世界征服への第一歩
風が気持ちいい。ジェットコースターよりも速く、大空を駆け抜ける。そういえば、最後にジェットコースターに乗ったのはいつだっただろうか。五年前? 十年前? 僕はあのアトラクションが好きだった。悲鳴と一緒に嫌なことを全部吐き出せるような気がして、好きだったのだ。
以上、現実逃避おしまい。逃げる決意はしたものの。そう簡単に実行する隙は訪れず、事態はめまぐるしく悪化していく。ここから先は悪夢ような現実の話である。
傍から見ればさぞ絵になる光景だろう。黒い翼の生えた金髪の美少年(恥ずかしいことに僕のことである。翼については後述)が、本を抱く銀髪の美少女(ネジが五、六本飛んだ魔女だ。早くなんとかしないといけない)を抱えて優雅に空を舞っているのだ。
どうしてこんなことになっているのか。どこかの誰かの部屋の壁一面をノリと勢いで吹き飛ばした後、ディアミラは高らかに命令したのだった。
「キマリ、空を飛んでわたしを連れて行って頂戴! あの一番高い塔の頂上へ!」
ピリピリと電流が走ったかと思うと、背中から黒い翼が生えていた。見た目は悪魔らしくなったものの、大きさはせいぜい腕を伸ばした程度で、とても飛べるとは思えない。だが、ディアミラは偉くご満悦の様子で、右腕で本を抱え、左腕と両脚を絡ませるようにして抱きついてきた。
本当は従いたくなんてないのに、体は勝手に動き出す。壁がなくなって生じた崖に向かって、吹き付ける風などものともせず。足取り軽やかに。気持ちは重く。僕は取り返しのつかない一歩を踏み出してしまう。
「いやいやいや、無理だって! こんなので飛べるわけないって!」
「何かおかしいことがあるかしら? 翼があるんだから飛べるに決まってるじゃない!」
耳元でディアミラの声が響く。
そんなアホなと思ったが――実際飛べてしまった。
空中へ飛び出しても体が降下することはなく、風を突っ切って上へ上へと飛翔していく。
この小さな翼では気流を掴むことも難しいはずだ。なのに、それどころではなく、風に真っ向から逆らって超スピードで飛んでいる。もはや意味がわからない。これでは本当に「翼があるから」という屁理屈で飛んでいるようだ。
魔法はノリと勢い――ディアミラの言葉が脳裏をよぎる。やっぱりこの世界はめちゃくちゃだ。
「そんな難しい顔をしないでほしいわ。ほら、笑ってみて……そうそう、いいかんじだわ!」
ピリピリと電流が走り、口角がニィッと吊り上がった。
「なんか無理矢理感が凄いんだけど」
「でも、笑顔のキマリはとってもかわいいわ」
本当に聞く耳を持たないお嬢様だ。それにしても、悪魔の体はこんな些細なフレーズでも命令として聞き入れてしまうのか。つくづく先が思いやられる。
先といえば。今向かっている先は一番高い塔とやらなのだが、どれがその塔なのだろう。体はどこか決まった地点を目指して動いていても、当の僕自身は状況をさっぱり把握出来ていなかった。
そもそもが異常な光景だった。
眼下には広大な雲の海。そして、雲の海からは塔が無数に突き出している。塔。塔。塔。見渡す限りの塔が天空へ向かって伸び、僕達を見下ろしている。
どの塔も頂上がまるで見えない。
おそらく航空機並の高さを飛んでいるにも関わらず、だ。雲が下にしか見えないあたり、もしかするとそれより高いかもしれない。だとすれば、周りにそびえる塔は一万メートル以上の建造物ということになる。元の世界で一番高い建造物は八〇〇メートルくらいだっただろうか。その十倍を優に超える高さの塔が剣山のように所狭しと並んでいるのだ。まさに、摩天楼。かつて見上げた都会のビル群が霞むようだった。
羽虫にでもなったような気分で、塔と塔の隙間を縫うように風を切る。命令に束縛されて体の自由が利かない今、僕に出来ることは飛ぶように(実際飛んでいるわけだが)過ぎていく風景を呆然と眺めることだけだった。
ちなみに。僕が風景に圧倒されているのに対し、ディアミラは上機嫌を継続中だった。
