このやろう!
日課となった夜の散歩も、そろそろ切り上げていい頃合いだったが、一発くれてやる場合のことを考えるとばすおは家に帰る場合ではないと考えた。自分とチコピンだけの空間で一発くれてやるのは、どうも不可能なことのようにばすおには思えるのだ。
とは言え、ばすおの体力に陰りが見え出したのは事実だった。波が丘公園とはずいぶんと遠くに来たものだ。いかに質実剛健なダンロップのスニーカーと言えどもばすおの足下を守り続けるには限界があるようで、徐々にアスファルトを踏みしめる感触が、高品質のタイヤ造りで培ったダンロップの確かな技術を惜しげもなくつぎ込んだスニーカーのソールをかいくぐり、ばすおの足の裏に直接ダメージを与え始めていた。
粘ついた口の中。重くなりつつある足取り。心なしか背中にも痛みがあるようだ。一発くれてやると言ったって、何をすればいいのかばすおにはまるで検討もつかないのだ。もしかしたら辛い思いをしてまで歩かなくてもいいのかも知れない。今夜ばすおは一発くれてやる、そうピコチンが断言したのだ。そうであるならば、一発をくれてやるという物事がどんな状況であっても起こると言うのであれば、ばすおは今すぐ家に帰って、半分ほど残しておいたハーゲンダッツを少しでも柔かくしておくのが正しい選択なのではないか。
否、そうではない。ばすおは自らの内から湧き出る甘い考えを振り切った。ばすおは一見、出鱈目に歩いているように思える。ばすお自身ですらそう思える。しかし、ばすおが歩みを止めないのは、己が間違いなく正しい道を歩いていると言う絶対の自信があるからなのだ。逆に言えば、ばすおが歩みを止めた時、ばすおは既にばすおでは無くなっているのだろう。下田ばすおと言う男は、ここで家に帰るような男ではない。揺るぎない自信が揺らいだ時、その男は既に死んでしまっているのだ。目の前は道なき道なれど、恐れるわけにはいかぬのだ。何故なら、この道の先にあるからだ。一発をくれてやる、何かが、ばすおを待っているからだ。そうだ、ぼくを何かが待っている……! ぼくの強烈な一発をくらいたいと、何かが、待っているのだ……! ばすおは歯を食いしばり、一歩一歩着実に進んで行く。こりゃあ、足の裏に水ぶくれができてるな……と考えながら。
電話が鳴った。のんびりとしたお気楽な調べが、静寂を切り裂いた。ばすおは嫌な予感を抑えつけながらカーゴパンツのサイドポケットから電話を取り出した。こんな時に鳴る電話でいい知らせがあった試しはないのだった。
電話のディスプレイから、ばすおのアルバイト先の店長である三浦べるべるの名がばすおを睨みつけていた。
ばすおは一瞬、激しく動揺した。もしや、今日はアルバイトだったのでは……? そんな思いが言葉になる寸前に、ばすおは即座に否定した。昨日も一昨日もその前の日も、シフト表を指でなぞりながら今日の休みを確認した記憶が、ばすおには確かにあった。
「チコピン、店長から電話だ。ぼくは今日休みだったよね?」
念には念を入れようとばすおがそう質問すると、チコピンがポケットから飛び出し、流体的な動きでするするとばすおの肩に移動した。
「請け合ったっていい。確実に今日は休みだよ」
「じゃあ、なんだって電話をよこすのだろうか」
「さあね。電話に出てみればわかるんじゃないか?」
チコピンの意見はもっともだったが、ばすおには釈然としないものが残った。この着信は、善きものではない。そんな確信がばすおにはある。禍々しいアウラが電話から立ちのぼっているのが感覚的にわかる。ばすおは迷った。出るべきか出らざるべきか。
「はい、もしもし」
ばすおは電話に出た。いつものばすおならば、迷った時点で電話に出ないと決まったようなものだった。しかし、今日のばすおは、一発くれてやると言う強い信念でもって動いていた。一発くれてやることが決まっているのに、全てから逃げる必要があるだろうか?
「あーもしもし? 下田くん、きみさあ」べるべるの声は不機嫌そのものだった。ばすお以外のアルバイトからして見ればべるべるは気さくで話のわかる良い店長に違いない。しかし、ばすおには違った。何かにつけては嫌味をぶつけてきて、ばすおの困った顔を見ては嗜虐心を満たしていた。ばすおのどんな細かな動きも見逃さず、即興で嫌味を仕立て上げるその姿はまさにばすお苛めのプロフェッショナルだった。「昨日、ゴミ袋どこにしまった? 所定の位置ってあるわけじゃん、どんな物にだってさ。そう言うルールがあるからみんな仕事が気持よくできる環境が整うわけじゃん。下田くんさあ、ちょっと弛み過ぎじゃないか? もう少しさ、気を張って仕事してくれないとみんなが困るわけよ、実際。おれだってね、こんなことでいちいち電話したくないよ、めんどくせえもん、はっきり言って。でもさ、俺だって立場ってもんがあるわけじゃん。下田くん一人を甘やかしたらみんなに示しがつかないわけじゃん……」
はあ……はあ……と、気のない相槌を打っていたばすおだったが、はたと気づいた。これか? 今なのか? ここなのか? ばすおの脳内にβエンドルフィンがどばっと放出され、ばすおはにやり、ただごとではない笑みをその顔に浮かべた。
「……なわけじゃん。おれに言わせれば、そこが甘過ぎるんだよな下田くんは」
——さあ、一発くれてやるんだ!
「うるせえな」
「え?」
「うるせえってんだよ、このやろう」
「は? きみ、何を言って——」
「黙れこのやろう、なめてんじゃねえこのやろう、わけじゃんわけじゃんうっとうしいんだよこのやろう」
「この、おまえ、誰に向かって口きいてるんだ!」
「おまえだよこのやろう、おまえ以外いないだろこのやろう、この禿げこのやろう……お疲れ様です失礼します」
電話を切り、ばすおは不思議なポーズを決めた。デストラーデの弓引きのようでもあるし、それ以外のようでもある、まことに不思議なポーズだった。
「チコピン、どうだい? ぼくはいま、見事な一発をくれてやったんじゃないか?」
溢れてくる笑いを必死に抑えつつ、ばすおは息せき切りながら言った。
「まだまだ足りないね。ぼくの持ってるデータによると、こんなもんは序の口ってところさ。さあ、いこうぜ、シモン。夜はまだまだ明けやしないのさ!」
その時だった。ジョギングコースの方から若い女の声がばすおの耳に飛び込んだ。
「かかってきなさい、このギエロン星獣め!」