前日譚 ハワード・ルイスの手記による
構成的には0話的なアレです。次回までの更新はかなりかかると思います。ていうか短編の予定だったのですが。
私の名前はハワード・ルイス。オカルト専門のジャーナリストだ。
これから私の手によって綴られる一連の事件は、私の妄想であり実際には何もなかったということにしておきたいのが私の偽らざる本心なのだが巻き込まれてしまった以上そうはいかないのがプロのジャーナリストの悲しい性なのだ。
私個人の本音を言ってしまえば誰だって危ない橋は渡りたくはないし、そこに人食いのモンスターが実在していて本当に死ぬかもしれないとしっていたら危険な場所には立ち入ったりはしないだろう。スリル中毒の奇特な人間ならば或いは喜んでそういう場所に行ったりするかもしれないが、これは例外中の例外とする。
ともかく物好きな私が取材に行った場所はそういう噂が流れているミステリースポットだったのだ。処刑場の名を冠する監獄。たしかそういう名前だったような気がする。当時はネットが普及するよりも前だったので、私はその話を先輩記者から偶然聞いたのだ。
「ハワード、死霊魔術師というものを知っているか?」
当時の私ことハワード・ルイスは現役の大学生でありながらマイナーなオカルト雑誌「マイノリティ・レポート」の編集部を出入りしていた。現在は廃刊している。というかこれから語られる事件がきっかけで倒産してしまったのだ。
大学の先輩であり、大学を何度も留年した挙句中退してしまったチャールズ・スミス氏と一緒に冷めてから大分たったピザを食べながらそう語った。はっきり言って見ているだけでもかなり不味そうだった。しかし、死霊魔術師の話には焼きたてのピザと同じくらいの魅力があった。私はすぐに彼に向き直り、メモ帳を用意して酔狂な先輩の話を聞き入ったのである。
「この手の与太話は噂で終わっちまうもんだがな、本物がいるらしい。独立戦争の後に戦争犯罪者を収監する為に作った刑務所だった場所で良くない話を聞かされる。夜中、死人が墓場から出てきたりするつまらない世間話さ」
チャールズは苦笑しながら私に語った。どうやらその時は彼も半信半疑だったらしい。後に彼は身をもって話の真偽を知ることになるのだが。当時の私はそういった如何にも胡散臭い類型のオカルトの話題に嫌気がさしていて、先輩の話をメモすることを中断してしまう。今にして思えばこれはかなり失敗だった。もしかするとこの時、先輩の話をしっかり聞いていればと己の行動の軽率さに歯噛みして後悔し夜の夜中にうなされることもあるくらいだ。
私が興味なさそうな素振りをみせると先輩も口を閉ざし、当時ホットな話題だった人攫いのUFOの話題に移行した。私にとっての不幸の始まりは、この時例の刑務所の住所をメモ帳に書き記したことにあったのだ。私はチャールズ先輩とUFO撮影の約束をした後、久しぶりに大学に顔を出すために社屋を離れてしまった。これが人間だったころのチャールズ・スミス先輩との別れになってしまったのだ。
それから一ヶ月くらい経過した後に、私は例のオカルト雑誌の編集部が入っているビルの中に入った。大学での平凡な日々に飽きていた私は、半社会人として活動することを望んでいたのだ。勝手かもしれないが成人年齢に達したばかりの学生などというものはこういった甘えを持っていて当然だろう。どんな失敗にもリトライする機会を周囲の大人たちが与えてくれると信じているのだ。だが、この日に限って私は大人への通過儀礼を経験させられることになる。
それは即ち、どんなプラスの経験でもカバー出来ないような失敗をするという経験だった。異変に気がついたのはメモ一式と取材道具を詰め込んだベルトつきの大きな鞄を持ってビル街に続く大通りを歩いていた時のことだ。ビルの前には何台ものパトロールカーが駐車してあった。オカルト雑誌といっても、学生が有志を集めて作ったような閉鎖的なサークルで発行しているようなレベルの本だった。警察にマークされるようなことはしていないないハズだ。
私は緊張のあまり首すじに爪を立て引っ掻いた。これはトラブルに直面した時に出る私のクセだった。額に嫌な汗が滲み出る。これは良くないことの前兆だ。私の中のオカルトへの探求熱はすでに冷めかけていたのでその場で方向転換して、大学の学生寮に帰ろうと考えた。もうオカルトと関わるのは止めよう。この時の私は現実逃避に徹していて週末のダンスパーティに誰を誘うおうか、などと無責任なことを考えていたのだ。
