儀式 その4
持っていた腕を急に交差させ、背負うように彼女は後ろを向いた。まずいと思った。このままでは投げ飛ばされると、そう直感した。故に俺は、タイミングをずらし、そのまま彼女に全体重を乗せた。
「うっ……」
タイミングがずれたところに体重がのしかかり、バランスは崩れ、どさりと彼女はうつ伏せに倒れこむ。
やっべ。痛かったかな。
彼女も戦士だ。受け身くらいは取れるのだろうが、それでも背中に物を背負っている状態と同じだ。少なからずどこか打っただろう。
「っ……」
案の定、彼女は庇いきれなかった右腕をさすっている。
大丈夫か、と尋ねようとした。だが、
「早く、どいてよ」
うつ伏せのまま彼女はそう言った。俺の方を見向きもせず、ただそう言うだけだ。心配してやったのは撤回だ。俺は反撃を避けるために彼女の両腕を掴む。
「どいたらまた殴るだろう」
と言いつつも、この態勢が彼女にとってよくないものだということはよく分かっていた。何せ背を取られ、両腕を俺に抑え込まれているんだ。
これがいけないんだな、と思わずにはいられなかった。彼女達が男を嫌う理由の一つなのかもしれない。力に任せ、男のなすがままだ。
でも、動きを見てわかった。やはり普通の女の子ではない。油断すれば、俺だって危険なんだ。
「なあ、なんでそんなに怒ってるんだよ」
背後から聞く質問ではなかったが、今聞く他なかった。彼女がこんなにも態度を急変させた本当の理由を俺は気になっていた。
「……」
彼女は黙った。案の定である。黙るかなとは思っていたんだ。
俺は小さなため息を一つつく。
どうしたらいいんだこの状況。
俺は彼女の背に乗り、腕を抑え、返答もなく動けないまま。どう見ても時間稼ぎだ。鈴だな、と思った。彼女が来るまでこうしているつもりだ、きっと。
俺は腕を離した。抵抗に意味はないと思ったからだ。
その瞬間に俺は足を取られ、仰向けに倒れこんだ。ごつんと頭を打つと、くっと声を堪える。これも案の定だ。彼女が仕返ししてくることは予想していた。
馬乗りになり、彼女はあろうごとか例のおもちゃ銃を俺に向けている。アロンの瞳はぎらぎらとしていて、完全に戦闘モードである。
はぁ、とため息をもう一つついた。
それを見たアロンは眉間に皺を寄せる。
「何よ……」
「敵、ね」
「……そうよ」
「そう思われて本気で好きになれると思ってるのか」
彼女の銃が揺らいだのがわかった。
ここまで敵対心を抱かれれば、心から好きになることなんて無理だろう。彼女はわかってそれをやっているとしたら男心を読む天才なのかもしれない。
でも少なくとも、今の揺らぎを見て、無意識だということがわかった。まあこんな方法で好かれるとは思ってはいないだろうが、はっきりと言われるとは思ってもみなかったのだろう。
なあ、俺の気持ちの居場所はどこにいけばいいんだ? こいつが思ってるほど、俺の心中は穏やかではない。揺らいでるのはこいつの銃だけじゃないんだ。好きとか、嫌いとか、正直わからないけど、俺の揺らぎはもうとっくに始まってるんだ。お願いだから、嫌いにだけはさせないでくれ。
こんなことを思っているからなのか、俺はその後の言葉に、思わず息を飲んだ。
「私を好きになる必要はもうない。交換祭が行われれば殆どの確率で聖女子は交換になる。貴方はエマか鈴を選びなさい」
「は……? 条件は平等じゃないのか……?」
「最後に選ぶのはセイントだから。セイントにとって面白いと思った組み合わせにすかさず変えてくるでしょう」
急に胸が締め付けられた。
俺はてっきり、大統領選のように投票か何かで決めると思っていたんだ。確かにエマや鈴の支持率も高いが今は圧倒的にアロンが支持されている。だから意味もなく、今後もアロンが聖女子で有り続けると思っていたんだ。だからこそ驚いた。セイントが関わってくることは想定していたが、最終決定にまでセイントが関わってくるとは予想していなかった。
「早くても明日には交換祭を行うわ。今日の儀式が最後ね」
彼女は銃を腰の入れ物にしまう。にこりと明らかに作った笑みを見せ、俺の上からどいた。
「さてと、私は準備があるから、貴方はまたゆっくりしていて」
何故か彼女の興奮が治まっていた。いや、治まっているわけではないのか。
アロンの瞳が先程の乾いたものから、濡れたものになりつつあることに俺はなんとなく気付いていた。何か我慢している。隠したい何かがあって、俺をこの部屋から追い出そうとしているのが目に見えてわかった。
「なあ、どうしたんだ。交換祭をするって決めてから、様子が変だぞ?」
俺は思っていたことを素直に聞くことにした。目は口ほどに物を言う。まさにその状態だ。彼女が何か言わなくても彼女の瞳が何かを訴えかけている。
俺だって無駄に五日間過ごしていたわけではない。一番近くにいる人物を見ないわけがないんだ。しかもそれが毎日唇を合わせる相手となれば意識してないなんてただの嘘でしかない。意識して見ていたから、彼女の挙動のおかしさにも気付けるんだ。
