伊勢うどん
この料理は伊勢うどんという。かけうどんと混同される事は多々あるものの、それは間違いである。まずは麺、凡庸な麺とは違いふっくらとした縮れ麺の食感はもちもちと病みつきになる。それに絡ませるタレも、まさに麺とつゆの阿吽の呼吸。甘い醤油のタレに伊勢湾で捕れた昆布の出汁をふんだんに使ったつゆは旨味の塊と呼んでも過言ではない。そしてそれを口に運ぶ。ワサビ等の薬味を混ぜ合わせても乙なものだが、まずは初めに、この純粋な味わいに舌鼓を打つのも悪くない。そこ次にワサビ……あるいは生卵をかけるのも良いだろう。さらにまろやかさを増した汁は絶品である。
「もうよいであろう。吾輩はさっさと食せればそれで良いと申したはず。」
愚か者め、神聖なる食事の邪魔をするとは、解せぬ餓鬼だ。この幼女は私の妹でも従姉妹でも大穴で実の母親でもなんでもない、かといって私が幼女嗜好主義者の誘拐犯と指をさされるのには誤解がある。確かにこの幼女の顔立ちはなかなか整っているから初めてその顔を見た時はふむほほうと小さくどよめいたのは偽りのない事実と認めるがそれも未熟な四肢を見て欲情した理由ではなく純粋に芸術的な美を感じたからであると断言する。そもそも誘拐するような度胸など私には無い。私は仏頂面のまま、黙ってうどんの器を彼に差し出した。すんなりと受け取って割り箸の割れる音がこだまするとその幼女は寿限無寿限無五劫の擦り切れとあの有名な名前を言い終えるとも怪しいうちにその器の中身を全て胃袋へと連れ去ったのであった。見事なまでな食べっぷり、やはり子供の食欲に我ら大人は手も足も出ぬ運命にあるようだ。
「ふむ、御主人よ。も一つ同じものを戴こう。」
「あいよー、お嬢ちゃんすげえ食べっぷりじゃねえかよ。」
店主の調子の良い声が店内に響き、あっという間にまたうどんが幼女の前に出される。幼女は満足気な顔で器を覗きその拍子に髪止めに使っていた簪の装飾が揺れる。今時に簪とは珍しいものだが、彼女は藍色の着物に身を包み、和風な柄の草履を履いている身なりに合わせてみるとなかなか絵になっていた。古きよき日本の娘というのを現代に返り咲いたような具合は見ていて悪くないのだが、それは見た目だけであり私にとってはただの憎たらしい餓鬼でしかない。
「私は二杯目を頼んでいいと言った覚えはないぞ!」
私が止めるまもなく、幼女は器を再び空にする。今月は金がなく必要な食費でさえもぎりぎりに削ってきたというのにその努力も空虚な幻想に過ぎず今目の前で頬杖を付いている偉そうな幼女に現実という無慈悲な一撃を食らわされたのだ。そんな現実では腹の足しにも何にもならん。
「ふん、ケチ臭い事をほざくブオトコめが。吾輩が神であることを忘れたか。」
「そんな事がどうした。私は相手が猫だろうが神だろうが対等に扱う男だ。」
「ほう?吾輩は猫と同列か……」
神はピクリと眉を動かし、余裕のある見下した眼で見つめる。そうだお前は猫である、名前はまだないのである。
「良いだろう。ここで貴様を幼女嗜好主義者の誘拐犯と叫びこの吾輩に夜な夜な淫乱な格好をさせては喘がせて歪んだ性欲を満たしていると吹聴するのもまた一興。」
私の背筋に冷たい冷や汗が一筋流れるのをありありと感じる。思っていることさえ筒抜けだなんて不自由なことは無い、しかも今なされようとされている仕打ちは現存社会を生き抜く上でその地位を抹殺されること不可避の恐ろしいものだ。さらに後半は冗談と聞いても笑えない。ただ何も出来ず手を握り締める無力感が歯がゆく、堪らずがま口財布の中身を確認する。野口英世が一人、小銭は平等院鳳凰堂が四軒建っている。
「金がないとは……もしや貴様、吾輩の他にも貧乏神が憑いておるのではないか?」
「畜生、お前こそ胸が貧乏神の癖に。」
そう口走ったか否や、幼女は私を半泣きでポカスカ殴りつけるが、幼女の拳はまだ柔らかく人を殴りつけるなどしたこともないのかそれは出鱈目な肩たたきの如く、痛くも痒くもないのが幸いして無事なわけだ。
「五月蝿い!これからだ、これから七福神まで出世するのだ!あと数年すれば悩殺ばでぃに……」
