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さあ、一発くれてやるんだ!

「さあ、一発くれてやるんだ!」

 ラグランスリーブのTシャツを着た痩せぎすの青年、下田ばすおがスポーツジムの広告をぼんやりと見つめていた。重りが何重にも重なったダンベルを片手で持ち上げる筋肉の塊のような男がばすおを挑発的な笑顔で見つめていた。

 なで肩でひどい猫背でちびのばすおは、もし自分がこんな肉体の持ち主だったらスポーツジムの広告に出るようなけちな人生にはならないだろうな、と思っていた。

 度の強い眼鏡。幼いころから度の強い眼鏡をかけている男がなぜ例外なく冴えないのかあなたは考えたことがあるだろうか? 

 縦横無尽に暴れまわるろくに刈り込んでないくせっ毛のなかに手をつっこんで、ばすおががしがしと側頭部をかきむしると、粉チーズのようなふけがぱらぱらと肩に降り注いだ。

 ばすおの着ているラグランスリーブのTシャツの前面には、でかでかと彼の大好きなビデオゲームのキャラクターであるバスターチーフがプリントしてあった。ばすおの渾身のお洒落着だった。と言っても、大好きなビデオゲームのキャラクターだから無条件にお洒落だとばすおが思い込んでいるわけではなかった。彼はそこまで単純な男ではないのだ。

 まず、ラグランスリーブであること。ばすおがTシャツのデザインに求めるほぼ全てがそこにある。そして色合い。霜降りグレーのボディから切り返した袖の色が深いグリーンであることで、ばすおの長年追い求めてきた理想のTシャツ像が完成に至った……かに見えたが更にまだその先があった。

 通常、完成されたものに何かを足すという暴挙に出た場合、その何かが大いなる蛇足となり、結果的に全てが台無しになってしまう可能性はあまりにも高い。しかし、時には奇跡が起きるものだ。完成されたTシャツに、銃を構えたバスターチーフのプリントが有機的に絡み合い、まるでスイカに塩の如く、超自然レベルで融合したのだ。結果、最高のデザインと配色に加えて自己発信までできる至高の一枚が誕生したのだった。

 お洒落とはかくあるべし。そうばすおは考えていた。お洒落を志す者全てがぼくのように高いビジョンを持って地球全体のレベルを底上げしていかなければとてもじゃないが宇宙にはかなわないであろうよ、とばすおは昨夜の日記にしたためていた。しかし、至高の一枚はばすおの肩周りといまいち釣り合っていなかった。アメリカ人男性を基準に作られたTシャツは、例えSサイズであろうがばすおのなで肩から容赦なく滑り落ちた。ばすおは自分がなで肩だと言うことさえ気づいていなかった。

 カーゴパンツのポケットから、チコピンをそっと取り出し、両手でチコピンを隠しながらばすおは囁いた。

「ふむ、一発くれてやれ、か。思えばぼくは一発くれてやった記憶がないな。家族、学校、職場、ぼくが今まで所属した共同体においてぼくは確かな一発をくれてやったことがあっただろうか。調べてくれ、チコピン」

「ぼくの持っているデータだと、この国で一発くれてやったことのある人間は、全体の一割にも満たず、その殆どが違法行為を日常的に行っているようだね。どうやら、シモンはその中に入っていないようだ」

 クレヨンのペールオレンジを思わせる色合いのチコピンがばすおにだけ聞こえる甲高い声で言った。シモンとは、下田ばすおのことだ。ばすおは子どものころからそう呼ばれたかったのだが、今に至るまでそう呼んでくれたのはチコピンだけだった。

「やっぱりそうか。ぼくは一発くれてやるべきだと思うかい、チコピン」

「ぼくの見解だと、今の時点ではその必要はないよ。ただ——」

 そこまで言って、チコピンは言葉を詰まらせた。チコピンには顔というものがないので表情を読み取ることはできなかったが、どうやら考え込んでいるらしい。そんなチコピンにばすおは驚きを隠せなかった。チコピンが言い淀むなんて今までになかったことだ。

