パンドラの瞳(旧版) ※要改稿
あんなモノ拾わなければよかった──
数日前、わたしは図書館からの帰り道でソレを拾った。
最初は、ただただ綺麗な赤い宝石のようなモノだと思って、何も考えないで拾ってしまった。
つい無意識で拾ってしまったのだ。
拾ってすぐ次の瞬間「はやく捨てなきゃ」と思った。
すぐに捨てたが、その直後からすでに何かよくない事が自分の身に起き始めていることを、何となく感じていた。
うかつだった。
どうしてあんなモノを拾ってしまったのだろう?
わたしは自分が持っている常識の外側にあることなど、天地がひっくり返っても起こるわけがないのだと、勝手に決めつけていたのかもしれない。
子供のころ、親から「知らない人についていったら駄目」とか「知らない人からお菓子をもらったら駄目」とか、うるさいくらい言い聞かされていたはずなのに──。
大人になってもそれは常識として当たり前のことで、ソレが何なのかわからないうちは手にするべきではなかった──ということに私は気づけなかったのだ。
しばらくして、わたしは自分の身に何が起きているのかを理解し始めた。
そこらじゅうから、たくさんの人の声が乱雑に聞こえてくるのだ。
周りには誰もいないはずなのに──。
聞こえてくる声は、恐らくこの周辺にある民家に住んでいる人たちのものだろう。
『あのクソ女、まじムカつくわー。お高くとまってんじゃねぇっつーんだよ! あー、ムカつく! まじで死ねよ!』
『あそこの奥さんときたら……失礼しちゃうわ! せっかくこの私が近所でもらった野菜を好意で少し分け与えてあげたっていうのに、もっと高価なモノでも買ってこれないのかしら?』
『あのクソ上司ども、偉そうに上から目線で俺をバカにしやがって! いつか痛い目に合わせてやるからな』
『健二のヤツ、このアタシが彼女になってあげたっていうのに、なんてセコい男なのかしら? もっと貢いでもらわないと割に合わないわ』
『さて……またいつものスーパーに万引きに行くか。あそこ絶対に捕まらねぇし……』
『また無能コメンテーターが、偉そうに的外れな意見ばかり口にしやがって! さっさと消えろよ、カス!』
他人の醜い感情が、次々と頭の中に入ってくる。
聞きたくもないような心の声が、勝手に聞こえてくるのだ。
醜い────
なんて醜いのだろう。
この声の主たちは、きっと上っ面では、いかにも理性のある人間を装って平然と生きているに違いない。
だが、わたしだけは知っている。
いや、わたしだけが知っている。
たった今──知ったのだ。
お前たちの心が、いかに汚くて醜いのかということを────
お前たちが、誰にも知られるわけがないと思って隠している心の内側を────
たった今、このわたしが知ったのだ。
こいつらは人間の皮をかぶっているだけの────
ヒトのカタチをしているだけの何かだ。
わたしは大勢の人の内なる声を聞いてしまったことで、人間というものがどんなに醜いのかということを初めて心から理解したのだ。
他人のプライバシーを侵害しているも同然だが、まるで罪悪感など感じなかった。
申し訳ないなどという気持ちは微塵も湧いてこない。
なぜなら、そこに人など存在していないと感じたからだ。
本当に醜い──。
なぜ、こんな声が聞こえてくるようになってしまったのだろうか?
思い当たることはひとつしかなかった。
「きっと、さっき拾った石のせいだ……」
そう思って、わたしは捨てた石を確認するために足元を見渡したが、なぜかいくら探してももうその石は見当たらなかった。
実際に、こうやって他人の心の声が聞こえるという設定は、映画やドラマでもよく目にする。
だが実際に自分がなってみて初めてわかる。
他人の声が────
醜い感情が────
勝手に頭の中に流れ込んでくる恐怖。
まるで世界中が悪意に満ちているようだ────────。
怖い……怖い────。
わたしは、不安に押しつぶされそうになっていた。
とにかくこの声から逃れるために、できるだけ人がいない場所へ────
そう考えていたわたしの中に、ひとつの疑問が湧いてきた。
なぜネガティブな感情しか聞こえてこないのか?
これだけたくさんの心の声が聞こえてくる中で、なぜかポジティブな感情がひとつもないのだ。
そこまで、この世の中は腐っているのか────?