成れるとよいのだが。神というのだから年齢不詳、何千年と悠久の時を過ごした上でこの幼児と見間違える様はなんとも哀れ。あと数年経ったところでAAAカップの絶壁がAAカップの敷居を跨ぐことになるとは到底考えられぬのも自然だろうと内心思う。
まあ育つか育たぬか分からない胸の話など今はどうでもいい。何故貧乏で日々苦しんでいる私が伊勢うどんを食べに来ているか、そちらの方が疑問に持つべき事なのだろう。いや、自分で来ているではないか、そう反論されることもあるだろうから予め言っておくが私の意思でこの店に入った理由では無い。この乱心なる自称女神に無理矢理もとい導かれて入ったのだ。
「おい貴様、自称と付けるでない!吾輩は正真正銘、比良水神社が御神体、天結織姫命ぞ。」
心をまた読まれてしまった。比良水神社とはこの近くの裏通りに建てられている小さな神社。こじんまりした景観は伊勢神宮と比べると涙が出てくる程物寂しく……とにかく彼女はその神社の御神体であるそうなので一応敬う対象か果たして小さな神社の御神体はいろいろと小さいのだなと小馬鹿にすべきか悩みどころである。とはいえ神社としての歴史は古く伊勢神宮が出来た翌年に建築されたとこの幼女はほざくがそれはつまり伊勢神宮の凄さを物語るだけであり、歴史でさえも負けてしまうのであればいっそ伊勢神宮に参拝する方が理にかなっていると幼女に言い放った。その後どう返すのかと反応を待っていると極悪非道の笑みを漏らし、買い物をした時に出る釣り銭が九円になるという祟りが災いすると脅され最早この餓鬼は神というより悪魔ではないかと心の中でいつか必ず泣かしてやると復讐を誓った。呼び名は天結織姫命と毎度毎度呼ぶのも煩わしくあり、便宜上の理由で名前にあたる箇所の結織を抜き出し呼んでいる。おい幼女と呼ぶ訳にもいかぬので仕方ない。補足だが天は高天原に由縁があることを意味し、姫は女性であること、そして命は神様の内の称号のようなものだ。
「それで、私は何故この店に連れられてきたのか。目的を知りたいのだが。」
「なぜ教えねばならん?」
「さもなくばお前の神社に誰も寄り付かなくなるような落書きを書きにいこうかとーーー」
「ま、まて!わかった、ちゃんと話すからそれだけはやめるのじゃ!」
「早く言え。」
「この、不敬者めが……あの食い物を何と言ったか、六十を三つ程数えて出来上がるうどんのような……」
「カップ麺のことか。」
「それよ、かっぷめんとやらが出来上がらぬうちに、この店へ貴様の想い人がやって来るのだ。」
想い人、その単語に該当する人物は1人しかいない。
「な、なぜ早く教えなかった!」
「聞いてこなかった貴様が悪い。」
こんちくしょうめ、心の準備がまだできていないため心臓の脈動の音が外に漏れだしそうなほど早く打たれる。落ち着くのだ私よ、お前はどこも変ではないからして彼女に微妙な目で見られることもないし本当に普通なのでそもそも目に入るかも微妙だ。落ち着け、まずは入ってきたときの一声について考えなければ……
そんなことをしているうちにその人物はやって来る。勢いよく扉が開けられ、顔を覗かせたのはやはり私の意中の人、坂上うららさんだ。坂上さんはすぐに私を見つけ、微笑む。まずい、何も考えていないぞ私は。
「あ、古庭さんいらしてたんですね。お久しぶりです。あの、わたしのこと覚えてらっしゃいます?」
「もちろんだとも、坂上さん。君もうどんを食べに来たのかい?」
坂上うららさんとの出会いは三ヶ月前まで遡る。酒屋で安い酒を飲んでいた私は例に漏れず、金が足らずに店主とどうしようこうしようと揉めていたとき、彼女は颯爽と暑苦しい男二人の前に現れて足らぬ分を代わりに払っていったのだ。そして唖然とする我らを他所にそれじゃあ私はこれでと言い出すものだから私は急いで彼女を追いかけて礼を言い、またお返しがしたいとかそんな事を言って来週の休日に待ち合わせの約束を取り付けるのに成功する。そして私たちは喫茶店にてたわいもない話をして親交を深めると同時に彼女は私の心を蜂の巣にするという離れ業をしてみせるのだった。坂上さんの顔を見る度に彼女への想いは大きくなっていく私だったが所詮私は私でありアプローチをかけるわけでもなく時々彼女が暇なときに遊びに誘ってくれることのみを生き甲斐に生きてきたと言っても過言ではない。そして実際に過言ではないのが私の涙腺を容赦無く一斉砲火を浴びせるのだから泣いてしまっても誰も鼻で笑うことはないだろう。ただそう信じたいだけかもしれないが。
