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そこから先の説明はよく覚えていない。まるで頭に靄がかかったようだったから。その帰り道、歩きながら私は牧瀬恭市に電話を掛けた。三回と半分のコール音の後、ノイズとともに低い声が聞こえる。
「アヤ? ごめん。仕事中」
マキの声は好きだ。低くて、優しい。聞いていると落ち着く声。
「マキ。頼みがあるの。仕事終わったら、電話待ってる」
それだけ言うと電話を切る。彼は何か言いたそうにしていたけれど、結局、改めてかかってきたのは三時間後だった。そしてさらに三十分後、私はマキの部屋にいた。
「珍しいね。アヤが頼みごとなんて」
「これ、書いてほしくて」
マキは怪訝そうに差し出された用紙を見つめた。
「どういうこと」
マキの声は固くこわばっていた。
「お願いよ。今産むわけにはいかないの。マキも知ってるでしょ? 今回、やっと私の企画が通ったの。今までの努力が報われるの。やっとよ! ここで引くわけにはいかないの。私の人生がかかってるんだから」
「誰だよ」
マキのこんな顔ははじめて見た。その表情には普段のおどけた調子は一切含まれていなかった。マキがこんな顔をするとは、はっきり言って想定外だ。顔をしかめながらも、ため息をひとつついて、言うとおりにすると思っていた。いつものように、お前の尻拭いは慣れてるから、って肩をすくめながら。
「相手、あの日下ってヤツか? 前に不倫してるって言ってた」
私は無言でマキから視線をそらす。私の長い髪が顔を隠すように垂れたから、好都合だった。
日下は私が勤めるK企画の上司だ。仕事もできて、四十代の割にはおなかも出てなくて、やさしくて、職場でとても人気のある男。大学を出て就職してすぐ、そういう関係になった。マキには以前酔った拍子に話してしまったが、それ以外は一切口外していない。
「お前は自分のしようとしてることが分かってるのか? 子供の命を……」
「分かってる!」
思わず怒鳴った。「日下は産めって言うわ!きっとね!奥さんとは離婚できないけど、認知はしてやるからって恩着せがましく言うんでしょうね。こんな時に、子供なんか作った馬鹿な女に哀れみたっぷりの眼差しを向けながら」
「ばか!」
マキが怒鳴った。こんなことは初めてだった。だけどここで引けない。この仕事は私のすべて。私が認めてもらえるのは仕事だけなんだから。
「マキがサインしてくれないなら、今すぐこの子を殺す。そうね、ここの階段から落ちればいい。踊り場まで落ちれば私は死なずにこの子だけいなくなるわ。一回で無理なら、何度だってやってやる」
パアンと乾いた音がして視界がぼやけた。しばらくして、左頬をしびれたような痛みが襲う。同時にマキの気持ちが私の中へ雪崩れこんだ。やさしいマキ。そんな傷ついたような顔をしないでよ……。
「アヤ!落ち着けよ。頼むから」
マキが私の肩をつかんで揺らした。私はその手を払いのける。左の目から熱い涙がこぼれ、乾いた頬を濡らしていく。涙が出るのは、悲しいからじゃない。打たれた衝撃。ただそれだけだ。
「私は落ちついてる。これ以上ないってくらい冷静よ。今まで仕事で味わった痛みに比べれば、こんなことくらいなんでもない。安心して。たとえどうなってもマキを責めたりなんかしないから」
「俺を脅すのか」
「そんなつもり、ない。もうここにいても仕方ないみたいだから、帰る」
私が立ち上がり部屋の扉に手を掛けたとき、背後からマキの静かな声が降ってきた。
「本当に、後悔、しないんだな」
一語一語区切ったその台詞に、私は躊躇なく返事を返す。
「しない」
それが承諾の言葉となった。