その時、私の襟首は背後から強引に掴まれた。緊張と不安がピークに達して大声をあげそうになった。しかし、右の頬に当てられた拳銃がその行為を許さなかった。銃社会とは無縁で暮らしてきたものなら無用心にも大声をだしていたのだろうが、町から遠く離れた田舎といえど銃社会の中で暮らしてきた私にはこれら一連の出来事を理解することが出来る。声を出せば、次の瞬間から日常に戻ることは出来なくなると。私は両手で口を押さえながら必死に咽喉の奥から出てきそうな絶叫を堪えた。
私を拉致したごっつくて毛むくじゃらの手は、片手に銃を持ちながら強引に私の襟首を掴みそのまま裏路地まで私を連れ去った。これから私はどうなるのだろうか。強盗、殺人、脅迫といった様々な暗鬱たる未来を想像させるキーワードが思い浮かぶ。田舎で私の帰りを待つ両親、愛犬。ああ、どうしてこんなことになってしまったのか。やがて私はビルの壁に後ろから頭を押し付けられて、後頭部に銃口を当てられる。映画やTVドラマではお馴染みのアレだ。
「お願いです。死にたくない。助けて下さい。お金ならズボンのポケットに、鞄の中に少しだけど入っていますから。他にええと外れたので宜しければ宝くじがありますから」
「何だ。お前、ハワードか?てっきりあのいかれた連中の仲間かと思ったぜ」
それは聞き覚えのある声だった。そうだ。雑誌社の編集長スティーブ・ウィルソン氏の声に違いあるまい。この手の業界とは無縁そうな体が大きくて荒っぽい悪役プロレスラーのような体型をしている男だ。このスティーブ氏は、私の通っている大学の卒業生であると聞いていた。私は覚えのある赤みが入った毛むくじゃらの太い腕を見てわずかに安堵する。どんな時でも旧知の人間の存在は、恐怖に怯える私を安心させてくれるのだ。スティーブ氏も相手が私であることを確認すると、すぐに解放してくれたのだ。
「一体何があったんですか?」
私は強い力で押さえつけられて赤くなった部分を自分で摩りながら、スティーブ氏を見た。彼は拳銃をホルスターに戻している最中だった。一連の動作から見て明白な事実だが、彼はただの迷惑なガンマニアではない。ある程度の軍事的な訓練を受けた人間だ。私の身内には軍人が数名いたので、彼らと同じ雰囲気を纏うスティーブ氏が一般人ではないことを見抜くのは容易だったのだ。私は彼の動向を警戒しつつ、一定の距離を取った。しかし、当の本人は悪びれる様子もなく袋小路の周囲を窺っている。この後に及んでまだ何かあるというのだろうか。
「実はな、うちの会社に爆弾が送りつけられてそれが爆発したんだ。例によって、差出人は不明。受付の女の子は軽い火傷だったかな。よくわからない小包を受け取った時は細心の注意を払えって言ったのにな」
まるで他人事のようにスティーブ氏は自分の身の回りに起こった珍妙な出来事を語る。しかし、その表情は穏やかではない。今もこうして彼は周囲の様子を警戒している。ビルの裏路地には我々しかいないというのに。普段は眠たそうな顔をしているだけの彼をこうまでも用心深くさせる何かがまだあるというのだろうか。
「メアリが怪我をしたんですか?」
メアリは私の大学の先輩で、数年前に卒業した後は会社の雑務を請け負いながら編集部の受付をしている女性だ。私の記憶が正確ならば数ヵ月後に故郷で結婚を控えているはずだった。かわいそうなメアリ、顔や身体に怪我などが残らなければ良いのだが。そこまで聞いたあたりで、スティーブ氏は大きな溜息を吐いた。
「怪我は大したことが無かったんだ。怪我は」
どうやらスティーブ氏はメアリがその後どうなったかをそのまま伝えるには忍びない事情があるようだ。私は覚悟を決めて彼の言葉の続きを待った。正直な話、気は進まない。だが、同じような趣味を持った仲間が悪質なテロの被害を受けてその後どうなったかを気にかけず元通りの日常に帰ることが出来るほど私は冷酷な感性の持ち主ではない。ここで事件の顛末を聞いておかなければ一生後悔するに違いないだろう。
「むしろ怪我をして死んでしまった方が良い。そういう状態になってしまったとしか。ああ、そうだ。あんな感じになってしまったんだ」
突然、スティーブ氏は上を指差した。上には空かビルしかない状況である。メアリが天に召されたというなら直接私にそう伝えるだろう。スティーブ氏はサブカルの文芸雑誌の編集長とは思えないほど文語表現に乏しい御方なのだ。
