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# RTした人の小説を読みに行く は承認欲求なのか?

作者: 津島 結武

【目次のようなもの】

○はじめに

○“#RTした人の小説を読みに行く”とは

○「承認欲求」とは

○なぜ「承認欲求」を否定するのか

○「読まれたい」という気持ちは「承認欲求」なのか

○作家は、「読まれたい」という気持ち以外に、「読まれたら嬉しい」という気持ちも有している

○“#RTした人の小説を読みに行く”をRTすることは「承認欲求」を満たすための行為なのか

○おわりに

○はじめに


 こんにちは、津島結武です。

 この度、このエッセイを書いたのは、ある一つの疑問のためです。

 タイトルの通り、Twitterで“#RTした人の小説を読みに行く”のハッシュタグがついたツイートをRTすることは「承認欲求」を満たすための行為なのか、という疑問のためです。


 僕は過去に「“#RTした人の小説を読みに行く”をRTするのって『承認欲求』を満たすためじゃないの?」と指摘されたことがあります。

 これは僕がアドラー心理学に基づいた生き方を目指している(アドラー心理学は承認欲求を否定している)上での指摘でした。

 僕は確かにそうだなと思い、しばらく“#RTした人の小説を読みに行く”をRTすることをやめました。


 しかし、時が経った今、僕はふと考え直しました。

 本当に“#RTした人の小説を読みに行く”をRTすることは「承認欲求」を満たすための行為だったのか?


 そこで僕はこのエッセイを書くことにしました。


 先に断っておきますが、これは僕を指摘した人を否定するものではありません。

 あくまで、“#RTした人の小説を読みに行く”を肯定し、推奨するものです。

 そして、これは僕の持論であり、普遍的な価値観とは異なる部分があります。


 以上の点を踏まえた上で、以下の内容を読み進めてもらえるとありがたいです。

 それでは、つまらないエッセイをお楽しみください。



〇“#RTした人の小説を読みに行く”とは


 正直説明する必要はないかと思いますが、一応書いておきます。

 “#RTした人の小説を読みに行く”とは、Web小説の読者や作家がしばしば使用するTwitterのハッシュタグです。


 このハッシュタグをつけてツイートすることで、多くのWeb小説の作家たちから作品を紹介してもらえます。

 しばしばこのハッシュタグとともに作品の条件を設定することがありますが、10人に1人くらいは条件を無視して作品のURLを送ってきます。


 また、作家側は“#RTした人の小説を読みに行く”のついたツイートをRTすることで自分の作品を読んでもらうことができる(かもしれません)。

 しばしば作家が自作とともにこのハッシュタグをつけてツイートしています。

 たまに売名目的のために使用し、読まなかったり適当な感想を残したりする作家もいます。(注※みんながみんな売名目的ではありません)

 勉強のためにツイートする作家もいます。


 “#RTした人の小説を読みに行く”は小説家になろう運営も是認しています。(他サイトはわかりませんが、たぶん大丈夫)

 しかし、「必ずブックマークする」「必ず評価5をつける」といった、不正に評価するような内容は禁止されています。


 公正な評価をしましょう!



〇「承認欲求」とは


 これは非常に曖昧な言葉ですが、このエッセイの要になるところです。

 Wikipediaにはこのように記述されています。

「承認欲求とは、『他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい』という欲求である。」


 こう見ると、否定する要素などどこにもないですよね。

 だれもが他者から認められたいと願いますし、自分を価値ある存在として認めたいと思うのも同じです。


 それに「承認欲求」は「マズローの階層説」でも下から4段目に位置する欲求です。

 「承認欲求」とは努力のモチベーションにもなる有益な欲求なのです。


 では、なぜ僕(アドラー心理学)は「承認欲求」を否定するのか。

 それは、「承認欲求」が強すぎると「認められること自体が第一の目的になってしまう」からです。



○なぜ「承認欲求」を否定するのか


 「認められること自体が第一の目的になってしまう」ことの何が悪いのか、疑問に思う人もいるかと思います。

 そこでもう一つ文を付け加えましょう。

 「認められること自体が第一の目的になってしまう」ことは、「他者の道」を歩むことであり、「自分の道」を歩まないことであるのです。


 まだ理解するには難しいですね。

 では、たとえ話をしましょう。


 母親の元でピアノを習っている女の子がいるとします。

 母親は娘が上手に演奏したときしか娘を褒めません。

 そのため、娘は母親から褒められるよう、ピアノを熱心に練習します。

 さて、この女の子はきちんと「自分の道」を歩んでいるでしょうか?


 僕は「自分の道」を歩んでいないと思います。

 しかし、女の子が褒められて喜ぶようなら何も問題がないのではないかという意見もあるかもしれません。


 それでは、こう考えてみましょう。

 女の子が一切褒められなくなったら、どうなりますか?