いや、本当は意識するというレベルじゃないのかもしれない。時折見せるアロンの笑顔や、照れた表情、無防備な寝姿に、俺は何か特別なものを感じていた。彼女といれることが、俺にとってもいいことのように感じ始めていたんだ。
もっと言おう。俺はアロンに聖女子であってほしいと思っている。これが好きとか嫌いとかそんな気持ちの一つなのかはわからないけど、そう思う権利は俺にもあるはずだ。だけどそんなことエマや鈴の前で言えるわけなかった。
なんだかんだで彼女達は、彼女達の視線で俺を見ている。俺の視線では物を見ていない。至極当然のことなのだが、それが俺にとっても痛手であった。
俺の複雑な気持ちが彼女達に通じるとは思えない。
どうしたら良いのか自分でもわからない。
このことを言ってどうする? アロンを好きにならなかったら? エマや鈴を好きになったら? 俺自身そこまでわからないんだ。だから交換祭を提案された時何も言えなかった。言ってはいけないと思った。
だけど今は違う。エマも鈴もいない。目の前にいるのは今の聖女子アロンだけだ。
意見くらいは言っていいだろうか。言ったらどんな反応をするのだろうか。
俺は息を飲んだ。
「あのさ、交換祭に反対とか賛成とかはないんだ。だけどな、俺の今の本音だけ聞いてほしいんだけど」
「……何」
「俺は聖女子はアロンでいいと思ってる……いや、というかその、アロンがいいと思ってるんだ」
「……どういう意味で取ればいいのかしら?」
「それを言われると俺も困るんだ」
視線を外して、頭をかいた。人は何故、困る時につい頭をかいてしまうんだろ。そんなどうでもいいことを思いながらも俺はアロンの反応を伺った。
彼女は表情も変えず、ただ口元に手を添え何か考えている風だ。
「それは貴方が私に好意を持っているということ?」
「いや、だからそこを聞くな。頼むから」
度ストレートに聞いてきすぎなんだ。俺にだって答えられないものくらいある。
だけどこのアロンの質問には答えられたはずだ。好意がないならこんなこと言わないだろう。だからと言って即答できるようなことじゃない。
考えてもみろ。既に毎日キスする相手をアロンがいいって言ってるようなもんだ。そう考えるとかなり恥ずかしい。
アロンは俺をじっと見つめてくる。
どうする気だ。
そう思った瞬間だった。
彼女は俺の手を取り、彼女の胸元へと手を添えさせた。
「はい?!」
何してらっしゃるんですか、この方は!?
俺は裏返った声を気にかける暇もなく、みるみる体の芯から熱くなっていくのを感じた。やばい、絶対今赤面している。どうせ童貞です。ご愁傷様です俺。
「感じるかしら、私の鼓動」
「え?」
俺はぼうっとした頭の中で聞こえてきたその声に聞き返す。
鼓動?
改めて意識してみた。確かに置かれた手のひらの、柔らかいそこの奥からはトクントクンと心臓の脈を感じる。
そして気付いた。思っているよりも早いということに。
これは一体なんのフラグですか、神様。
「不思議なのよ。自分でもわからない」
アロンはそう呟いた。
何が不思議なのか、と問い詰めようとした。だけど、俺は、その前に手をどかさないといけないと、何故だかそう思った。
手を離すと、一歩後ろに下がる。そして、俺も悩んだ。
――距離感がわからなくなった。
どうやって、アロンと距離を取ればいいのか、何て声をかければいいのか、彼女が「わからない」と呟いただけで魔法にかかったかのように自分も色々なことがわからなくなった。
アロンは離れた俺を引き止めもせず、かといってその瞳は俺を離そうとはしない。
吸い込まれそうな黒く澄んだ瞳だ。先程の濁っていたものとは違うのがわかる。目というのは本当に不思議なものだ。
それだけ思って、脳が考えるのをやめた。
俺は本能に従った。彼女の腕を取り、そのまま引き寄せて、いつもの『儀式』を行った。いつもより少し早いのと、俺からしているということを除いてはいつも通りだ。
だけど何故だろうか。この五日間の中で最も貴重な物に感じた。
一度唇を離すとハッと我に返る。そしてすぐにまた脳が回り出し、言い訳を考え出す。
「儀式の回数、多い方がいいんだろ……」
信じてもいないジンクスを提示してみる。我ながら酷い言い訳だと思ったが、彼女はいつも通りの表情で「ええ」とだけ返す。
「だったら、多くした方がいいんじゃないか」
「そうね……」
調子に乗って、提示してみた案に、彼女が乗ってきたことに俺は目を丸くした。
だけどすぐに、また脳は思考を停止する。彼女が、二度目の『儀式』をしてきたからだ。
もうそこからは覚えていなかった。何度か儀式を繰り返した。その先には進んでいない。ただひたすらに繰り返しただけだった。鈴のノック音がするまでは、俺達はずっと、唇を重ねていた――