だが、私はすぐにスティーブ氏の意図を理解した。突然にも編集部の入っているフロアの窓ガラスが割れて人が落ちてきたのである。我らが「マイノリティ・レポート」の編集部があるフロアは五階に存在する。そこから地上まではゆうに十メートル以上の距離があるのは動かしがたい事実だ。もしも落下して無事生還することが出来れば夕方のニュースでヒーローになることは間違いないだろう。見出しは差し詰め「不死身のヒーロー現れる」とかそういう感じだ。
私はどうにか上空からの落下物の下敷きにならずに澄んだ。よくよく考えればそれは奇跡的な事実かもしれない。私は手持ちの最新式カメラを構えて落下してきた何かを撮影しようとした。
「おい。うかつに近づくな。食われるぞ」
スティーブ氏は大声をあげて私の暴挙を制した。そう私は認めよう。私のこの行為は暴挙としか表現しようのない愚かな行為であったのである。ビルの窓から落下して来た何かは耳のあたりまで裂けた大きな口を開き、私の右肩に牙を突きたてたのだ。一瞬の出来事だったが、私はそれと目があった。赤い双眸から送り込まれる敵意、殺意、悪意。一体どうして私はこうまでコイツに憎まれなければならないのか。私は体に残った力を搾り出し、必死にこの怪物に抵抗した。
「うわあああああッ!」
私はそいつの顔の両端を掴んで、何とか引き剥がそうとした。生まれてこの方ケンカらしいケンカをしたことがないのが私の自慢だったが、この時ばかりは日和見な平和主義者の称号を返上せざるを得なかった。兎に角私は何とか私に食らいついてきた怪物を引き剥がすために奮闘する。見るからに実践派であるスティーブ氏も協力してくれた。私とスティーブ氏、二人の奮闘の甲斐もあって怪物はすぐに私のもとから引き離された。私が右肩に受けた負傷は結構な代物だったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。突然、襲撃してきた怪物の正体を見極めるほうが先だった。
私は痛めつけられた右肩を抑えながら転倒した怪物の近くまで歩み寄る。無論、先ほどのように無用心なまま接近したりはしない。注意深く観察対象の動向を窺いながらこうして一歩、また一歩と進んでいる。格闘技が使えない私がこんなことをして何になるかと異論を挟まれればそれまでのことかもしれないが。その時は何かをしていなければ正気を保つことが難しかったからだ。いや普通に考えても滑稽にも程があるというものだろう。私は地面に仰向けに転がされた怪物の足元を見た。脚には黒い革靴が、下半身には紺色の長ズボンを履いている。それはどこかで見たようなカラーリングだった。
次に私はそれの上半身を見た。薄い青の半袖のワイシャツ。胸には、ああ見なければ良かった。例のバッジがつけられているではないか。私は自分が右肩から出血していることを忘れて、顔を両手で覆っていた。おお、神よ。もう少し体の自由が利けば私は十字を切って、天に祈りを捧げていただろう。やがてスティーブ氏は私が無事であることを確認すると、口を開いた。
「こう、メアリのヤツが小包を開けた後、それが爆発してオフィスの窓の近くにいた俺はどうってことは無かったんだが他の連中は皆苦しみ出してこうなっちまったんだ。念の為に言っておくがついさっきのことだぜ。多分、他所の会社の奴等が気を利かせてポリスを呼んでくれたんだろうが、生憎このザマだな」
スティーブ氏は先ほど私に突きつけた拳銃を取り出して地面に寝たままになっている警察官の成れの果てに向けた。出来ることならこのまま彼に起き上がってきて欲しくはない。スティーブ氏と私は同じようなことを考えていただろう。いや、絶対に起き上がってくれるな。だが、警官は地面に倒れたまま手足を動かしてこちらに何とか迫って来ようとしている。スティーブ氏は「後ろを向いていろ」と私に言ったような気がした。なぜならば、その直後に放たれた数発分の銃声の為、私はスティーブ氏の言葉を最期まで聞くことが出来なかったからだ。ガウンッ!ガウンッ!ガンショップで販売されているような小口径の普通の拳銃だったがこの場合怪物相手でも効果覿面だったようだ。