 さらに努力しますか?


 きっとするでしょう。


 その上で、もう一度問います。

 女の子は「自分の道」を歩んでいますか?

 歩んでいないと考える方が多くなってきたのではないでしょうか。外部からの評価で容易に左右されてしまうのですから。


 別の質問をしてみましょう。

 女の子は「幸せ」でしょうか?

 きっと彼女が「幸せ」を見出せる瞬間は褒められたときだけでしょう。

 それ以外は、たとえ順調にピアノが上手になっていたとしても、褒められなければ、彼女にとって何の意味もないのですから。

 つまり、「他者の道」を歩んでいると、自分の「幸せ」さえも他者に左右されてしまうのです。


 以上が僕の「承認欲求」を否定する理由です。



◦「承認欲求」に関するまとめ


☆「承認欲求とは、『他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい』という欲求である。」

☆「承認欲求」はモチベーションを上げる有益な欲求でもある

☆しかし、「アドラー心理学」では「承認欲求」を否定している

☆なぜなら、「承認欲求」を無理に満たそうとすると「他者の道」を歩むことになってしまい、「自分の道」を見失ってしまうから

☆「他者の道」を歩むということは、自分の「幸せ」さえも他者に振り回されてしまうということ


◦ちょっと余談


 ちなみに、人を認めることが悪いというわけでは決してありません。

 ただ、あまりに「行為」に対して褒めるなどの評価をしてしまうと、「自分」というものを失ってしまうということを、ここで述べたいだけでした。


 では、いったい何を認めればいいのか。

 それは、「存在自体」です。

 「存在自体」を認めることで、相手は「ここにいてもいいんだ」と安心感を覚え、「自分」を失わずに済むのです。


 また、承認欲求の話とはズレますが、評価するのではなく、事実を述べることも大切です。

 例えば、絵を描いた子どもがいたとしたら、「上手に描けたね」ではなく、「海を描いたんだね」や「とてもきれいに感じるよ」など、事実や気持ちを正直に伝えるのです。


 他に、悪いことをした子どもがいた場合は「ダメでしょ」と伝えるのではなく、「そんなことをしたら傷ついてしまうでしょう」や「ルールはみんなが気持ちよく過ごすためにあるんだよ」など、理由も一緒に伝えなければなりません。



○「読まれたい」という気持ちは「承認欲求」なのか


 さて、ようやく本題に入ります。

 皆さんは、自分の書いた作品を読んでほしいですか?

 まさか読んでほしくない人はいないでしょう。


 じゃあ、この「読まれたい」っていう気持ちは「承認欲求」なのでしょうか?


 初めに結論から述べます。

 「承認欲求」です。


「え、このエッセイは“#RTした人の小説を読みに行く”を肯定するものじゃなかったの?」

 そう思った方も多いのではないでしょうか。


 安心してください。僕が先ほど否定したのは「読まれたい」という気持ちであり、ハッシュタグに関しては否定していません。


 では、どうして「読まれたい」という気持ちは「承認欲求」のうちに入ってしまうのでしょう。



◦「読まれたい」という気持ちは「承認欲求」であるという理由


 例えば、「なんとしてでも多くの人に読まれたい」という欲求を有している作家がいるとします。

 上記の通り、この人は「承認欲求」を強く有しているといえます。

 なぜならば、――これは極論ですが――彼は読まれるためならば手段を選ばないからです。


 もし彼の作品が読まれなければ、彼は例のハッシュタグを利用したり、何らかの手段で自分の作品を宣伝したりするでしょう。

 または、これまで書いていた自分の小説を削除し、多く読まれるような物語を創作することも考えられます(「他者の道」)。


 方向性を転換してもなお、自分の書きたい世界を保っていられるのならば、何も問題はありませんが、もし新しく書き始めた物語が本当は書きたくもないものであるならば問題になります(「不幸」)。


 自分の書きたいもので「なんとしてでも多くの人に読まれたい」という承認欲求を満たすことができているのならば、何も問題はないように思われますが、そのような欲求がある時点で「他者の道」などのリスクがあるのは確かです。


 繰り返しますが、「承認欲求」は自分の意思に反して「他者の道」を歩んでしまうリスクのある欲求です。

 すなわち、読者次第で自分の作品の方向性等が変化させられるリスクのある「読まれたい」という気持ちは、「承認欲求」であるといえてしまうのです。



○作家は、「読まれたい」という気持ち以外に、「読まれたら嬉しい」という気持ちも有している


「『読まれたい』という気持ちが『承認欲求』につながることはわかったけれど、『読まれたい』と思うのはだれにでも当てはまることでしょう? それじゃあ、みんな『承認欲求』を強く有しているということではないか?」


 そう考えた方が大勢いるでしょう。

 ではここで問います。


 本当にすべての人(本当に読まれたいと思っていない人は除いて)が「読まれたい」と思っているでしょうか?