「ただ、なんだい? 思わせぶりはごめんだよチコピン」

「すまない、シモン。今までとは違う結果が出たもんでつい、ね……」

 戸惑いを隠せないチコピン。どう言葉にすればいいのやら決めかねている様子だ。

「ああ、もう。何がどうしたっていうのさ。ぼくをはぐらかそうったってそうはいかないんだぜ」

「オーケイ、シモン、つまりはこういうことだ。きみはまさに今夜、一発くれてやるのさ。データがその事実を示唆している」

 ばすおはチコピンの言葉を噛んで含むように心の中で復唱した。

 まさに今夜、一発、くれてやるのさ。

「結構なことじゃないか!」ばすおは目を輝かせて、奇妙なポーズをとった。歌舞伎における見得のようでもあるし、それ以外のようでもある、まことに奇妙なポーズだった。「一発、くれてやろうじゃないか!」

「だが、気をつけろよシモン。今夜は尿酸値の高まりが目立つ。一筋縄じゃいかないぜ」

 警告めいた口ぶりでチコピンは言った。

「一体、どういうことだ?」

 ばすおは奇妙なポーズをとったままではあるが、懸命に眉をひそめて聞き返した。

「結石にはご用心ご用心、ってね」

 歌うようにそう呟いて、チコピンは自らカーゴパンツのポケットの中に滑り込んでいった。



 中尾ゆふらんは走っていた。雲の多い夜だったが、満月の光はこれしきの雲では遮られることはなかった。それどころか波が丘公園のジョギングコースは普段の満月の時よりも更に明るく感じるほどだ。目を瞑ってたってこのまま走っていられそう。ゆふらんのそんな思いとは裏腹に、脇腹には形を持たない鈍い痛みが音も立てずに忍び寄っていた。

「ペースが早過ぎる! これじゃいくらなんだってもたないわ」

 狂気の山脈、幻乳、NUMA、ビッグバン乳、ぬっぺふほふ、その他数々の異名を持つゆふらんの胸、ザジトワリスが大きく円を描くように揺れながら悲鳴をあげた。

「なに言ってるの、今夜のあたしは絶好調よ。月の光を浴びて体中の電気がぱちぱち音を立てているの。もうすぐ梅雨の時期だし、少しくらいは無理もしないとね」

 ゆふらんは恍惚の表情を浮かべながら、脇腹のかすかな鈍痛を意識の外へと追いやった。(そこで大人しくしてなさい。まだあんたに出て来てもらっちゃ困るのよ。体の異変を伝えてくれるのはありがたいけど、今はだめ)

「また痛みを無視したのね! どうなっても知らないわよ」

 ゆふらんの思考を目ざとく感知したザジトワリスがヒステリックに捲し立てる。

「口うるさいおっぱい! ザジーもあたしの体の一部なんだから、少しくらいは協力しなさいよ」

「どうせ何も見つからないわよ。最近じゃずっとそうじゃない。どこもかしこも不景気不景気! もうこの辺りは諦めた方がいいんじゃないかしら……」

 ため息混じりのザジトワリスは相変わらず一定のリズムで、ぶるるんぶるるんとちぎれんばかりに揺れている。あまりにも巨大なその胸は、当然のことのように男の注目を集めていた。その中にどうにかしてお近づきになろうと画策する者がいたとしても全く不思議なことではなかった。

「ゆふらん、後ろ。気づいてる?」

「ねえ、あたしを誰だと思ってるわけ? とっくの昔にわかってるってば。さっきの気取りくさったおっさんでしょ。すれ違ってすぐにあたしの後についたんだわ。ほんと、汚らしい!」

「あら、わたしはスポーティーで素敵なおじさまだと思ったけど。あのおじさまだったらわたし触られてもいいかな」

「ザジー、趣味悪ーい! 上下アンダーアーマー(あのぴっちりとしたやつ!)にナイキのランニングシューズ? あの格好だけで人間の底の浅さが知れるってもんでしょ。それにあのうさんくさい日焼け、仕事前にサーフィンに行ってそれを周りに吹聴していい気になってるような手合いよ。普段はバカみたいに高い腕時計とかつけちゃって、ディーゼルのジーンズとか履いてるのよ絶対。おえーっ、勘弁してって感じ!」

「勝手な想像で興奮しちゃって馬鹿みたい。そんなだから、ゆふらんは男ができないのよ」

「もうあったまきた!」ゆふらんはそう叫んで、走るペースを急激に落としてひるがえるように向き直り、大袈裟なポーズをとった。名も知れぬ空手の流派の構えのようでもあるし、それ以外のようでもある、まことに大袈裟なポーズだった。「かかってきなさい、このギエロン性獣め!」

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