仰向けに倒れたまま動く死体は銃撃を受けて何度か跳ね上がった。精気を失ったどす黒い血が地面に流れ出る。殺されて、また殺されて。この世は一体どれほど救いようがないというのだ。私は心の中で絶叫した。しかし、スティーブ氏の内心も穏やかではないようで銃撃を受けた動く死体の方を何とか見ないようにしていたのは最早言うまでもないことだった。
「行くぞ。多分、うちのビルの中は全部こういう感じだろうからな」
私は気力が枯渇して思ったことが言葉にならないにしてもどうにか口を開こうとして、そのまま言葉を失った。先ほどスティーブ氏によって倒された死体が宙に浮いているのである。この世に怖いものなしと勝手に私が思っていたスティーブ氏も今だけは普通の人間のように驚いていた。彼もまた限界まで瞼を開けて、あまりにも非現実的な出来事をどうにか受け入れようと努力していたのである。
「嘘だろ。おい」
スティーブ氏は自分のほっぺのかわりに私のを思い切りつねってきた。この件に関しては後々徹底的に弁護士を交えて追求しようと考えたくらいだが、目の前で空から現れた光輝く円盤のようなものに動く死体が連れ去られたら誰だって驚くだろう。しかし、だからといって整形手術の必要があるくらい他人のほっぺをつねるのはいかがなものかと考える。
「これはアレか。お前らがよく言っていた例の」
「ええ。アレです。人攫いUFOですよ」
こうして私は図らずも巷を騒がせる最もホットなオカルト現象を目の当たりにすることが出来たというわけである。私とスティーブ氏がスクープをカメラで撮影する間もなくただ唖然とやがてその場には動く死体どころか塵一つ残らないそういった自称を目の当たりにしている時に、事態はさらに悪化しつつあった。ビルの上の階のいくつかが火を吹いたのである。私も絶対に想像したくはないが、ビルの中を徘徊している動く死体たちが屋内で暴れまわった結果ではなかろうかと思った。私は現場でのベテランであるスティーブ氏の指示を仰ぐために彼の顔を見た。いつもは怖いだけの彼の顔もこの時ばかりは頼りがいがあるように見えたのだ。
「ところでハワード。これから俺たちはどうしたらいいと思う。俺個人としてはバーで杯やって今まであったことを全部忘れたいんだが」
ドドンッ!今度は二階あたりが爆発した。いろいろなテナントが雑居しているビルなのでよく覚えてはいないが売店やカフェが入っていたのではないかと私は記憶している。ボイラーやガスに引火したのかもしれない。今度は表通りに警官とワイシャツ姿の男が、たしかどこかの会社のセールスマンだと思ったが、飛び散っていった。彼らは地面にうつ伏せに倒れたのでその後容易に立ち上がり獲物を求めて徘徊しだした。私は無意識に出血が止まったであろう先ほど噛まれた部分を手でぐっと押さえていた。あの時の恐怖を忘れないよう、そしてこれからこの町がどうなるか出来るだけ想像しないように自己暗示していたのかもしれない。スティーブ氏でさえ、ズボンのポケットに隠していた小さな瓶の蓋を開けていた。
彼は咽喉の奥にアルコールを流し込むような真似をせずに、軽く一口含んだ後にべっと地面に向かって吐き出した。あの高級感溢れる匂いからしておそらくは彼のとっておきのウィスキーだろう。ずいぶんと思い切ったことをしたものだ。
「何だ。お前もやるか?こんな時にこう言ってはなんだが上物だぞ」
わずかに摂取したアルコール成分が彼の中に冷静さを取り戻させたのだろうか。スティーブ氏はニヒルな笑みを浮かべていた。彼は手の中にあるウィスキー瓶を私に手渡した。私は景気づけと先ほどの力強く頬を抓られた件の復讐として普段口にするよりも多めの分量のウィスキーを飲んだ。
「市民の義務として、警察署に一連の出来事を報告するというのはどうでしょうか?」
私は気持ち的に総量の半分くらいのウィスキーを飲んでから、瓶の蓋を閉めてからスティーブ氏に手渡した。スティーブ氏は苦い表情で秘蔵の酒が入った瓶を何回か振って中身がかなり減っている事を確認していた。私も少量のアルコールが入って強気になっていたのだろう。怪物に噛まれた右肩というか右半身から痛みが無くなってはいなかったが、今となってはそれは些細な問題であるような気がしたのだ。
「市警か。まあ、市民の義務なんだろうが街の全部が果たして無事かどうかを尋ねられると、正直自信が無いな」
