢で戦いあって、だれが誰が大将になってこの日本を治めるか競い合っていたことがあるのは知っとるじゃろ?

 そうそう、太公さんや、家康公の時代じゃ。

 お前たちも聞いたことはあるだろう。お侍の大将だった織田信長、尾張のうつけものが近江に攻めてきて、この辺りの昔の名前じゃな、前に治めていた六角家を滅ぼして支配者になった。難しいか。ともかく、ここを治める大将が変わったんじゃ。

 信長はその時、このお寺の宗派、浄土宗と喧嘩をしておった。寺の方も負けてはいなくて、その当時は坊主も長刀振り回して戦っておったんじゃ。本願寺が中心となって、一向一揆ちゅう内乱みたいのも起こし取ったから、この寺も浄土宗ちゅうだけで目をつけられた。

 もちろんこの寺には僧兵、武器持った坊主じゃの、そんなのはおらんし、地元の衆のわずかなお布施で成り立っとるような今のように小さい寺じゃった。

 また悪いことに、この辺りは忍びの隠れ里もあったりして、ここの御先祖は全く関係ないのじゃが、ともかく場所柄疎まれておったんじゃな。

 で、信長の家臣の家臣ちゅうか、この国を実際に納めることになった村名ちゅう明智の家臣がおっての。そいつがこの辺りを厳しく締め付け出した。年貢は高く、もともと山の中で貧しいここいらには耐えられんほど。寺の行事には口をだし、皆で祭りのために集めた資材も、一揆の疑いありと言ってとりあげてゆく。最初は信長に歯向かう気もなかった民たちじゃったが、だんだん反感を強めていったんじゃ。

 ああ、梨男、起こさんでいい起こさんでいい。ちょっと難しいことを喋りすぎた。お前たちも眠くなっちまったろう。

 ごほん。

 ここからはもっとわかりやすく話そうか。

 そうさな、ふむ。


 その時の寺を預かっていた坊さんを太助と言った。そう、お前と同じ名前じゃな。

 太助は頭もよく人間もできておったから、村の人々からよく相談を受けていた。相談の内容はいろいろで、親子関係の行き違いや失敗をした村長の使用人の取りなし、恋愛相談や手紙を書いてくれ、なんて言う小さなことまであったが、太助は面倒見よくそれら一つ一つに答えてやり、町に働きにでた息子に、文字のかけない老婆の代わりに手紙を書いたりしてやった。

 そんなふうに信頼されていた太助だったから、村名が領主になり、寺が嫌がらせを受けても檀家や村人は太助を疎むことなく、むしろ親身に寄り添った。

 年貢の重さや娘が村名の部下に目をつけられて大変だ、何ていうお侍批判も、みんな隠しもせず太助に話した。

 それで、そういう相談はだんだんに真剣さを増していった。みんなもうこれ以上は耐えられん、という言葉を頻繁にこぼすようになり、こうなったらなあ、と最後の手段も口に出すようになっていったんじゃ。

 太助が一言命令したら、皆喜んで集まって一揆を起こす、そんな雰囲気じゃった。

 太助はそんな皆をなだめすかして、なんとか耐えるんじゃ、と訴えた。

 太助には昔からの友人が二人おって、そうじゃな、名前をそれぞれ梨男と亀吉という。そうじゃそうじゃ、お前たちとおんなじじゃな。

 そのうちの一人、亀吉は鍛冶屋をしていて、村ん中でも気性の荒いことでみんなに一目置かれている男じゃ。鍛冶の仕事で鍛え上げられた腕っぷし自慢で、村の荒っぽい若い連中のリーダーみたいな男じゃった。

 はは、亀吉と真逆か?亀吉もいつかはそうなるかもしれんぞ?