だが今のわたしに、そんなことを深く考察している余裕などなかった。
あたりにある家から住人たちの醜い感情だけが、ひっきりなしに聞こえてくる。
綺麗な声などひとつもない。
こんなものを聞き続けていたら、本当に人間不信に陥ってしまいそうだ。
世の中にあるすべてのものが醜く感じられて────
まるで自分の心までもが侵されていくようで、とても恐ろしくなった。
「こんなの、知らない方がよかった……」
そう小さく呟いてから、わたしは小走りでその場を後にした。
◇ ◆ ◇
あてもなく彷徨っていると、今付き合っている彼氏が目の前から歩いてきた。
お互いにびっくりした顔で立ち止まる。
「あれ……雪村さん? こんなところで会うなんて奇遇だね」
まだ付き合い始めて間もないが、とても素敵な男性だとは思う。
初めてのデートの日に、いきなりホテルに誘われた時はさすがに嫌悪感を抱いたが、わたしが拒絶すると素直に謝ってすぐに身を引いてくれた。
それからは変な下心を見せることもなく、とても気が利いて優しくしてくれる。
わたしには昔からずっと好きだった人がいた。
子供のころから、いつも一緒になって遊んでいた男の子。
だが最近になって、その恋は報われない恋なのだと強く感じるようになっていたのだ。
そんな矢先。わたしの前に現れたのが、この人────野口利彦さん。同じバイト先の先輩。
わたしが初めてのバイトの日、彼はとても熱心に仕事を教えてくれた。
それから数日後、わたしは彼に告白されたのだ。
思えば、わたしが彼の告白を受け入れたのは、初恋の相手を忘れるためだったのかもしれない。
彼は、爽やかそうな笑顔をわたしに向けて言った。
「こんなところで偶然出会うなんて、やっぱり僕らは運命の赤い糸で結ばれてるんだよ」
もちろん悪い気はしなかった。
きっと彼なら、一生わたしを大切にしてくれる。
そう思っていた。
だが────
「ところでさ────今日の夜とか、どう? 綺麗な夜景でも見ながら、雪村さんとディナーしたいんだけど」
彼の言葉の裏側で、違う言葉が聞こえてくる。
『へへ。ラッキーだ! 絶好のシチュエーション! もう我慢できなかったんだ。上手いこと言って、今日こそは絶対に喰ってやる!」
わたしの心臓が、ドクンと大きく脈打った。
あろうことか、彼の心の内側にあるものも例外なく、声となって聞こえてきてしまったのだ。
『こんなイイ女とヤれるチャンスなんて、そうそうないからな。絶対に逃がさないぞ……! その前に徹底的に躾けて、僕から離れられないようにしてやる!』
わたしの思考が停止する。
あまりの衝撃に、彼に返す言葉が出てこない。
『従順になってしまえば、あとは思う存分楽しむだけだし、いくら躾けても思い通りにならないようなら、捨ててしまえばいいだけだ』
わたしは目を大きく開き、口をぎゅっと強く結んだ。
すると彼は無言で立ち尽くすわたしを、不思議そうな目で眺めながら言ったのだ。
「……どうかしたの、雪村さん? なんて顔をしているんだい?」
この時のわたしは、いったいどんな顔をしていたのだろうか?
もし彼の本性を知らないままいたら、弄ばれるだけ弄ばれて捨てられていたに違いない。
この時ばかりは、この『不思議な能力』に感謝をした。
そしてわたしは彼と一言も会話を交わすこともなく、そのまま逃げるようにその場を立ち去ったのだ。
彼が何かを叫びながら追いかけてきたようだったが、そんなことはもうどうでもよかった。
どうせ後でメールで別れを告げて、二度と会うつもりなどなかったからだ。
わたしは彼のことを無視して、ひたすら走り続けた。
どこに向かうでもなく、ただ無我夢中で走り続けたのだ。
しばらく走り続けて疲れたわたしは、息を切らしながらその場で足を止めた。
乱れた呼吸を少しずつ整えて、深呼吸をする。
そしてわたしは、そっとうしろを振り返ってみた。
「……いない」
自然とため息が出て、その場に立ち尽くす。
落ち着いて思考がクリーンになってから、わたしはあることに気がついた。
相変わらず、ぽつりぽつりと醜い感情が断続的に頭の中に流れ込んでくるが、これまで嵐のように聞こえていた声は幾分か少なくなっている。
周辺には民家もあまりなく、工場などの建物もない。物理的に周囲に人がいなくなったことが原因だろう。
恐らく一定の範囲内にいる人が対象になっているに違いない。
わたしは、行くあてもなくまた歩き始めた。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう?