スティーブ氏は頭に手を当てて今までの出来事を思い返しているようだ。小包の投函、編集部での爆発。そして駆けつけた警察官が次々と怪物になっているという現状。全てを何となく事態を眺めているうちにこうなってしまったでは片付かない状況になっている。そもそもあの怪物がどうして現れたのかさえはっきりとしないのだ。私はたちの悪いパニックもののホラー映画の世界に迷い込んでしまったような心境だった。どうやら度の強いアルコール成分にも限界があるようだ。右肩の傷口から悪性の黴菌が侵入して、私の体を支配した後に悪魔の操り人形にしてしまう。私はそんな絶望的な未来を想像してしまいそうだった。
「編集長。一刻も早く、ここを離れましょう。話はそれからだ」
「ああ、そうだな。お前さんがさっき飲んじまったウィスキー代を請求するにしてもまずは落ち着ける場所に移動してからだな」
今のセリフはどこまでがジョークなのだろうか。スティーブ氏の真意を考えないようにしながら我々は人通りの多い大通りに向かって歩いて行った。人の多い場所ならば安心しすることが出来るだろう。この時の我々はそんなことを考えられくらいの精神的な余裕があったのだ。
メインストリートに出て、まず私たちの目についたものは何台もの車が事故を起こして噴煙が上がっているという光景だった。正面衝突、追突、何でも御座れという塩梅である。メインストリートに出れば日常に回帰出来るという安易な妄想はこの時私の中で死を迎えた。ただの事故ならこういうこともあるのかと、諦める事が出来たのだろうが。事故を起こした車から這い出ようとしている死体同然の動く死体の姿を見るとそういう気分は失せてしまった。怪物たちは普通の人間程度の力しか持っていないようなので脱出するにはかなり時間が必要となるのだろう。だからといってこのままこの場所で黙って立っているわけにはいかないだろう。
「編集長、行きましょう。警察署に」
今の私にはこの事態を打開出来るという確信は無かった。しかし、何かしなければ正気を保っているのが難しい状況だった。今もこうしているうちに怪物たちは車の隙間から這い出て獲物に向かって来ようとしているのだから。スティーブ氏は私の言いたいことを理解してくれたようで、懐から銃を取り出すことを止めた。ここで無駄に弾丸を消費する事は得策ではないという結論に達したのだろう。
我々は事故が起こっている区画を避けるようにして、街の区役所近くに建てられた警察署を目指した。幸いなことに動く死体に遭遇するようなことは無かったが、表通りでおそらくは動く死体と化した怪物に襲われている他の人々の悲鳴を無視しながら歩く事になったのは言うまでもあるまい。わずかな間で人々を見殺しにした罪悪感で押し潰されそうになっていた。
「前以て、言っておくがな。妙な期待はするなよ、ハワード。物資と武器、それに弾丸の補給くらいに考えておけ」
スティーブ氏は懐の拳銃を既に取り出していた。あの怪物たちがこの先にいる。戦闘スキルを持っていない私にもよくわかった。いつの間にかこの手の異常なシチュエーションに馴染んでしまったのだろうか。何がどうしたというわけでもないのに、数メートル先に動く死体たちが待ち受けているのを察していた。私は咽喉奥にありったけの唾をゴクリと流し込んだ。汗は出ていないが緊張はピークに達していただろう。自然と右の拳を握り締めていた。
「メリケンサックがあるんだが、使うか?」
スティーブ氏はポケットに入っていた錆付いた鉄製のナックルガードを私に見せた。この人は雑誌社の編集長なのにどうしてこういう危険なものを持っているのだろうか。私は首を何度か横に振って拒否した。素人がドタンバで武器を持っていても役に立つわけがない。それが原因で怪我をするだけだろう。生兵法は怪我のもとでしかないのだ。
「あとな、鉄砲の弾丸は残り一発だ。さっき景気良くぶっ放したんだがよ、普段から手入れしてるわけじゃないんだ。わかるよな」
この男はどうしてどん底の状況なのに、さらに畳み掛けるような発言を重ねるのだろうか。私は今さらながらスティーブ・ウィルソンという人間の正体を看破したような気分になった。きっと今、自分の顔を鏡で見たら我ながらにも呆れてしまうほどの嫌な顔つきになっていただろう。
「ウィスキーの件は別として、私は臨時の非正規職員ではありますが本件については弁護士を交えてゆっくり今の状況についてお話したい気分ですね」
「なあ、ハワード。実はお前がカラテのブラックベルトで素手でグリズリーを倒した経験があるとか、そういうことはないのか?」
