黒猫賛歌
即興小説より転載 お題:闇の猫 制限時間:15分
やあ、来たね?地獄の世界へ。
おっと、帰り道はそっちにはないよ。自分で来たんじゃないか、覚悟を決めたまえ。
ここは幻想夢幻の世界さ。夢に囚われちまった哀しい運命の人々の『記憶』を標本にしてある。
闇の中に浮かび上がる光が見えるだろう?
そこに『記憶』が保存されて、ホルマリン漬けにされた死体のように永遠に浮かんでいるのさ。
何故それが地獄かって?
まあ、見てみれば分かるよ。
例えばこれだ。
この光の中に、一人のご婦人が見えるだろう?紫の縞の着物を着た、如何にも美しい女じゃないか。
彼女は近所でも評判の美しい未亡人だった。戦争で夫を亡くしたのさ。それでも彼女にとって夫はそれほど大事じゃなかったようだ。冒涜的だがね、彼女は夫を愛していなかったのだよ。
それでも彼女はその艶やかな美しさをいつでも何所でも撒き散らして街を歩いていたさ。一体、あの人はいつだって輝いている、恋をしているんだよ、と噂された。
じゃあ、彼女は何を愛していたかって?
それは一匹の黒猫さ。
夫と結婚するより前から、飼っていた黒猫。彼女はかの黒猫の闇のような毛並みと緑の瞳を非常に愛していた。捨て猫だったがね、一目見るなり気に入って、彼女は赤い首輪をつけて、始終黒猫と一緒にいるようになった。
猫がいると撫でまわすやら、いつまでも見つめているやら―――戦地にいる夫のことなど、ひとっつも考えずにね、愛すのだよ。
やがて女はある空想に浸るようになった。
黒猫が、真っ黒な着物を着た美しい男になり、彼女を愛する夢想を抱いたのだよ。
夜な夜な抱くその夢想は、次第に妖艶に、更に妖しくなっていったのさ。
真夜中、闇を見つめながら彼女は思い描くのさ、彼女の美しい伴侶が、闇より出でて、美しい緑色の目で見つめるのを―――
やがて彼女は黒猫を、本物の夫のように声をかけて、世話をするようになった。
周囲の者は最初は夫を亡くした悲しみからかと思っていたが、やがて不気味に思うようになった。
黒猫を黒猫として接しているのに、言葉は愛しているだの、ご飯はどうしますだの、話しかける。
異常なほど側にいる婦人を見て、異様に思う人が次第に多くなるのは必然だったろうね。
さて、ここまでならただの奇人で済むであろうね。
おかしなところは、彼女が段々に人間の男とならない黒猫に苛立ってきたところからだった。
黒猫は黒猫でしかないから仕方ないが、男となるのが幻想に留まるのはどうにももどかしい。
彼女は真剣に黒猫が男にならないか、研究したり、医者に聞いたりしたよ。もしくは、自分が猫になれないか、聞いたりもした。
まあ、当然誰もまともに取り合わなかったがね。
ある時、闇の中でいつものように婦人が自分の愛すべき伴侶―黒猫―を思い描いていると・・・
突如として、彼女は思い付いたのさ。
そうだ、この暗闇から、自分は出なければいい。
生涯、幻想から出てこなければよいのだと。
彼女は工夫して、真っ暗な部屋を造り出した。真昼でも少しも日の光りが入らない、ね。
そして、黒猫と共に過ごし、その気配を感じながら幻想に浸る日々を過ごした。
日々の耽溺・・・その末、彼女は幻想に嵌り込み、ついにそこから出てこれなくなった。
・・・え?ただの狂人の話だって?
まあ、そうかもしれないね。
だが、彼女は地獄の世界の一部となったのだよ。
・・・何故ならその黒猫は、悪魔だったのだからね。