日本国転移 〜試されすぎて炎上する大地〜
折からの悪天候で、大泊港のフェリーターミナルでは大勢の観光客がキャンセル待ちの乗船券を求めていた。
桜井恵美も豊原からの飛行機は諦めて大泊からのフェリーを利用しようとした訳だが、考える事は皆同じらしい。
北海道まで行けば鉄道を乗り継いで陸路で帰る事も可能だが、豊原から稚泊連絡船を経由して札幌まで行く特急は既に満席。
仕方が無いので釧路経由大洗行のフェリーで東京に帰る事になった。
豊原のホテルで飛行機を待った方が結局は早いかも知れないが、休暇には余裕があるからのんびり船旅というのも一興だろう。
土産や大きな荷物を先に自宅へ郵送したのは正解だった。
「あの船なの?」
頭を撫でてやると、シムカは気持ち良さそうに耳を動かし顔が緩む。
シムカは俗にケモノ系と呼ばれる獣人のうち、人狐属というキツネ型の種族の子狐で、ふわふわの毛並に包まれた頭と尻尾に、恵美もつい顔が綻ぶ。
「うん。船で一泊してから、電車で帰るわよ」
まだ幼くのんびり屋のシムカだが、人狐族とあって賢く物覚えは良い。
地図を見せて帰りの道順を示すと、出発地の上野駅を指差して喜んでいた。
往路は上野発札幌行きの寝台特急カシオペアで一泊、到着日は札幌市内を少し観光して、翌日に札幌発稚内行きの特急スーパー宗谷と稚泊連絡船を乗り継いだ、全行程2000km以上(海路210km)、総乗車(乗船)時間は30時間に迫る鉄道旅である。
樺太島内で大泊からの移動は鉄道とレンタカーが主で、流石に帰路も鉄道一筋は疲れるので空路で羽田まで一直線の予定だったが、大洗経由の船なら似たようなものかも知れない。
北の妖精とも形容される人狐属のシムカが生まれ故郷である樺太の大地を楽しんでくれたようだから、初めての飛行機旅行はまた今度でも良いだろう。
そんな事を考えながら、恵美は朝なのに薄暗い景色を眺めていた。
来年の宗谷トンネル開通で廃止される予定の稚泊連絡船で、大泊の港としての活気は落ちるだろう。
港自体は貨物港として存続しても、特に夏場の観光客が多く利用する光景は二度と見られないかも知れず、瞼に焼き付けておいて損は無い。
「船の切符は取れたから、時間まで少しお昼寝しよっか。それともお散歩する?」
「海、見たい」
シムカはこの旅行で、すっかり潮の香りが気に入ったらしい。
ターミナルの展望台には、観光地には必ずある有料双眼鏡があるが、霧がかってしまっているのが残念だ。
「行きに通った時は、船を下りてすぐに電車だったからね。疲れたら下で休めばいいから、ゆっくり見ようね」
怯えながら逃げ隠れする必要のない空の下で、海を指差して天真爛漫に笑うシムカ。
恵美が引き取った時、笑う事すら出来なかった頃から比べれば心の傷も癒えて来たのだろう。
旅客ターミナルに設置されている大型テレビではドラマを放送していた。
殆どの人が見向きもせずに自分の時間を過ごしていたが、突然の番組中断に空気が変わった。
「番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えします。本日午後2時30分頃、樺太庁鉾部市の沖で遭難していた漁船××丸と救助に向かった△△丸が、聖帝国に拿捕され――」
神妙な面持ちで原稿を読み上げるニュースキャスターに、徐々に注目が集まっていく。
「聖帝国の領事館は、漁民を装った周到な諜報行為、侵略行為であり拘束は正当。聖帝国の国内法に基づき厳正に処罰すると発表。これに対して日本政府は、聖帝国の行為は不当なもので、国際法と人道的見地に基づき毅然として対処する。と述べています。続報が入り次第――。あ、今入った新しい情報です。調査に当たっていた第10管区海上保安本部からの情報によると……」
そこでキャスターは顔を顰めてスタッフに『これ、本当なの?』と小声で確認を取った。
数秒のざわつきの後、キャスターは意を決して続きを読み上げる。
「失礼致しました。海上保安庁からの情報によると、2隻の船長は既に殺害された模様です。残りの船員の安否は不明です――」
「てーこく。やだよぅ……」
「大丈夫。今のシムカは一人じゃないよ? 危ない事があったら、私が守るからね?」
聖帝国からの弾圧という日々に怯えていたシムカは恵美の腕をぎゅっと掴み、涙目になっていた。
元世界でいうラザレフ岬、この世界ではエムロー岬の対岸。
間宮海峡の最峡部を望む鉾部は、漁業とその関連産業を中心とした港町である。
対岸までの距離は約7.3kmで、中間線が海上国境線となっている。
いつもなら貿易関係の船を除いて海上国境線を越境する船は居ないが、その日は様子が違った。
鉾部の漁協と海上保安庁が、日本籍の漁船の救難信号を受けたのだ。
推進器が故障した漁船は自力航行不能で、聖帝国の領海内を漂っていた。
聖帝国へ不用意な刺激を与えぬため、聖帝国側に事前承諾を得た上で漁協から手隙の漁船を救助船として派遣して曳航救助するという連絡があったのが2時間前。
「救助に向かった船諸共、拿捕されましただと!?」
海上保安庁の第10管区は、樺太と千島を両端にしたオホーツク海という広大な海域を警備担当としている。
転移以前より北方の領海や排他的経済水域を巡るいざこざが絶えなかった事から、南方の第7管区や第12管区と共に日本で最も“実戦慣れ”している部隊であった。
管区本部のある敷香市から見て鉾部は樺太島の反対側だが、樺太島西岸の警備を主に担当する部隊は南部の大泊港と西部の幌渓港に停泊している。
