その名は
才能無しの戯言です
雪を踏む音だけがこだましている。
鼓膜を震わせるのはその残響と自身の荒い呼吸音だけだった。
世界が崩壊する少し前のような、虚ろな静寂。
一面の森の銀景色は、銀細工で出来たと錯覚するほどの繊細さ、美しさを持っているのにも関わらず、どこか退廃的な印象を拭いきれなかった。
……おそらくこの場所であることとラグの今の心情故からのものなのだろうが。
ぐにゃり、と突然に視界が歪む。
「かはっ」
足が縺れ、ラグはその場に倒れこんだ。
どさりという質量のある音と共に積もった雪が舞い上がる。ぼんやりとした視界の中で白雪と黒点が乱舞していた。綺麗で綺麗で綺麗で汚い光景。
「はっ、はっ、は、げほっ――」
思わず助けを求めるように伸ばした小さな手は、空を切った後にぱたりと力尽きた。
純白に紅色が滲む。
ラグは虚ろな瞳でその様をただただ映していた。
自分の命の残骸。生温かな液体。雪に溶けていくその悲しい色を。
「はー、はー、は――」
じんわりと進むに連れて薄くなっていく滲みと連動するように、か細い呼吸も細く緩くなっていく。虚ろな瞳から光の残滓がだんだんと去っていく。
「は――…………」
反響音すら響かせず、少年の吐息は唐突に終わりを迎えた。
満ちる元通りの静寂。
しかしそれも長くは続かなかった。
少年が事切れるのを待っていたかのように少女が独り、木陰から姿を現す。
白い息が上へと上がっていき、さくり、と裸足で踏み潰された雪が冷たい音を立てた。
「……」
蒼色の冷たい双眸、金色の柔らかそうな髪、小さな身体。この極寒の中着ているものは薄手のワンピース一枚のみ。……人形と見紛う程の無機物感。
そして無表情で少年を見下ろす少女の貌は、目の前で斃れている少年のそれと鏡写しのように瓜二つだった。
「……」
少女は無言のまま、雪の絨毯へと膝をついた。
なんの気負いもなく、そのまま少年の遺体へと手を伸ばす。
「だから言ったのに」
蒼い呟きを口にすると、少女はそっと少年の纏っていた襤褸布の背中部分を剥いだ。
びりりりり、と布の裂ける音が銀色の森に響き渡る。
襤褸切れにまで成り下がったそれを、ぽいと投げ捨てると、少女は剥き出しになった少年の細い背中へと指を這わせた。
「……言ったのに」
薄っすらと笑みを浮べながら、少年の右の肩甲骨の下に小さく折り畳まれた羽を愛おしそうにそっと撫でる。
「絶対こうなるって」
純白の羽の先端に付いた紅色を見て、少女の貌はほんの僅かに曇った。
「本当は一緒に行ってあげなきゃいけなかったんだけど」
ふるふる、と首を振る。
金髪が絹のように広がった。
「『私』は怖いから嫌だったの。……だって、こうなるのは目に見えてたし」
少女はそっと自身の左の肩甲骨の辺りを触った。
「……半身は残しとかないと、ね?」
優しく問い掛けるように首を傾げ、少女は少年の羽の付け根を掴んだ。
「今はゆっくりおやすみ、ラグ。今回の世界は『私』が終わらせるから。……大丈夫、前よりは上手に吹けるようになったわ」
労わるように少年の頭を一撫でしてから、開いたままだった虚ろな瞳に瞼を重ねる。
少女は梳いた髪の一房に口付けを落とすと満足そうににっこりと笑った。
「次の世界で待ってる」
既に少年の剥き出しの背からは羽は失われていた。代わりに少女は愛おしそうに自身の右の肩甲骨の辺りを撫でた。
「……」
ふっ、とその表情が冷静なそれへと入れ替わる。
背を撫でるのを止めた少女は、細めた目で少年の身体を視まわす。
頭部、目立った外傷はなし。胸部、打撲痕が幾つか。腹部、おそらく致命傷の刺傷。足、切り傷擦り傷が多少。意外とそこまで……訂正。これは――。
少女は貌を嫌悪感に思い切り歪めた。
ぎりり、と歯軋りの音が大きく鳴る。
「――この世界」
少女は無意識のうちに自身の腕に爪を立てていた。紅色が薄っすらと滲み出てきたところではっと我に返ったように手を離す。
「ラグ」
喘ぐように半身の名を呼んだ。
「可哀想に」
冴え冴えとした双眸から、涙が一粒づつだけ転がり落ちる。
少女は大きく瞬きをした。
「……もう、行ってくるね」
ゆぅらり、と不安定にその身体が傾く。
ばさり、と少女の背に広げられた羽が大きな音を立てた。
元々そういった作りだったのか、ワンピースに変化はない。
ばさり、と少女がもう一度羽撃く。
いつの間にかその手には小さなラッパが握られていた。
「――今回もまた、終焉を告げに」
ばさり。
雪が飛び散る。
白い雪と、純白の羽根が銀色の森の中で旋風を巻き起こす。
少女の絹のような髪が悪夢のように広がって。
少女の双眸は蒼い焔を燈していて。
引き結んだ唇は何処までも拒絶的に嗤いを象っている。
「さぁ、叫ぶがいい」
羽撃きが空を裂く。
「さぁ、啼くがいい」
羽撃きが空を割る。
「さぁ、喚くがいい」
羽撃きが空を斬る。
「さぁ、無様に、啼いて叫んで喚いて」
凄惨な笑顔が、痛々しい想いが、空を抱擁し接吻をする。
「後悔しろ! 許しを請え! 逃げ惑え! 何も出来ず、何もしない、愚かで怠惰で無力なものどもよ!」
羽撃きが空に響き渡るたびに、少女は少しずつ少しずつ姿を成長させていく。
背が伸び、身体が丸みを帯びて、声は甲高いだけのものから艶っぽさを増し、翼も比例するように巨大になっていく。
「我が半身を! あぁ、他人の痛みを思いやれぬものよ! 祝福を! 幸いを! 恨みを! 呪いを! その小さき身体一杯に受け止めるがいい!」
あははははははは、と嗤い声が羽撃きに混じって空にこだまする。
愛すべき世界。
憎むべき世界。
守るべき世界。
壊すべき世界。
慕うべき世界。
忌むべき世界。
慄きの声を、歓喜の表情を。
世界は終焉を迎える。
そして、その終焉にむかってラッパの音が高らかに鳴り響く。
愉しそうに嗤う少女だった者は、それと同時に自身の名を呼ぶ声を聞いた。
「――」
その声は。
「ラグ」
我が半身よ。
終
お蔵入りしなくて良かったね