そして勇者だけになった
バンっ。
大きな音を立てて扉が開き、一人の男が入ってきた。頑強そうな鎧を身につけ、背中には大そうな剣を担いでいる。彼はいわゆる勇者だ。
「魔王! 勝負だ!」
その男は部屋に入るなりそう叫んだ。この部屋は魔王の部屋である。つまり魔王が座しているはずなのだ。
「ま、まだ待ってくれ!」
その部屋の中央。身の丈と同じくらいの杖を一生懸命に振るっている幼い女が、勇者を見てそう言った。歳は五つくらいだろうか。
その幼女の前には黒いローブを着た男がいた。その男は勇者など居ないような素振りで幼女に怒りを向ける。
「魔王様! よそ見をしてはいけません! まだファイアーボールも完成していないのですぞ!」
「うぅ……。そう言われてもだな……。老師よ、わしもしんどいのじゃ……」
幼女は声を震わせて懸命に訴えかけるが、老師と呼ばれたその男は容赦なかった。
「まだ三十分しか経ってませんぞ! 魔王ともあろう方がそんな弱音を吐いてはいけません! さ、もう一回!」
「ふぁ、ファイヤーボー!」
「ファイアーボールです!」
「ふぁ、ふぁ、ふぁぅ……」
「しっかりなさい!」
勇者はその様子をあんぐりと口を開けて見ていた。が、すぐに我に帰って本来の目的を果たそうとする。
「お、お前が魔王か……! 勝負だ!」
勇者がそう言うと、幼女は涙目になりながら答えた。
「だからまだ待ってくれと言っておろう……。あうぅ……。わしはまだそんなに強くないのじゃ……。ふぁ、ファイヤボー!」
「ファイアーボールです!」
「あうぅ……」
「い、いやしかしだな! 俺だってすんげえ強い敵を倒したり、何日も何日も森の中を歩き回ったりしてようやくここに辿りついたんだ! 今すぐにでも魔王を倒して帰りたいんだよ! 帰ってみんなから褒められたり崇められたりしたんだ! もっと言えば、旅先で出会った女の子といちゃいちゃしたりしたいんだよ!」
「お、女か! 女だな! よし、女を連れてまいれ!」
幼女の言葉を受けて、その部屋には数人の女が連れて来られた。どれも妖艶で美しい。
「その者たちを好きにせい! ……ファイアボン!」
「ファイアーボールです!」
「あうあう……」
勇者の周りに美女が群がってきた。しかし勇者はそれだけでは満足しなかった。
「それだけじゃないっ! 美味い物を食ったり飲んだりしたいんだ! だから勝負だ! 魔王!」
「そう焦るでない! お前とて弱いものを倒したいわけではなかろう! もうちょっと強くなってからにしてくれまいか! それより飯だな! 誰か! 誰かこの者に美味い物を持って来い!」
幼女がそう言うと、またその部屋に豪華な食事がそれはもうたんまりと運ばれてきた。そのほかに、いろいろな種類の飲み物も勇者の目の前に置かれていく。
「お、おう……。確かに俺は弱いものいじめがしたいわけじゃない……。じゃ、じゃあちょっとだけ……」
勇者は幼女を尻目に食事や女を堪能し始めた。
そうして何年もの時が過ぎた。勇者は魔王の部屋で優雅な暮らしを続け、魔王は老師から魔法の訓練を受けていた。しかし一向に上達する気配がない。
「ふぁ、ファンボール!」
「ファイアーボールです! 何度言わせれば分かるのですか、魔王様!」
「うぐぅ……」
勇者はベッドの上で横になって、その様子を見ながら欠伸を一つ漏らした。
「ふぁあ……。みんな大丈夫かなあ……。いや、大丈夫だよな。魔物はいっぱい倒したし、魔王も弱そうだし」
彼はもうひと眠りすることに決めた。
「さすがは老師様だな」
魔王の部屋の隣室。そこでは勇者が欲しいと言ったものを即座に運ぶ者たちが集まっていた。もちろん魔王の手下である。
「本当だよな。勇者がここで留まっている間に魔物を増やして世界を破滅に導く。そんなの誰も思いつかないって。ところで魔王様は今どの辺りに居るのだろう」
「北の方はもう攻略したって話だぜ。だから多分南の方に居るんじゃないかな」
その頃、魔王の館の外界では阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
「勇者はまだ魔王を倒してないのか!」
「あのヤロー! 負けたんじゃないだろうな!」
「のこのこと帰ってきやがったらタダじゃおかねえからな!」
人々たちは魔物に襲われ、勇者を詰ること以外できることがなかった。
そんなことも知らない勇者は、人間たちに祝福される夢を見ていた。
老師はちらりと勇者を見てほくそ笑み、今日も自分の娘に魔法を教えるのであった。