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夢かと思い右頬をつねっても見るが、やはり痛い。代わりに昨日マキに打たれた左頬の痛みはなくなっているのに気がついた。さっきまでは確かに鈍い痛みがあったはずなのに。それでは、昨日の出来事が夢だったのだろうか?それならいっそ、そのほうがいい。あんな出来事など疲れが見せた悪夢だったんだ。
そこまで考えて、はたと思い出した。……仕事!
あわててそばに落ちていたバッグの中を探り、スマホを取り出し、目を瞠った。私のじゃない。ハンカチも財布も見覚えがない。ただ、バッグは私のものだ。お気に入りのブランドの限定品で大奮発して一昨日買ったばかりだからよく覚えている。
ほかにスマホは入っていないか、バッグの中身を全てベンチの上に出して確かめてみるが、やっぱりなかった。
「……お借りします」
とりあえず、誰に言うでもなく一言そう断ってスマホに触れる。パスワードを求められ、思いつくまま入力すれば、すんなり開いた。そして、真っ先に着信履歴を見た。
「マキ?」
着信履歴や発信履歴には、はっきりとマキの名前が残されている。他の履歴を括ってみても大半が知った名前だった。
(このスマホ、中身は私のと同じだ……)
混乱する頭を抱えながら、K企画の名前を発見する。慌ててかけてみると、ワンコールで相手が出た。後輩の神崎利衣だった。なんてタイミングの悪い。一番苦手な相手。
「綾子先輩! お久しぶりです。どうしたんですか、突然」
「久しぶりって、昨日も会ってるじゃない」
「ええ? 先輩、仕事やめてすっかり平和ボケしちゃってるんですかぁ。もう2年振りくらいですよぉ。ほら、偶然薬局で会った、あの時以来です」
「神崎、ちょっと、冗談はやめて。ただでさえ混乱してるんだから。日下さんに代わってくれる? 打ち合わせしたいの」
「冗談言ってるのは先輩でしょ。日下さんも先輩と一緒にやめたじゃないですかぁ。送別会もやったのに覚えてないんですかぁ。あんなに仲良さそうだったのに、薄情だなぁ。そっちでハル君も泣いてるみたいだしぃ。あたし、今ちょっと忙しいんで、もう切りますよぉ」
「ちょっ、神崎……」
私は半ば呆然としながら、通話をオフにした。
神崎はいやなやつだが、私にこんな冗談を言う意味がない。さっきの神崎の話だと、2年以上前に私は日下と共にK企画を退職したということか。
そんな馬鹿なことがあるものか。
心の中で悪態を付きながら、とりあえず、会社に行かなければ、と思った。企画書が心配だった。
「ちょっと、あなた」
公園を出ようと、出口付近に差し掛かったとき、突然声をかけられた。知らないおばさんだ。手を腰に当てて私をにらみつける。
「あなた、子供を放ってどこに行くの。あんなに泣いて、かわいそうじゃないの」
おばさんは早口でまくし立てる。
「いや、でも。私、仕事が」
「子供の世話より大事な仕事って何よ。全く、最近の若い母親はこれだから。ちゃんとそばにいてあげなさいよ」
有無を言わせない口調に仕方なく、泣いている子供のそばに戻る。おばさんはまだ仁王立ちで私を睨むように見つめている。
ベンチに腰を下ろして、心を落ち着けようと、目を瞑る。
子供は天使だってよく言うけど、そんなの絶対嘘だ。私の邪魔ばかりして、泣いている声も耳障りでいらいらする。
この半月、睡眠や食事や、その他一切の欲望を断ち切って作った企画書もやっと満足のいく出来栄えになったというのにこの有様。勝手に私の中に入り込んで、勝手に成長して、せっかく開放されると思ったのにまた厄介をかける。
せっかくマキに頼んで何もかもうまくいくところだったのに。
……マキ!
そうだ、マキならば何か知っているかもしれない。いや、ここ数日の私の変化を知っているのはマキだけだ。
私はあわててさっきのスマホを取り出しマキにコールする。