私はスティーブ氏よりも先行することで、これ以上の会話は無駄であることを行動で示す事にした。不安を通り越して怒り心頭という心境になってきた。素手なら私よりも体格ががっしりしているアンタの得意分野だろう。彼は案外見掛け倒しなのかもしれない。ここに来て幾分か異常な状況に慣れてきた私は怪物に遭遇しないルートをある程度まで考えながら歩いていた。街の地図が完全に頭の中に入っているわけではないが、こうやってトラブルが発生している場所を避けながら進行していれば無傷で警察署まで辿り着くことが可能となるだろう。そして、今ではスティーブ氏を先導する立場となっていた。
「そういえば、お前と仲の良かったチャールズがよく言ってたな。リヴィングデッドは、彼らを使役するネクロマンサーを止めない限り無限に増え続けるって。不謹慎かもしれないが、あいつが消える前にもっとよく聞いておくべきだったな」
私の大学での先輩、チャールズ・スミスは死後の世界や死者の蘇生などを取り扱うオカルトの研究者だった。私の好みは大学で専攻している分野とはまるで異なった分野だったが、彼は大学でも自身が研究するオカルトに関する知識のデータベースを増やす為に海洋学や民俗学を専攻していたのだ。今になって考えてみると、チャールズ・スミスのオカルトへの探究心は単なる趣味と呼ぶには度合いが過ぎていたかもしれない。大学を出入りしている時からも周囲から浮いていたような気がする。まあ、今となってはこんな話をしても関係はないのだろうが。いや、果たしてそうか。これは単なる偶然なのだろうか。私はスティーブ氏の前で思いつきを口にした。
「編集長。これは以前というかかなり前の話なんですが、チャールズ先輩から本物のネクロマンサーがいる場所に取材に行かないか、という話を持ちかけられまして。編集長はその話、ご存知ですか?」
私の記憶が正しければ、たしか百年前に処刑された有名な政治犯が収監されていた何とかという刑務所に二人で行こう。そんな話だったはずだ。あの時はさっき見た人攫いUFOに夢中で全く気にしていない話だったのだが。我々の目の前で起こった二つのオカルト事件、これは単なる偶然なのか。私は入り組んだコンクリートジャングルの裏路地を死者の行軍にぶつからないようにしながら移動する。これは想像の域を出ない発想なのだが、死者はより多くの生ある者たちに遭遇するために大通りを使っているのだ。また、向こうから男女の悲鳴が聞こえてきた。許してくれ、私は無敵のヒーローではない。ちっぽけな一市民でしかないのだ。どうすることも出来ない。
「あのチャールズがそんな話をしていたのか。残念ながら会議でも聞いたことはないな。その手の話は普通、複数の編集者同士で会議を開いてネタの出し合いみたいなのをするはずなんだ。個人でやったら取材費が出ないしな。いや、こうして今お前さんからチャールズから持ちかけられた話を聞いてもだ、俺は面白い話だと思うよ。特集を組んでもいいと思う」
スティーブ氏は体の向きを変えながら、ギリギリの状態で進んでいた。この小道は彼にとってはかなり窮屈な場所だったのだ。もしもここで先頭の私が怪物に遭遇した場合、氏と怪物にサンドイッチの状態になるわけだが、私はなるべくそういった状況を考えないようにしていた。
「それで、どこなんだ。その死霊魔術師たちの集会所ってのは」
「たしかサンローラン記念刑務所だったかな」
その時、我々の真上にある非常口からドアをノックする音が聞こえてきた。ヘルプヘルプ、と何度も叫んでいる。おそらくは普段から絞められた非常口なのだろう。私はさらにうしろめたい気持ちになった。一応、スティーブ氏の顔を見る。氏は何度か首を横に振り、前を指差す。かれにとってもこの選択は苦汁の決断なのだろう。私は下を向きながら前を進んだ。さらに上から強い調子でヘルプ、ヘルプという叫び声が聞こえてきた。私が足早にその場を去るまでもなく、やがてドアをノックする音が途絶えて助けを求める声も聞こえなくなった。スティーブ氏は背後から優しく私の肩を二度叩き、私は声を殺しながら涙を流してその場を離れた。おお、神よ。願わくば彼に安らかなる永久の眠りを。