海洋捜索と海難救助に使われる固定翼機と飛行艇が配備される航空隊は敷香市と千島の得撫市の飛行場にある。
哨戒機は日本の領空内から遭難船と通信していたのだが、聖帝国の軍艦が来て拿捕された。
幌渓からは巡視船ゆうづるが出航して現場に向かっていたが、相手の領海内という事もあって間に合わなかったのだ。
総理大臣官邸の内閣情報集約センターには既に主だった閣僚が集まっており、総理大臣神谷博の着席で、状況説明と協議が始まった。
「緊急に私が呼ばれたという事は、現場での解決は無理な段階という事だね?」
「国民が白昼堂々、敵対的な軍事組織に拉致された……という事ですから、行方不明者の捜索という段階は過ぎました。聖帝国は、件の漁師は我が国による計画的な密入国の手先だと主張しています。単なる漂流者ではなく諜報員だとの事ですから、その辺りの“行き違い”も含めて既に政治問題です」
「彼が諜報員ではないただの一般国民である事は事実ですが、仮に本当に諜報員だとしても“諜報員ではない”と公式発表するのが普通です。なので、論点をここに置くと水掛け論になります。国内の言説でも一部には我が国による陰謀論も展開されていますし、野党も煩いですから」
「しかし公式に否定はしないと、それは言外に相手の言い分を認めた事になるよ?」
「ですから先方の発言の否定はしても、議論の争点をそこに置かず、あくまで不当に拉致監禁された一国民の保護と返還を訴える方向で動きます。法的、人道的に許されない事を当たり前に糾弾するだけです」
ただし、それが通じる相手ではない事は閣僚達の共通見解だったが。
「もう“亜人暴動”の時のようなゴタゴタは御免だからね。全てにおいて法に則り、情報公開を厳正に粛々と進めよう」
聖帝国において被差別民だった亜人達が日本の警察によって拷問や虐殺を受けているというデマが広がり、それが亜人達による暴動の引き金となり、警察が大規模に出動する事態になった。
暴動を鎮圧する過程で結果として亜人に死傷者を出してしまった事が、最初のデマをデマでなくしてしまった。
この事件による相互の不信感は未だにある為、二度とこのような不幸な事態が起こらないよう、政府や行政関係者はピリピリしているのだ。
「総理、残念な報せです。第10管区海上保安本部より、2隻の漁船の船長の首が返還されたそうです……」
「それは、つまり……?」
「首から下は、未だ行方不明のようです」
議場は凍りついた。
「本当なのだろうね? 誤報だったとしたら、冗談では済まされないぞ?」
「現場の船上で撮影された御遺体の写真も送られています。御覧下さい」
神谷はゆうづるから送信されプリントアウトされた写真を見る。
「よく解った……。これは総理大臣の、私の責任において解決すべき問題だ。原田君、聖帝国の駐日公使との連絡は?」
「梨の礫です。こちら側に一方的な通告をしてくるのみで、今の所は話し合いをする気は無いようです」
外務大臣の原田は、外務省を通じて聖帝国の特命全権公使と会談を持とうとしていたが、けんもほろろに拒否されていた。
「何が狙いなのか……」
「我々の常識で考えても答えは出ません。今までの事もありますし、瀬戸際外交という訳でも無いでしょうから」
「北部航空集団の偵察機RF-4Eが、聖帝国のエムロール郊外の線路で列車砲の稼働を確認しました」
「中井君、その列車砲とは何かね?」
「鉄道で移動する大型砲です。馬や車で輸送する大砲より大型長射程で、間宮海峡越しに我が国を直接砲撃可能です」
防衛大臣の中井が神谷に説明する。内容は幕僚長の受け売りであるが、要点は押さえている。
「奥端の次は鉾部か?」
「奥端は軍艦を使わねばなりませんが、鉾部なら特にそのような準備は要りませんからね」
「何れにせよ、小樽条約違反じゃないか……」
小樽条約とは聖帝国の沿海州の海岸から内陸に30kmの地域を非武装地帯とし、専ら沿岸警備に用いる軍港と最低限の警察力、海洋警備力を例外とし、陸海空軍の人員や武器の配備や集積を禁じる条約である。そしてエムロールは非武装地帯に含まれる都市だ。
実際に砲撃を行わなくても、そこに武器を置いてあるというだけで条約違反になるのである。
聖帝国海軍の主力艦は日清戦争から日露戦争時代の防護巡洋艦から装甲巡洋艦程度の性能で、最新鋭の戦艦で漸く日露戦争時の富士型戦艦並みの性能であった。空母は勿論、潜水艦も存在しない前近代的な海軍である。
しかし、だからといって無害であるとは言えない。
陸地を砲撃されれば死傷者が出るだろうし、船を砲撃されれば大破か沈没は免れないだろう。
現代の軍艦は装甲による直接防御より運動性と電子戦による回避、ダメージコントロールを中心とした間接防御に重きを置いている。
逆に言えば聖帝国軍艦が大口径砲主体である分、日本側艦艇はダメージコントロールが間に合わず一発で轟沈してしまう危険もあるのだ。
戦時中なら不用意に近付かなければ良いし、実際に現代の誘導弾を中心とした先進兵器を使えば水平線で顔を合わせる事無く決着を付ける事は十分可能だが、平時や準戦時といった時期の臨検等になると事情が異なる。
場合によっては相手の艦に接舷する必要も出てくるが、その過程で不意打ちを受けたらどうなるか……。
2年前、実際にそのような被害を受けた海上保安庁にとっては悪夢の再来とも言えた。
現代ものの習作です。
続きません。