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あの女……とてつもねえ!

 ゆふらんは再び走っていた。

 だが、ついさっきまでの走りとはもはや別物と言ってよかった。隠しとおすことのできなくなった脇腹の痛みをかばうために若干フォームが崩れた結果、体重移動がスムーズに行えなくなり、規則正しかった呼吸のリズムは乱れ始め、コンパスでひいたような綺麗な円を描いていたザジトワリスの揺れも不揃いになって、その衝撃にゆふらんははっきりとストレスを感じていた。無理矢理にでもペースを上げようと試みたが、ただひたすらに体力を消耗するだけだった。流れるように走っていた先ほどまでのイメージは遥か遠くに霞み、もう手が届きそうもなかった。

「もうやめた!」

 全てが馬鹿馬鹿しく思えてきた。全身に行き渡らせていた力を抜いて、身体に残ったスピードに身を任せる。顔、手、足、ザジトワリス、パーツパーツが上下左右、不規則に揺さぶられた。大きく開けた口からだらしなく舌が放り出され、自分の口臭がかすかに匂った。水分が欲しい。せめてあそこまで走ればよかった、離れた場所にあるコカコーラ社の自動販売機の光を虚ろに見ながらゆふらんはそう思った。足が重い。せっかく絶好調だったのに、あの男のせいで何もかもが狂った。ただ、もし、あのまま暴力的とも言えるようなペースで走り続けていたら……? それを望んでいたのだ。ゆふらんは、自分の身体の限界を超えてばらばらに壊れる自分を想像する。あれが欲しい。今夜なら、届くかなと思った。

 腰に手をあて、ゆふらんは足を引きずるように歩く。自動販売機が遠く遠く感じた。

「だから言ったでしょ、無理しすぎだって」

「ザジー、ちょっと黙ってて。今のあたし、すごく不機嫌」

「何が不満なの? 分不相応な真似をした当然の報いじゃない」

「ザジー、お願い!」

「……ばっかみたい」

 冷た過ぎるスポーツドリンクを一気に半分以上飲んで、一息ついた。ほんの少し視線を下ろしただけで、ザジトワリスが目に入る。この脂肪の塊を握りつぶしたくなった。何でこんなに巨大になった? こいつがあるから、あたしの目の前の全てが醜く変わるんだ。本当は、あたしの目の前以外の世界は、綺麗で美しいに違いないんだ。そうじゃなかったら、みんな、あんなに普通に生きていけるわけがないじゃない。

「また、始まった」ザジトワリスが冷めた声で言った。「そうやって自分を特別視して、勝手に壊れてくゆふらんが一番醜いんじゃないかしら?」

「違う、違う! 正反対よ。壊れないためにこうやって考えるの。このままだと壊れちゃうから、壊れそうになるあたしの方がおかしいんだ、って……。あたしの方が正しいなんてこと、あるわけないじゃない! たった一人なのよ。こんなに大きいものを、たった一人のあたしが、間違っているなんて、そんな風に言えるほどあたし傲慢じゃないし」

「ゆふらん一人対それ以外全て? ゆふらん以外は全部一つのもの? それって十分傲慢なんじゃない?」

 ザジトワリスのあざ笑うような響きの言葉に、ゆふらんは歯噛みする。そうじゃない。このおっぱいは何もわかってない。その中に、あたしは入っている。全部で一つなのだ。あたしも含めて、全部で一つ。それがおかしく見えるから、こんなに腹立つんじゃない。

「そんなことより」ザジトワリスはまだ冷めた声のまま言った。「仕事しないと」

 ゆふらんは気乗りしない表情で、ミズノのウエストポーチから通信機を取り出す。アンテナを三本とも伸ばし、電波を探る。今夜はデネブの方向が一番感度が高いようだった。スイッチを押し込むと、軽いノイズが流れた。送話口に向かって報告する。

「こちら、エージェントゆふらん。この地域は今日もださいです。こちら、エージェントゆふらん。この地域は今日もださいです。報告終わり」


 ばすおは何故だか走っていた。顔を前に突き出し、両手を左右に振りながら、内股気味に走っていた。学生時代、ばすおが走ると周りの連中が一斉に笑い出したことを思い出す。なんでも、走り方が面白いのだそうだ。自分ではよくわからない。そもそも走り方に面白いつまらないがあるのだろうか? みんな馬鹿だから、なんだって面白いのだ。誰かが指差して笑い出せば、それに倣って笑い出すのだ。愚かな連中だと思いながらも、ばすおはそれ以来走ることを止めた。どんなことであっても、指を差されて笑われるのは決していい気分ではなかった。

 そんなばすおが久しぶりに走った。子どもの頃から足が遅いと言われ続けてきたばすおだったので、どれだけ遅いのかと思ったら歩くよりもずっと速いじゃないか、そう気づいた。新発見であった。チコピンがヒュウと口笛を吹いた。

「確かこっちの方だったよね」

「ああ、間違いない。……おいシモン、あれを見るんだ!」

 水銀灯の明かりの下で、小太りの男がうずくまっていた。ばすおは駆け寄り、男の肩を掴み激しく揺すった。

「大丈夫ですか!」

「くそっ……やられちまったぜ。あの女……とてつもねえ」

「立てますか!」

 ばすおは男に肩を貸して立たせようとしたが、男は重く、またあまり立つ気もないようなのですぐに諦めた。

「すまねえ……足をやられちまってな……って、アレ? おい、お前ばすおか?」

 突然自分の名前を呼ばれて驚いたばすおは、男の顔をじっと見た。肌はつやつやとしているが、顔色は悪く健康的ではない。童顔と言える顔立ちだったが、不思議と若さは感じなかった。そこまでの長さでもないのに後ろで結んである若干薄くなっている髪のせいかもしれない。

「おれだよ、すたずぶだ! 平山すたずぶだよ」

 一瞬、険しい顔をした後、ばすおは目を見開いた。

「すたずぶ! すたずぶか! ずいぶんと太ったし、変な髪してるからわからなかったよ!」

 すたずぶはばすおの中学校時代の同級生だった。お互い教室の隅っこで口を開けっ放しにしているような少年だったのですぐに打ち解け、一時は親友と言っても差し支えない仲だった。しかし、少年の心と言うものは傷つきやすいもので、とある出来事があってから距離をとるようになり、中学卒業後は今日まで顔を合わせることはなかったのだ。ばすおとすたずぶ、実に十三年ぶりの邂逅であった。

「それにしてもすたずぶ。こんな所でうずくまって、一体何があったんだ?」

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