それから何度か同じようなシチュエーションに出くわした。相手が女性、子供だったこともある。私は聞かないようにしながら正解のルートを進むようにした。一刻も早く警察署に到着して、体勢を立て直さなくては。死者たちの魔の手が及んでいない別の町に行けば、このような悲劇を繰り返さなくてもすむはずだ。私は自分にそう言い聞かせて進む。どれくらい進んでからのことだろうか、スティーブ氏が突然口を開いた。
「おい、ハワード。思い出したぞ。サンローラン記念刑務所。たしかな南北戦争の時にいかれた南部の軍人どもが戦争に与する事を良しとしなかった坊さんたちをそこに集めて皆殺しにした場所だ。もっとも俺が知っているのはそこで幽霊が出るって話だがな」
刑務所に関するエピソードを聞いて、私はぞっとした。敬虔なクリスチャンではないが神職の人間を反逆者として虐殺するなんて。いくら戦争時でも狂っているとしか思えない。だが、死霊魔術師絡みの場所というならうってつけではないか。やはりチャールズ先輩はこの事件に関わっているのだろうか。それは一介のオカルト研究者としての領分を越えているのではなかろうか。私はひどく困惑していた。
だが、私はその時先輩から聞かされた話と今スティーブ氏から聞かされた話にわずかな矛盾点があることに気がついた。決して些細な話ではないが、この二つの話の相違点には何か意味があるのだろうか。
「待ってください、編集長。その刑務所が出来たのは南北戦争の時ですか。私がは先輩から独立戦争の時に出来た、と聞かされましたが」
いや。やはりおかしい。アメリカ独立戦争と南北戦争では九十年近いタイムラグが存在する。オカルトやホラーの題材としては典型的な代物だが、この時間差は果たして単なる聞き違いで済ませてもよいものなのだろうか。同じような名前の刑務所が二つ存在して、といったケースも十分に考えられるのだが。
「まあ、俺の記憶力だからな。宛てにされても困るぞ」
「あの参考程度に聞いておきますが、編集長はどういった経緯でサンローラン記念刑務所の話を知ったのですか?」
そうするとスティーブン氏は考えるような素振りを見せた。すぐには思い出せない、そういった類の優先順位の低い情報だったのだろうか。スティーブ氏はコネクションを持たずに小規模な雑誌社の編集長を務めるほどの人物である。最初に編集部を尋ねた時に新品のスーツ姿を着用した彼の姿には私も上辺に騙されたものだ。やや話題が脱線してしまったが、私は彼がそういった細かい情報を忘れてしまうとは思いもしなかったのだ。
「たしか幽霊関連だから、例の大学教授のノーマン先生だ。ハワード、この話は今必要なのか?」
スティーブン氏は相変わらず途方に暮れたいたが、私の中ではある情報と情報が繋がっていた。チャールズ先輩は専攻ではないが、エドワード・ノーマン教授の授業に頻繁に通っていたのだ。内容は東洋の神話の一節だっただろうか。ある聖者が弟子の死んだ母親を助けるために異邦の神に祈りを捧げ冥界から死者を呼び出す、そういうエピソードだった気がする。この手の話題に熱狂していたチャールズ先輩に紹介されて、実は私はだった一度だけだが教授の授業に参加したことがあったのだ。内容はオカルト要素が強くて、正直インチキと陰口を叩かれても文句は言えないような代物だったが、妙な熱を帯びた生徒が多数参加していたのを覚えている。
授業が終わった後、異様なほどにテンションを高くした先輩が語っていた言葉を私は何故か今まで忘れることが出来ないでいたのだ。彼は少年のように目を輝かせ、普段は決して見せない胸のうちに秘めた情熱と狂気にも似た感情をそのまま私に言って聞かせる。
「やはり教授の話は素晴らしい。ハワード、死後の世界は存在するんだ。そして、死後の世界と今ある世界の関係を解き明かした者だけが二つの世界を行き来する資格を得る事が出来るんだ。そう原始の世界において死者と霊を使役する死神の代行者、×××××になれるんだ。すごいぞ、ハワード。ようやくこれで僕にも運が回ってきたというもんだ。それで次の授業の日程の話なんだが」
私は彼の反応に注意を払いながら当たり障りの無い返事をした。いや、そうしなければならぬという脅迫観念が働くほどに彼の授業に対するある種の狂気を含んだ熱心さが怖かったのだ。私がチャールズ先輩を遠い存在と感じるようになったのもその頃からだった。エドワード教授、チャールズ先輩。この二人のやっていた事は本当に無関係なのか。絶体絶命の窮地に追いやられた今の私には知り得るべくもない。警察署に到達し、他の街に移動してそれから落ち着いた後に事件を本格的に調べる必要はあるだろう。どこからか沸いた死者たちはさらに死者を生み出し、既に犠牲となった者たちは数限り無い程に増え続けているのだ。どこかかしらで決着をつけなければ私は前に進むことが出来ない。