 太助と亀吉は、亀吉の持ってきた酒を酌み交わしながら話していた。

 「太助どん。今わしんとこに、若いもんがやってきて、二言目にはなんと言うと思う?」

 太助に酒を注ぎながら、自分でも手酌で煽って亀吉が言った。

 「戦うしかない、じゃ」

 太助はちびりと酒を舐めるとふうと息をつく。

 「一揆か、村ん連中はよっぽどこたえとるな」

 「こたえとる。我慢の限界じゃ」

 亀吉は太助を真剣に見つめる。

 「わしゃ、お前が我慢せいいうなら精一杯我慢する。お前が誰よりあの村名にいじめられとるのは知っとるからな。しかし、村ん連中はお前の一言を待っとるぞ?お前が一言いいだしゃあ、村中全員集まって、この苦しみを訴えるために喜んで命をかける。お前の寺は浄土宗じゃから、他の一向一揆とも協力できよう?このまま苦しんでカラカラに絞られて死ぬくらいなら、大暴れして一花咲かせた方がまし、そんなことをいう若いもんが大勢おる」

 ギラギラした目で思いを吐き出した亀吉は、茶碗の酒をガブリと飲み干す。

 太助はそんな亀吉を見て答える。

 「亀吉どんが、皆を抑えてくれておるのはよくわかっとるし感謝しとる。じゃがな、わしは信じとるんじゃ、あいつがきっと何かいってくるはずじゃと」

 「梨男か」

 亀吉の声が寂しげに変わる。

 「あいつは村名んとこで何しとるんかの。ここの苦しみを聞かんはずはないのに」

 「きっと何か考えてくれとるはずじゃ」

 「太助」

 亀吉は床を叩き、太助の方に体をむけて身を乗り出すという。

 「これだきゃあ言わんでおこうと思っとった。わしだってあいつとは竹馬の友じゃ。じゃが」

 と亀吉は目を閉じ天を仰ぐ。

 「人は変わるぞ。自分のためなら、人は鬼にでも魂をうる。わしゃあいつが村名んとこで、勘定役にまで出世したと聞いたぞ。貧しい農民の出で、侍としてそこまで取り立ててもらうにゃあ、なみなみならぬ苦労があったろう。それを今更手放せると思うか?いくらこの村があいつの故郷じゃからいうて、自分の出世を邪魔するようなことができると思うか?」

 「あいつは誰より村思いじゃったろう、忘れたか?」

 太助がいう。

 「あいつが侍になったのも、もともとはこの村のためじゃったろ。自分が偉くなることで、この村に乱暴狼藉がなくなるよう取り計らえる。野盗に親父を殺されたあいつが、引き取られた親戚の商人のところから、侍になったんもそういう話じゃったろう?」

 「もちろん知っとる!」

 亀吉はほとんど泣きそうな声でいう。

 「じゃが、あいつに何ができる?それにあいつは俺たちに構わず、もっと出世して偉くなって欲しいんじゃ。あいつの迷惑になるくらいなら、俺たちを無視したほうがいい」

 「変わらんのう、亀吉どんは。いっつもわしや梨男のことばっかりじゃ」

 二人はあらためて、昔の悪さを話しながら酒を傾けた。


4 

 そんな梨男が寺に現れたんは、それからすぐのことじゃった。

 十数人の槍持ちを引き連れ、仰々しい陣笠を被り、手甲足甲に大小差してまるで戦支度のよう。

 「下知を申し付ける」

 古い友人を目の前にして、梨男は馬の上から降りようともせずに命じた。

 「この度、阿奈山計上寺に申しつくるは、信長公上洛の準備にしてその役目尋常ならず。我主人村名清隆様の名により、大鐘の接収を仰せ使った。ひいては鐘を溶解ののち、三十貫の鉄砲の玉として納めるよう、計上寺和尚京極太助、村長太田宗次郎両名に告ぐる。近頃の良からぬ企、一揆の疑いを晴らし、身の潔白をたてつつ主人にお使えすることのできるまたとない機会である。光栄に思い、速やかに支度し納めるよう、重ねて申し付ける」

 太助がその時どういう気持ちだったかは痛いようじゃ。幼い頃からの親友が、自分の命のように大切な寺の鐘を、こともあろうに戦の道具にして差し出すよう命じてくる。

 何?意味がよくわからない?