あの石を拾ってしまったから?
どうしてわたしだけが、こんな目に合わなければならないのか?
歩きながらいろいろ考える。不満や後悔ばかりだが、これまでに起きたことを思い返して思考を巡らせていると、少し気持ちが落ち着いて楽になった気がした。
それから少しすると、わたしは自分の心の中にも醜い感情があることに気がついた。
さっきまでさんざん嫌悪していた人たちと何も変わりないではないか。
わたしは自分の彼氏だと思っていた男の内なる声を聞いてしまったことで、本気で彼に災いが降り注げばいいのにと、知らず知らずのうちに心から願っていたのだ。
あんな男など、不幸になってしまえばいいのだと────
この世のすべての絶望が、あの男に降り注げばいいのだと────
そう、わたしは望んでしまった。
あの男が悶え苦しみながら死んでいく様を鮮明に想像し、あわよくば現実になって欲しいと天に祈ったのだ。
気がついたら、わたしの目から涙がこぼれていた。
わたしの心は、こんなにも醜かったのか────────。
あの男は、わたしを弄ぼうとした。
だが────
だからといって人の死を望むなど、わたしは何様だ。
わたしは醜い────────
そう思ったら急に自分がみじめに感じて、いたたまれない気持ちになった。
周りには誰もいない。わたしはひとりぼっちだ。
ただ悪意の感情だけが、声となってわたしを取り囲んでいる。
怖い、怖い────。
ひとりでいるのが、こんなにも怖いなんて考えたこともなかった。
不安に押しつぶされそうになりながら、わたしは歩き続ける。
夕日が照らす田舎道を、ひとりぽつんと歩く。
もっと人の気配がしない場所を求めて、当てもなく、ただ彷徨い続けた。
◇ ◆ ◇
しばらくひとりでトボトボと歩いていると、また知っている人に遭遇した。
ずっと前から好きだった幼馴染の男の子だ。
「あれ、愛乃じゃん? なんでこんなところを歩いてるんだよ?」
「き、恭介くん……」
突然話しかけられて、わたしの顔はのぼせたように赤くなってしまった。
もう諦めたはずだったのに────。
「おまえんちって、こっちじゃねーだろ?」
「そ、その…………」
わたしがオドオドして口籠ってると、彼は「ま。俺んちもこっちじゃねーし、そんなことどうでもいいか」と言って自ら質問を取り消した。
わたしの様子から何かを察して、きっと気を使ってくれたに違いない。
そういう気さくなところも好きだった。
しばらくふたりの空間を沈黙が支配していたが、しびれを切らした彼の口から先ほどとは別の話題が飛びだした。
「最近おまえに連絡しても全然返事がないから、どうしてるのかと思ってたんだよ。元気でやってんの?」
「それは…………」
せっかく話しかけてくれたのに、返す言葉が出てこない。
きっと彼に黙って利彦さんと付き合っていたことが、後ろめたかったからだ。
別にわたしと恭介くんの間に、これと言って特別な関係があったわけではない。
だが、なぜか変に意識してしまって、思うように喋れないのだ。
すると、彼はいつものように悪態をついてきた。
悪意を感じさせない心地の良い悪態。
「──ていうかさ。お前って昔からぜんぜん変わらないよな。口にファスナーでもついてんの?」
いつも彼は、わたしに対して遠慮がない。
でも、きっとそういうところも好きだったんだと思う。
昔、思いきって遠まわしに告白してみたことはあったが、なんとなく有耶無耶にされて流された。
彼は絶対にわたしの気持ちを知っているはずなのに、何の音沙汰もないというのはわたしに気がないからに決まっている。
だからわたしは彼への想いに決別するために、利彦さんの告白を受け入れたのだ。
そんなことを考えながらぼーっとしていると、彼が心配そうな顔でわたしの顔を覗き込むようにして声をかけてきた。
「おい、愛乃。大丈夫か?」
突然、目と鼻の先に彼の顔がきたことで、わたしは驚きと恥ずかしさでいっぱいになり、停止していた思考が動きだす。
そして活性化したわたしの脳が、次の瞬間わたしに警告を発したのだ。
(一刻も早く、この場所から離れなきゃ────────!)