「編集長。先輩は、直接交流があったかは確認できていませんが教授の教え子です」
スティーブ氏は一度、頭を振るとそのまま黙ってしまった。教授と氏の関係について私にも打ち明けてもらいたかったのだが、そういうわけにもいかなくなった。彼自身の考えがまとまるまで、私は彼の返答を待つことにした。
私たちは薄暗いビルの隙間から出口に差し掛かったあたりで、急に立ち止まる。脱出口のゴールが、というか行き止まりが見えてしまった。我々の目指していたゴール、警察署の前に重厚なバリケードが築かれてその前には昨今の労働ストライキでも見ることが出来ないようなパレードが出来上がっていたのだ。勿論、そのパレードに参加している人間に生きている者はいない。遠目から見ても分かる様なくらい肉体が欠損した生ける死者の軍勢が、人類最期の砦を制圧しようとしている光景が見えてしまったのだ。
「なんかこういう展開なれちまったな」
スティーブ氏はウィスキー瓶の蓋を開けていた。すぐ近くで非常時用の散弾銃が発砲されて、死者の体が飛散しているというのに。地面にダウンした死者は何とか立ち上がろうとするが、その間にもう一発打ち込まれて動かなくなってしまっていた。ついこの間、映画で観たリヴィングデッドたちのようにはいかないらしい。これは有益な情報かもしれない。
私はミント味のガムを口の中に放り込んだ。眠気覚まし用に持っていたものだ。頭の中を少しでもクールダウンさせて、次の行動の指標を考える為の措置だった。口の中に広がる清涼感のあるミントの香りが、絶望的な状況に屈しそうな私の精神を少しだけまともなものにしてくれた。
「これはひょっとするとチャンスかもしれませんよ。今なら警察署を囮にして、その間に車を手に入れて、隣の州まで逃げ切る事が出来るかもしれません」
我ながら思い切ったことを言ってしまったと思う。私が次の目的地を隣の州と断言したのは、もはやここら一体の街には希望の一切が存在しない、と頭の中で割り切ってしまったからである。ここにはヒーローは不在、軍隊の駐屯地からはかなりの距離がある場所なのだ。
「お前ってヒーロー向きだぜ。ピンチになると途端にクールになるタイプだったのか」
スティーブ氏は地面に瓶を捨てた。おそらくは中身が空になってしまったからだろう。物的証拠が無くなってしまった以上は、先ほどのウィスキーの飲みすぎの一件で訴えられる事は無くなったわけだ。だが、彼は財布から取り出したどこかの店のレシート片を私のシャツの胸ポケットに捻りこむ。そして、スティーブ氏は性格の悪そうな笑顔でこう言ったのだ。
「後で頼むぜ、ヒーロー。命に比べれば、安い買い物だ。俺の記憶が正しければ、車の運転は出来なかったよな」
私は後で機会を見つけて彼にリベンジすることを心の中で堅く誓う。例のウィスキーの金額は、一介の学生の懐には厳しすぎる金額だったのだ。
それから私たちは大通りの戦場から区画一つ離れた小さな路を通り、スティーブ氏が普段使っている月極の駐車場を目指した。いざという時は非合法な手段で車両を調達することも可能だったが別のトラブルに巻き込まれる可能性もある。せめて街を脱出するまではあらゆる局面において慎重に徹することを私たちは選択したのだ。
後方の警察署ではさらなる戦闘が続いていた。現場をはっきりと見ていないが、今のところは戦線は拮抗しているようだった。だが、死者の側は時間が経過すればするほど戦力が増強されていくのだ。警官たちはやがて白旗を振る破目になるだろう。そして、通過儀礼の果てに晴れて死者の軍勢の一部に加わっていくのだ。私は暗鬱たる気分を払拭すべく、ミント味のガムをもう一枚口の中に入れることにした。
だが、意外な形で警官たちと死者の軍勢との戦いは終結に向かうことになる。実際、今この場で何が起こったかは私には説明することが出来ない。今日の私の最期の記憶は鼓膜に突き刺さるような轟音、続くスティーブ氏の絶叫と、直後に発生した地震による大きな揺れ。そして、一瞬で私の視界の全てを奪った瓦礫の山だった。
ここが日常の終わり、そして最悪の始まりだったのだ。
次回更新は、しばらくお待ち下さい。