 つまりの、この寺の鐘、そうあの大鐘じゃ。あれをな、溶かして鉄砲の玉にして村名に差し出せ、という命令なんじゃよ。

 この前の戦争の時もある話なんじゃがな。戦争というのはいつでも鉄や金属が足りなくなる。信長の時代も、ちょうど火縄銃っちゅう鉄砲が流行り出した頃で、そりゃあ大量の玉が必要になった。村名は寺の鐘に目をつけて、戦の準備に使おうとしたわけじゃ。

 領主様の命令は絶対で、口答えは許されない。使者である侍に対しても、無礼を働けばそれはお上にあだなすのと同じというのが当時の常識じゃった。

 だから太助が梨男に口を聞いたのは、周りの皆が驚くことじゃった。

 「お侍様」

 太助の呼びかけに、馬を返し立ち去ろうとしていた梨男が振り返る。

 太助の無礼な態度を諫めて「控えおれ」と声を荒げる手下をおさめると、ゆっくりと太助に向き直り梨男は言った。

 「なんじゃ」

 「一つ、お尋ねしたき儀がございます」

 「申せ」

 「お侍様は、この度の下知、ご承知おきの上参られたのでございましょうか?お上に口答えする気は毛頭ございませぬ。しかし、あなた様は、この下知をどう受け止めておいでなのか、それだけお聞かせ願えないでしょうか」

 太助はかつての親友に問うた。自分が信じた相手は、どう言う思いでこれを伝えに来たのか。たとえその言葉の端にでも憂いや悔しさが感じられれば、それだけで救われる思いだ。太助にはこのまま梨男が帰ってしまうことが耐えられなかった。

 「わしがか?笑止なことを申すな。我主人村名様とわしの思いは同じ。それにじゃ」

 表情のない顔で梨男は言った。

 「知りたければ聞かせてやる。この寺の鐘の接収を村名様にご提案申したのはこのわしじゃ」

 太助はその言葉を聞き、こみ上げる胸の痛みを隠すように顔を伏せ梨男を見送った。

 かつてこの境内で遊び、共に泥団子を作った仲間が、寺の命を奪うのだ。


 なんじゃ、木実、起きたのか。なんでそう口を尖らす。梨男もつまらなそうじゃの、俺はそんなこと絶対せんと?まあまあ落ち着いて最後まで聞きなさい。木実はなんじゃ?え?自分が出てこないのがつまらない?

 はは、すまんかったの、今から出てくるところじゃ。

 その夜、寺の本堂には亀吉をはじめ、村長や顔役連中、おなごでも代表格の面々など、村の主だった一同が集まっていた。

 話は当然、太助に決断をくだせとの催促じゃ。亀吉も村長も、太助が首謀者になる必要はない、捕まった時に首を斬られるのは自分でもいい、ただ、寺の代表であり皆の中心として太助の協力が必要で、ことを起こすかどうかはお前が決めろ、と詰め寄っていた。

 ただならぬ空気で、皆今にでも農具を持ち寄って城に押しかけんばかり。

 太助は考えていた。今日の梨男のこと。太助には梨男があんなふうに本当になってしまったとはどうしても信じられなかった。

 このまま太助が決断を下さねば、亀吉は自分たちだけでもやる、と村長をけしかけるだろう。皆が命をかけるのならば、太助もそれに参加しない手はなかった。

 しかし。心が決まらない。

 そんなジリジリとした時間が流れる中、表を見張る若者の一人が扉をコツコツと叩いた。

 皆ハッと息を飲み動きを止める。もし侍にこの場を見つかりでもしたら、言い訳も立たず切りふせられるだろう。

 「人影がこちらへ向かってきます」

 今更隠れようもない。もし村名の手のものなら、ひっ捕らえ口を封じる覚悟で亀吉はいた。

 「どんなやつだ」

 「女子がひとり」

 「女子?」

 油断はできぬが変に荒立てたくもないと太助は立ち上がり、静かに本堂の外へでた。

 満月の夜で寺の境内は明るく照らされている。微かに虫の鳴き声が響く静かな参道を、笠を被った女が向かってくる。太助は自分も偶然庭へ出てきた風をよそおい声をかけた。

 「月の綺麗な晩ですな。旅の方ですか?」

 使い古されてはいるが仕立てのよい着物でこの辺りの娘でないことは明らかだ。

 「いえ、城下の方から参りました」

 「ああ、どうりでお見かけしないと思いました。で、夜更に寺に何用ですかな?」

 優しく声をかける太助。女がふっと笑ったのが聞こえた。

 「太助様、私のことをお忘れですか?」

 艶のある声で、思わぬ親しげな悪戯っぽさを含めて女が言うのを聞いて、太助は驚く。

 顎の下に回した笠の紐を細い指でほどき、女はゆっくりとその顔を見せる。

 長い黒髪を後ろで束ね、薄白粉にまゆと紅を軽く引いただけの薄化粧だが、月の光に肌が白く映え切れ長の大きな目が潤み女は美しかった。

 「あっ」

 一瞬の間ののち、太助の頭のなかで女の顔が焦点を結んだ。

 「木実・・・か?」

 梨男の妹で、一緒に野山を駆け回った負けん気の強い木実。いつも赤い頬をして誰よりも元気に飛び回っていた童の姿は、その何かに挑むような目にわずかに面影があった。年上の兄たち男仲間に置いていかれまいとしてムキになるその眼差し。