まて、いかんいかんなにより坂上さんの前でこんな長々と独白をしてしまう事こそ直さねばいけないのだ。幸いそれは一瞬の時間にも等しく何も不自然な間を作り出してはいなかった。
「ええ、小さい頃からの行きつけのお店なんです。あら、お隣の子は……」
隣のカウンターに座る幼女を坂上さんは覗き込むのだがそのときに耳に掛けていた髪が解けて前に揺れるこの仕草は私にとってトキメキ以外の何物でもない。幼女は坂上さんの柔らかな笑顔に笑顔を返すこともなくぞんざいな目で坂上さんを見つめる。
「名は川縁 結織。古庭の遠縁にあたる者だ。」
川縁とはなんだ。結織しか私は知らないのに着々と幼女の中で自分の位置付けが進んでいると思うと憂鬱であった。言い忘れていたが私は古庭という。下の名前は使う機会がないので諸君らに教える義理はない。だがとっさの嘘としては上出来だろう、遠縁ということなら苗字が違うのも似ていないのも頷ける。グッジョブ幼女。
「可愛らしい子ですね!よろしくお願いします、結織ちゃん。」
貴女の方が千倍も増して可愛らしい。彼女の顔を思い返せば三日三晩白米だけでも充実した三日間を送るのもたやすい。
「神なる吾輩とお近づきになりたいのであれば信仰で示せ。」
この糞餓鬼め。川縁なんて凝った設定作ったくせに一人称が吾輩とは有り得んだろ。あと先程の私と遠縁という設定が生きているとするなら私も神の親族というわけだがもらや混沌としすぎて自分でもよく分からない立ち位置にきてしまっている。もっとこう如何にも小学二年生というような登場人物作りはできないものか、いやできるのだろうが幼女は名前だけで十分という謎の余裕にその身を任せて勢いでこの場を乗り切る賭けに出たのだ。そこで賭けに出る必要性があるのかは果たして不明だが。
「おおー、神様でしたか、なんまんだー。」
それは何かが決定的に違うだろ、私の頭にその一言が浮かぶが純愛の前には木端微塵に吹き飛んでしまうのはこの世の理だろう。いやそれ以前に神だと信じてしまう彼女の器量に私の心はどうしようもなく惹かれてしまうのであった。
「あ、店長さん、伊勢うどんを一つ。」
「あいよ、うららちゃん今日もかわいいねえ」
当たり前だ、昨日の坂上さんだって可愛いし一昨日の坂上さんだって可愛いのだから今日の坂上さんは同じくらい可愛いのは必然なのだ。だが残念店主よ、私にとって今日の坂上さんは昨日の坂上さんより可愛いのだ。なぜならといえば上記の通りであるため二度書くのは我ながら不躾な真似だ。
坂上さんは出された伊勢うどんをすする。実に旨そうに食べる子だ。彼女を見ていると時間が二倍速にでもなったような錯覚に陥るのがとても惜しい。
「ごちそうさま。それでは古庭さん、結織ちゃんまた逢う日まで。」
「「さようなら」」
終始笑顔だった坂上さんがいなくなり、店内の客は私たち2人のみとなる。大きなため息が私の横で生まれるのがはっきり分かる。
「腑抜けめ、絶好の機会を逃すとはな。」
「うるさい、私には私の計画があるのだ。」
「こうして縁結びの神が付いておるというのになんと奥手な男よ。」
「まあよ、色恋ってのは一筋縄でいかねえからおもしれえのよ。」
前で聞いていた店主は腕を組んでうんうんと相槌を打つ。
「うむ、御主人よくぞ言ってくれた!すまぬが励ますと思って、この情けない男に一杯奢ってやってくれぬか。」
「あいよ〜、兄ちゃんもこいつ食って頑張りゃいいじゃねえか。」
幼女の呆れた物言いに些かカチンと来るものを覚えるがそれが事実であるのだから情けなくなる。苦笑いの店主に気まずくそっぽを向くが、新たに広がる汁の誘惑に勝つことができないのが人間というもの。次こそはいい天気ですね伊勢神宮にご一緒に参拝でもいかがですかくらいは言わなければと、低い目標を胸に食べた二杯目もなかなか良いものだと感じながら夢中で伊勢うどんをすすった。
また坂上さんと逢えるなら、ここに通うのも悪くない。ちなみに代金はギリギリ払えたのだが、お釣りは不吉なことに九円だった。