今わたしは限りなくひと気の少ない場所まで来ていたから、先ほどまで悪夢のように聞こえていた声の存在を忘れ去っていた。
だが間違いなく聞こえてしまうはずなのだ。
彼が心の内側に隠している感情も、秘密も、何もかも────。
わたしは彼が心の中にしまっているものを知ることが、とてつもなく怖かった。
彼がわたしに悪意を持っているなどとは思いたくもなかったが、これまでの出来事でわたしの心は酷く歪んでしまっていたのだ。
仮に悪意は持っていなかったとしても、もし彼の中にあるわたしの印象が他の誰よりもずっと低くて、どうでもいい存在だと思われていたとしたら、わたしは────────
もう立ち直れなくなるかもしれない。
だがそんなことよりも怖かったのは、彼の心も醜く歪んでいるかもしれないということだった。
彼にとってわたしが恋愛の対象かどうかなど、この際どうでもいいのだ。
彼がわたしに興味がないであろうことは、もうとっくからわかっていた。
それよりも、彼の心の中に醜悪な感情が渦巻いていることだけは認めたくなかったのだ。
もし彼からも悪意に満ちた心の声が聞こえてきてしまったら、これまでわたしが積み重ねてきた想いのすべてが崩れ去ってしまう────。
子供のころから十五年間、ずっと想い続けてきた恋心。
彼と結ばれなくてもいいから、わたしの恋が無駄ではなかったのだと────
わたしが捧げた十五年間は、価値があるものだったのだと────
そう、思いたかったのだ。
(ここにいたら、彼の心の声が聞こえてしまう……! それだけは避けなければ────)
わたしは急いでこの場から立ち去ろうと、慌てて身をひるがえした。
だが、それは叶わなかった。
なぜなら、すでに彼が心の内側に隠していたものすべてを覗いてしまったから────。
わたしは彼に背を向けたまま、その場で静かに佇んでいた。
すると無言で立ち尽くすわたしの背中を見て、心配した彼が小走りでわたしの前に回り込んできた。
「お、おい⁉ 急にどうしたんだよ、愛乃! ──って、うわっ⁉」
わたしの顔を覗き込んだ彼は、びっくりした顔で数歩退いた。
「なに…………? な、なんでおまえ……泣いてんの…………?」
わたしの両目にはたくさんの涙があふれていて、重力に耐えきれなくなった左目の涙だけが、わたしの頬を伝って流れていた。
わたしは────
彼が心の奥底に隠していたはずのものすべてを覗いてしまったのだ。
彼しか知らないはずの、わたしへの想いも────────。
昔からわたしのことを好きだったということを。
ずっとわたしを想ってくれていたのだということを。
誰よりもわたしを大切にしてくれていたことを。
十五年間ずっとわたしだけを見ていてくれたことを。
そして何より────
彼の心からは穢れひとつない声しか聞こえなかったという奇跡が、これまで絶望に打ちひしがれていたわたしの心に、希望という名の小さな光を灯したのだ。
彼がわたしに気がないふりをしていたのは、彼なりのやさしさからだった。
自分に自信が持てない中途半端なまま、わたしに告白することを嫌ったのだ。
彼の夢は世界的に有名なパティシエになること。
いつの日か自分の夢を叶えることが出来たら、わたしに告白しようと考えていたことも知ってしまった。
そんなことをしているうちに、わたしが他の男とくっついてしまったらどうするつもりだったのだとも思ったが、それはわたしのことを真剣に想ってくれている証明でもあり、わたしにはそれがとてもうれしかった。
あの赤い石を拾ってから彼のもとに辿り着くまでの間、嫌というほど人間の醜い心だけがわたしの頭を支配していたが、最後に残った彼の心だけはとても綺麗で────
それだけで、わたしの心は満たされたのだ。
別れ際、わたしは彼に「いつまでも待っているから」とだけ伝えた。
彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻って「わかった」と言って帰っていった。
次の日の朝────
もう他人の心の声は聞こえなくなっていた。
あれから十年後────
彼は立派なパティシエとなって、わたしのもとに帰ってきてくれた。
そして、わたしたちは結婚した。
彼と結婚してからは幸せな日々が続いていたが、わたしはある日ふと〝あの奇妙な赤い石〟のことを思い出していた。
思い返してみれば、あの赤い石はいったい何だったのだろうか?