 木実は太助にじろじろと見つめられ、照れたように頬を染める。

 「嫌だ、そんなにじろじろ見たら。化粧もしてこなかったのに」

 「いや、綺麗になったな」

 太助は思わずポツリと呟き、そんな自分が急に恥ずかしくなって丸い頭をかく。

 おやおや、木実、そんなによろこんで。はは。きっと木実もべっぴんさんになるじゃろうの。

 えへん。

 まるでお見合いの顔合わせ直後のような妙な間のあと、木実はその目に鋭さを込めて言った。

 「太助さん、お話があって参りました」

 「木実、実は今」

 「わかっています。村の皆さんもそこにおいでなのでしょう」

 木実は本堂の方に目をやってから、太助にうなずいて見せた。何もかもわかっている、というように。

 「その、皆さんが話あっていることについてのお話です。お願いです、この人の話を聞いていただけないでしょうか」

 太助はわずかに身構え答える。

 「この人?誰か他にもおるのか?」

 木実は「はい」と答え、参道の入り口に向かって声をかける。大鳥居の柱の影から、もう一人の人物が姿を見せる。

 編み笠を目深にかぶり、着古し繕いのあとも見える袴姿に皮半纏を着た男で、身のこなしからただものでない雰囲気を漂わせている。

 眉をひそめる太助の耳に口を寄せた木実が小声で何かを説明する。

 聞いていた太助の顔に驚きが広がり、信じられない、とばかりに体をのけぞらせ男と木実を見比べる。

 あまりにも太助の戻りが遅いことに痺れをきらし、亀吉が様子を伺いに行こうかと腰をあげた時だった。

 扉を静かにたたく音がして

 「わしだ」

 という声をかけたあと太助が顔を見せた。

 見慣れぬ男女の姿にその場に潜んでいた皆の衆が身を固くする。太助に事情を問い詰めようと亀吉が声を発する前に、女が言った。

 「亀吉さん、久しぶり」

 「木実、ちゃんか」

 太助にも負けない驚きが亀吉の顔に浮かぶ。嬉しそうにうなづく木実と興奮を隠せない亀吉のやりとりに、みなもすぐに木実のことを思い出し胸を撫でおろした。

 「いやあ、どれくらいぶりだ。10数年にはなるか。梨男のやつが侍に取り立てられて、向こうで曲がりなりにも屋敷を構えることができるようになって、木実ちゃんを呼び寄せて以来だよな。まあ、すっかりべっぴんになった。いや、見違えた。ちゃんと武家の娘になっちまって」

 本気で感心する亀吉に木実は遠くをみるような、深く思いやる笑顔をみせながら答える。

 「全部兄さんのおかげよ。農民出の私が、向こうの屋敷で恥をかかないように着物も髪結も、習い事も全部本式にさせてくれたの。対して稼ぎもないのに、それを全部注ぎ込むようにして。おかげで兄さんは友達も恋人もろくにいやしない、仕事の虫だってみんなに言われるくらい苦労させちゃて」

 「木実ちゃんは、その、どうなんだ?」

 亀吉の問いに木実が首をふる。

 「今は兄さんの世話で精一杯よ」

 「そうか」

 場違いなやりとりに顔を緩める亀吉に、溜まりかねて村長が口を挟む。

 「で、あんたと、その、後ろの男はなにをしにここにやってきたんだ?」

 改めて皆に向き直り、真剣な顔で木実がいう。

 「皆さんに、お願いがあってまいりました」

 太助が、木実の後ろにいた男を部屋に招き入れる。男のただならぬ雰囲気に皆が呑まれ、これからされるであろう話に固唾を飲む。

 本堂の扉を太助が静かに締め、月夜の密会が本格的に始まろうとしていた。

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