scene3:マティーニ
くだらない。
涙なんか流しやがって…。
「私のこと、嫌いになった?」
上目遣いの決まり文句。
最初はそんなのも笑って許せた。
だが、徐々に嫌気がさした。
あいつは俺を見ているようで、見ていない。
あいつが見ていたのは、自分を飾る台詞や仕草だけだ。
そんなのも理解できてしまえば、一緒にいることに疲れも覚える。
でも辛いのは、
あいつのこと嫌いになったわけじゃないってことだ。
「マティーニを」
ふらりと入った場末のバー。
カウンターに座ったきり、何も注文していなかったことにふと気づいた。
そんな客一人、バーテンのマスターは何も言わずに放っていた。
そんな気遣いが、妙に温かく心に触れる。
「おまたせしました」
琥珀色の液体をたたえたカクテルグラスが目の前に置かれる。
その優雅な手つきに見惚れた。
ドライ・ジンの芳香な匂いが鼻をつく。
一口含み、舌の上で転がすと、瞬く間に脳髄が揺さぶられた。
――ち。泣いてやがるのか。俺としたことが…。
「いい仕事だ。マスター」
照れ隠しのつもりだったが、思いのほか声がでかくなった。
「ありがとうございます。ですが、マスターはやめてください。皆さん、私のことをコウと呼びます」
ふと顔をあげる。
コウと名乗った中年男の凛とした横顔があった。
「コウさんか…そう呼んでもいいのかい」
「ええ。ぜひとも」
抑揚のない声で言ったコウの顔が柔和に綻ぶ。
「いい店に出会えた。今日は最悪な日だと思っていたが…そうでもないらしい」
「それは何よりです」
いい女の面影と、うまいマティーニ。
悪くない組み合わせだと思った。