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この子供、名前はハル。音だけで、漢字は分からない。見た目、男の子。マキの言うことを信じれば『私の子供』ということになる。もし現在が202x年なら、この子の年齢から見ても、まさに私が殺したはずの子……。
耳が不自由と言っていたが、さっきの私の言葉も聞こえていなかったのだろうか。
「ハル……くん」
恐る恐る声をかけてみる。返事はない。こちらを見もしない。
私はもう一度トライしてみた。今より大きな声で、はっきりと。
「ハルくん」
やはり聞こえないのか。反応は全くなかった。
思わず、ほう、とため息をつくと、ハルは突然振り返った。意味もなくぎくりとする私に笑いかけると、こちらに向かって走ってくる。
座り込んだ私の服の裾を掴むと、砂場の方へ引っ張る。立ち上がりついて行くと、ハルが作っていた砂山の前で止まった。手を離し、自分は山の反対側に移動して、トンネルを掘り始める。私を仰ぎ見ながら砂山を指差す。
「私にも掘れってこと? 嫌よ。手が汚れちゃう」
躊躇っていると、ハルはまた、砂山を指差した。
「仕方ないなあ」
私はひとつ、ため息をつき、しゃがみこむ。あのおばさんはいまだにこちらを向いている。手に持った箒で何度も同じところを掃きながら、ちらり、ちらりと向けられる視線が痛い。
再びため息をつき、これから汚れてしまうであろう自分の格好を見下ろし、目を見開いた。ジーパンにTシャツ 。正しく砂遊びにはもってこいの格好をしている。ここ数年、休みもなく働いていてスーツしか着ていなかったから、こんな格好は新鮮だ。
どうして、私はこんな格好を?
頭に浮かんだ疑問も、さっきからの出来事でショートした頭にはさほど重要な事柄としては残らないようだ。
再びハルに催促されて、私は砂に手を載せる。ひんやりとざらついた感触。ひとつ、掘り進んでみれば、爪の中に砂が入り込んでしまうのが気になって、一瞬手を止めてしまう。
しかし、目の前で熱心に砂を掻いている子供の姿を見ると、なぜかそんなことはどうでもいいことに思えた。
覚悟を決め、思い切って大きく砂を掻く。
ざくり、ざくり。一掻き、また一掻きとする度、無心になる。ただ、指先のざらついた感触だけ感じながら、砂を掘り進める。こんな感覚は何年ぶりだろうか。10年、15年、いやもっと、もっと昔……。
不意にひんやりとした指先に熱が触れる。それは次第に私の手を包み込む。じゃりじゃりとした小さな手。ハルの手だった。トンネルは貫通したのだ。
ハルを見れば、額に少し汗を浮かべ、嬉しそうに微笑んだ。
この手を振りほどくことは簡単。ただ、私にはそれができない。金縛りにあったみたいに。その暖かな呪縛にとらわれた瞬間に、一瞬世界が彩りを取り戻したように思えた。
考えてみれば、私はここから動けない。居場所がないのだから。会社も、マキも、本人だけど、違う。こういう状況になってみて、初めて自分が本当に頼れる人間がいないことに驚く。普段何気なく過ごしている日々の中には、顔のない人間がどれ程多かったことか。頼れるものが何もないこの状況で、唯一触れ合えるのがこの子供。
なぜだか涙がにじむ。子供なんて嫌いなはずなのに、この懐かしい感じは一体どうしたというのだろうか。
私はずっと忘れていた。
勤めだしてから5年。仕事に追われて、ろくに家族にも会ってもいなかったんだって。
お父さん、お母さん、生意気な弟。順に顔を思い浮かべて、次に浮かんだのはマキの顔だった。好きだと思っていた日下の顔ではなく、マキの顔。昨日のあの、マキの顔。
マキに会いたい。
あの優しい顔を見て、安心したい。頼れるものが何もない世界で、やっと大切なものに気がつくなんて、なんて愚かで、なんて悲しい人間なんだろう。
もし、元の世界に戻ったらもっとマキのことを大切にしよう。でも元の世界に戻ったら……。この子はもう存在しない。
その前に、マキと3人でこの公園を歩いてみるのもいいかもしれない。
私は砂山から手を引き抜き軽く砂を払う。
「行こう」
ハルの手をとり、砂場を後にする。ハルは素直に私に従う。そんな子供に心の中でささやく。贖罪の言葉を。声に出しても聞こえないなら、繋いだ手に、思いを乗せて。
公園を出るとすぐに大通りがある。
マキの職場まではこの道を10分ほど歩けばいい。
本当の父親には会わせてあげられないけれど。何度目かの贖罪を繰り返す。本当に、私はこの子には謝っても謝りきれないほどの過ちを犯しているのだと、いまさらながらに気がついた。
夕暮れのその大通りは車も多いが自転車も多い。最近ガソリンが値上がりした影響か、はたまた健康志向の人が増えたのか、私の記憶の中よりもさらにこの時代は自転車人口が増えているみたいだった。
今もまた、歩道を猛スピードで自転車が追い抜いていく。
「危ないなあ」
私はつぶやいた。そして一瞬、ハルから手を離した。
もう一度つなごうと思って握った手は空を舞う。疑問に思って横を見る。そのわずかな間。ハルは大通りの中央分離帯に向かって駆け出していた。
行き交う車、車、車。飲み込まれる。帽子が。
ああ、帽子が飛ばされたんだ。
瞬時脳が状況を把握した。
「ハル……っ」
叫ぶと同時に頭に去来する思い。
……存在しないのなら、いっそこのまま見殺しに。
しかし、そんな思いよりも先に、動いていたのは体。膝丈の小さなその存在に向かって、私は駆け出した。ヘッドライトよりも眩しく輝く、その存在に。
そうして私は、その自分の行動に大いに満足しているのだと、思った。