わたしはあの奇妙な石を『パンドラの瞳』と勝手に命名して、実体験と共にブログに記した。
命名の由来は、わたしの体験したものがまさに神話に登場する『パンドラの箱』そのものだったからだ。
人間は多かれ少なかれ、誰もが心の奥底に負の感情を抱えて生きている。
嫌なことがあったり、ストレスがたまれば、それを発散させるために人はマイナスのエネルギーを発生させるのだ。
だが、そうしたエネルギーには形がないため、その人が隠そうとするかぎり誰もその人の醜い部分に気づかないこともある。
感情のこもっていない機械のような笑顔を振りまいて、上っ面だけの付き合いをしている人たちが、この世界に一体どれほどいるのだろうか?
わたしはあの石に触れたことで、そんな人々の醜い心の内側をすべて覗いてしまったのだ。
だけど、同時にわかったこともある。
心から大切に感じている人が近くにいれば、人の心は負の感情から解き放たれるのだ。
好きだとか、愛おしいだとか──
きっと心がそういう愛情で満ち足りているからだろう。
人が無意識のうちに心の奥底に抱え込んでいる負の感情が災厄であるとするならば、きっと愛情こそが人にとってたったひとつの希望なのだと────
わたしはそう考えるようになったのだ。
パンドラの箱からあらゆる災厄があふれ出したあと、箱の中にたったひとつだけ希望が残っていたように────。
きっとあの石は、もともと人間の醜い感情だけが声となって聞こえてくるように出来ていたのだと思う。
だからすべての人の心から、悪意のような感情しか伝わってこなかったのだろう。
ただひとつ──
例外として、もしそのような状況下でも綺麗な声が聞こえることがあれば、それはきっとその声の持ち主があの石を手にした者のことを本当に心から想っているからなのだと────
そう、わたしは思うに至ったのだ。
あの時、恭介くんの心の声だけが一点の曇りもなく澄み渡っていたのは、きっと彼がわたしのことを大切に想ってくれていたからに違いない。
また忘れてはいけないのは、わたしには醜い声しか聞こえなかった人たちにも、必ず大切に想う人がどこかに存在しているということだ。
もしあの石を手にしたのがわたしではなくて別の誰かだったとしたら、きっとその人にとっての大切な人の心だけが綺麗に映ったのだと思う。
恐らくあの石は、持ち主のことを大切に想っている者以外の心に潜む負の感情を、際限なく増幅して聞かせてくるのだ。
だからわたしは、それを『パンドラの箱からあふれ出したあらゆる災厄』と比喩した。
そしてわたしにとっては、恭介くんの存在が箱の底に残っていたという『たった一つの希望』そのものであり、延いてはそれがまるで『パンドラの箱』のようだったと考えたのだ。
大切な人がそばにいるだけで、この世界から災厄がふたつ消える。
大勢の人が大切な人といるだけで、この世界からそれだけ分の災厄が消える。
この世界のすべての人がすべての人を愛することができたのなら、この世界からすべての災厄が消えるのではないか────
そんなふうに思ったりもした。
わたしが一度は諦めた幼馴染の彼と結婚することができたのは『パンドラの瞳』がわたしと彼を再び巡り会わせてくれたからだと信じている。
それ以来、あの石は二度とわたしの前に姿を現すことはなく、いつの間にかわたしは自分の生活のなかで少しずつその存在を忘れていった。
そして生涯わたしを愛し続けてくれた彼と共に、わたしはその満たされた人生に幕を閉じたのだ。
数百年後────────
わたしのブログは世界から消えたが、それは次のような都市伝説に姿を変えて、人々の生活の中に溶け込むように定着している。
§ § § § § § § § § § § § §
この世界には『パンドラの瞳』と呼ばれる赤い宝石のような輝きをもつ奇妙な石が存在している。
もしも目の前にその石が姿を現しても、軽はずみに触れてはならない。
触れてしまえば、すでに災厄が世界のすべてを覆いつくしている事実を知ることになるだろう。
それを知ったとき、必ずあなたは世界に絶望する。
だが──
もしあなたがたったひとつの希望と引き換えに世界の災厄を知る勇気があるのなら、覚悟をもって『パンドラの瞳』を手にしてみて欲しい。
その時にあなたがひとつの希望に辿り着くことができたならば、きっとその希望があなたの世界を光り輝くものに導いてくれるはずだから────。
§ § § § § § § § § § § § §
これはわたしの人生において大きな分岐となった奇妙な出来事を綴った愛と奇跡の物語である。