「ふふふっ……ウィタウーの高等魔法使い達はこんな絶景を独占していたのね。でも、それも今日限り。だって、全部わたしのものになるんだもの!」
知らない単語が混じっていたが、とんでもないことを言っているのはわかった。どんな教育を受けたらこの壮大なスケールの風景を自分のものにしようなどと言えるのだろう。まして、世界征服など。このぶっ飛んだ世界がどれだけ広いのかは正直想像もしたくないが、夢見る魔女はその全てを手中に収めようなどとのたまっているである。冗談が規格外すぎて笑うに笑えない。いや、僕は今、強制的に笑顔を作らされているのだが。それはそれとして。
「っていうかさ。世界征服とは言うけど、具体的には何をすれば達成したことになるんだ?」
例えば、存在する全ての国家を制圧し、支配する……とか、そんなかんじだろうか。たった二人で国家をどうこうするなど不可能な上、万が一億が一可能だったとしても、このネジの飛んだ少女に政治が出来るとは思えないが。
果たして。ディアミラは満面の笑みを浮かべて言い放った。
「そんなの簡単よ! よくわからないけど、五つの宝を集めればいいって師匠が言ってたわ!」
今、よくわからないって言ったよな? 本当にノリと勢いだけで世界を征服しようとしていないか、この子。本当にどんな教育を受けて育ったのだ。というか、師匠とやらは一体どこへいったのだ。おそらく声だけの老婆がその人なのだろうが、空を飛び始めてからは声すらも聞こえない。まだ話が通じそうな相手だったのに……。
「あー……なんだか胃がキリキリしてきた……」
「あら、嘘はいけないわ。悪魔は痛みなんて感じないはずよ」
「気分の問題だよ……。こんなテキトーな主人に仕える悪魔の気持ちにもなってほしいよ。どうせ、その宝ってのがどこにあるのかもよくわかってないんだろ」
つい語気が強くなってしまう。いや、普通にキレてもいいと思うけどさ、こんな状況。
というか、今さらりと重要なことを言われた気がする。痛み、感じないのか。がっしり抱きつかれても全く重いと感じなかったのもその辺が関係しているのだろうか。なんにせよ、どんなに無茶をしても(というか、させられても)ブレーキが掛からないというのは不安だ。
「ふふふっ……笑顔で怒られるのってなんだか新鮮ね。心配しなくても大丈夫よ。一つ目の宝はもうすぐそこ、この塔に住む王様が持っているはずだもの!」
ディアミラがぐいっと上を向く。気づけば僕はひたすらに上方向へ飛んでいた。つまり、もう目的の一番高い塔とやらには辿り着いていて、今は頂上を目指しているところなのだろう。
他の塔はどれも鈍い白銀色だったが、この塔は違った。鬱陶しいほどに主張の激しい、まばゆい黄金色。一目で権力者のものとわかるカラーリングだ。これだけ壮大なスケールの国で、これだけ露骨に力を誇示するということは、それはもう強大な王なのであろう。
さて、ディアミラはこの後どうするつもりなのだろうか。魔女だとか悪魔だとか言うくらいだから、何か呪い的な方法で王を亡き者にし、宝を掠め取るつもりなのだろうか。はたまた、悪魔の力(がどんなものかは知らないが)を取引の材料に、宝を譲ってもらうつもりなのかもしれない。まさか、一国の王に喧嘩を売りに行くなんてことはあるまい。それはつまり、この塔の立ち並ぶ超巨大国家を敵に回すということだ。それこそ羽虫のようにプチッと潰されてしまうに決まっている。そんなことをするのはバカだ。まさか、まさか、だ。
「一応聞いておくけどさ、宝を手に入れる方法は決まってるんだよな?」
「もちろん! 力づくで奪い取るわ!」
「うわああああ! やっぱりバカだったあああああああ!」
黄金の塔の壁面を駆け上がるように、僕達は急上昇していく。頂上という名のゴールへ向かって一直線に。新たな人生がスタートしたと思ったのに、こんなにすぐゴールへ向かうことになるなんて。
ああ、叫び声と一緒に嫌なことが全部消えてなくなったらよかったのに。