 いいえ、みんながみんな、単に「読まれたい」とは思っていないでしょう。

 しかし、似た気持ちは有しています。


 それは、「読まれたら嬉しい」という気持ちです。

 これが、「承認欲求」から目をそらすことのできる気持ちなのです。



◦なぜ「読まれたら嬉しい」という気持ちが良いのか


 まず、「読まれたい」という気持ちに関して再び思い出してみましょう。

 「読まれたい」という気持ちがある限り、読者次第で自分の作品の方向性が変化させられるリスクが付きまといます。

 そのため、「読まれたい」という気持ちは「承認欲求」であると上記で示しました。


 一方で、「読まれたら嬉しい」という気持ちはどうでしょう。

 三つ挙げてみましょう。


 第一に、文法からして欲求ではありません。純粋な感情です。


 第二に、他者に左右されません。

 確かに、「読まれたい」という気持ちをもつ人でも、自分の作品を読んでもらえれば嬉しいことには違いありません。

 しかし、読まれなければ欲求が満たされず、「不幸」を感じてしまいます。

 これに対して、「読まれたら嬉しい」という気持ちをもっている場合は、ただ嬉しいのです。読まれないことで悲しいと感じることはありません。

 万が一、読まれないことで悲しいと感じてしまうのならば、それは単に「読まれたい」と思っているからでしょう。


 第三に、――上記と重なりますが――どこまでもポジティブ思考です。

 簡単に、「期待」とも呼べます。

 「読まれないかもしれないけれど、読まれたらいいな」というような、可能性を信じる/期待することが、「読まれたら嬉しい」という気持ちなのです。



○“#RTした人の小説を読みに行く”をRTすることは「承認欲求」を満たすための行為なのか


 これまで、僕は二つの気持ちに関して述べてきました。

 「読まれたい」という気持ちと「読まれたら嬉しい」という気持ちです。


 「読まれたい」という気持ちは、「他者の道」を歩むリスクのある「承認欲求」でした。

 一方で「読まれたら嬉しい」という気持ちは、「期待」とも換言できるポジティブな感情であり、「自分の道」を見失うリスクのないものでもありました。


 なぜ、僕はこれらの気持ちを述べてきたのか。

 それは、“#RTした人の小説を読みに行く”をRTする際に、どちらの気持ちを有しているかによって、「承認欲求」の有無が分かれるからです。


 さて、――もはや蛇足かもしれませんが――結論を述べます。


 “#RTした人の小説を読みに行く”をRTする際に、単なる「読まれたい」という気持ちがあるならば、その人は「承認欲求」を強く有しています。

 一方で、“#RTした人の小説を読みに行く”をRTする際に、「読まれたら嬉しい」という気持ちがあるならば、その人の「承認欲求」は限りなくゼロに近いのです。


※ここで「ゼロに近い」と表現したのは、承認欲求を一切有していない人はほぼ確実に存在しないからです。これまで「承認欲求を強く有する」といった奇妙な言い回しをしていたのも、普通の人が単に承認欲求を有しているのと区別するためでした。



○おわりに


 これまで僕は、「承認欲求」とは何なのか、“#RTした人の小説を読みに行く”をRTすることは「承認欲求」を満たすための行為なのかを述べてきました。


 しかし、――ここまで読んでくれた方には申し訳ないのですが――「承認欲求」を否定すれば幸せになれるわけではありません。


 あくまで「承認欲求」を否定することは、「自分の道」を見失わないための方法です。

 裏を返せば、他人に振り回されないための方法でもあります。


 そして「承認欲求」とどう向き合うかは、個人の自由です。

 他者に強制できるものではありません。


 だから僕も、読者の方々に「承認欲求」を否定しろとは言いません。

 変わりたい人は変わり、そのままでいたいのならそのままでよいのです。

 このエッセイの内容を鵜呑みにするのは、「他者の道」を歩むのと同じなのですから。


 最後に、「読まれたら嬉しい」という気持ちがある限り、“#RTした人の小説を読みに行く”のタグは自信をもって利用しましょう。


 多くの作品が泳ぐ茫洋なる海で、少しでも喜びを見出せますように。

疑問点や至らない点があれば感想欄等で受け付けますので何なりとお申し付けください。

ただし、誹謗中傷等の迷惑行為はご遠慮ください。

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[気になる点] ツイッター上で、あれだけ勿体付けられていたので、満を持して読んでみたら、想像のはるか下を行く駄作でビックリしました。 まず、答えありきの薄っぺらい議論もどきなことが、最大の欠点です。…
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