彼と彼女
何となく書き散らしたので期待はしないように。
広い講義室があった。大きな縦型電動式スライド黒板を横に二枚重ねた大教室であり、幾つもの座席が階段状に並べられた、何処の大学でも見られる階段講義室だ。
講義室の前には大きな演台の様な教壇があり、教卓の上には古い型のプロジェクターがでんと置かれている。そして、黒板にはチョークで配布レジュメを用意しておくこと、と書き付けられていた。
講義直前の講義室という物は異様に騒がしい物だ。百以上ある講義室の座席を散らばりながら半ば以上埋めた意欲ある学生達は、講義が終わった後の遊びの事やバイトの事などで賑やかに話している。
無論、この場合での“意欲ある”とは、講師陣が学生に対する皮肉に用いる物だ。仮にどんな優秀な大学に入ろうと、入学するのは難しく、卒業するのは片手間でも出来る日本の大学であれば、中だるみを起こすのは仕方の無い事と言えよう。
彼等がやる気を発揮するのは勉学やレポートの作成よりも、遊びやバイト、異性に如何にモーションをかけるかであり、必要な事態に陥るか、そもそも勉強が好きという奇特な人間でも無い限りは興味を向けることすらしないだろう。
彼等が本腰を入れるような機会は、精々試験前の追い込みか、卒業論文作成、もしくは今後の人生を決める就職活動程度の物だ。
そんな中でも、やはり真面目な学生というのは一定数存在するものだ。文化人類学の、一部の学生がクソッくだらない昼寝の時間と称する講義であろうとも真剣に受講する、そんな学生は僅かながらも講義室にやってきている。
そんな希有な例が、二人並んで前列四段目教壇のほぼ真ん前の席に陣取り、講義の準備を済ませて講師を待っていた。
一人はどこにでも居る青年だ。中肉中背に黒髪とブラウンの瞳と黄砂色の肌、典型的な大和民族的形質を受け継いだ純生の日本人だ。
身に纏うのは地味な黒いチノパンと白いシャツ、その上に薄手のジャケットを羽織るというこれまた特徴の無いファッション。
もしも彼を探す時に特徴を聞かれたとすれば、大抵の人間ならば名前と学部、そして眼鏡を掛けていることくらいしか列挙できはしないだろう。
そんな彼は配布されたレジュメとメモ帳、そして講義のノートを取る為のB5サイズミニノートパソコンを卓上に広げている。手元には小さなボイスレコーダーも置かれており、講義を聴く準備は万事整ったという様子だ。
通路側に座る地味な彼とは対象に、その隣に座る人物は衆目を集めやすい容姿をしていると言えた。
すらりと伸びた長身に、韌で引き締まった体。手足は長くバランスが整っており、身に纏っている衣服は地味ながらも上品なロングワンピースだ。裾口がフレア状に整形されており、細身なジャケットと併せて着こなす姿は何処の令嬢であろうかと思わせる。
背の半ばにまで届く黒髪を後頭部の真ん中ほどで紐を用いて括り、前髪は鬱陶しくない程度に整え、その前髪の下に存在する鼻筋はすっと通っている。
また、年頃の女性であるというのに不思議と顔には化粧っ気は見られなかった。
だのに、ふっくらとした唇は瑞々しい桃の如く潤みを湛えて弾け、頬も紅を差したかのように血色が良い。そして、白雪の如き肌には角栓の詰まった毛穴の存在は一つとして伺えなかった。
僅かにつり上がった瞳は平静に保たれ、手に持った文庫本の紙面にじぃっと射るように固定され、唇は真一文字に固定されている。
無表情を貫き、背中に定規でも刺さっているのでは無いかと思える程整った姿勢で本を読む彼女は、正しく日本的な美人であり、雑誌の誌面でポーズを取っていたとしても何ら不思議では無い。
そんな読書を嗜む美女と、対称的に何の特徴も無い青年は一応の所の学友であり、個人的に深い付き合いのある友人でもあった。
回りから見れば眉目秀麗で折り目正しく万能な彼女は完璧に思え、その隣に座る青年は平凡すぎて不釣り合いに映るであろう。
さしずめ、流麗な彫刻に張り付いたガム、それが彼女に近づきたがる男達からの、彼に対する専らの評価だった。
だが、それは彼女の事を知らない者が抱く印象に過ぎない。一見深窓の令嬢然とした彼女の事を詳しく知る青年からすれば、思わず失笑すら漏れる程だ。
真面目な顔で読んでいる本は、マット・リンという名の海外作家が手がけた傭兵の血なまぐさい局地戦の有様を描いた戦争活劇だ。
そして、胸元に入っているiPodには、ブラックサバスやSUM41、ザ・レッドツェッペリンなどのバンドの楽曲が詰め込まれている。
彼女を知らない人間が、今彼女が読んでいたり、好んで聞く音楽の趣味を知れば、一体どんな間違いを世界が犯したのだと仰天することだろう。だが、これらの物は彼女が自らのセンスに任せ、好みで望んで選んだ物である。それは否定のしようが無い。
ゲーテの詩集でも手繰るのが似合いそうな手が好んで取る本は、戦争活劇やダークファンタジーにSF小説。好きな作家はマイケル・ムアコックにスティーブン・ハンターとロバート・A・ハインラインだ。
暇な時に形の良い耳に装着されるイヤホンが垂れ流すのはカラヤンの第九ではなく、ミクスチャーやプログレッシヴかロック系統の音楽か、希に日本国の古い軍歌や諸外国の勇ましい軍楽だ。好きなアーティストは? と問われた場合に口から飛び出すバンド名はキングクリムゾンとレッドホットチリペッパー等の海外バンドである。
そして、平静から崩れることの無い瞳が自室にて映すのはラブロマンス映画などではなく……鮮血飛び散るスプラッター映画や派手なハリウッド的なアクション物、ゾンビ映画も好みであり、尊敬する映画監督はジョージ・A・ロメロ監督だそうだ。
最近のマイブームはケーブルテレビの海外連続ドラマの視聴と城のプラモデル作成。気に入った番組はウォーキング・デッドであり、一番好きな城郭は愛媛城……外見からすれば、これらの趣味は1ngたりともそぐわないだろう。
そして、これらの趣味は隣の青年と殆ど合致する。互いにその事を知ったのは偶然の事であるが、今となっては殆ど行動を共にする相手と固定する程に趣味が合っていた。
カラオケに行って青年が流暢なイントネーションでクイーンを歌えば彼女もそれに合わせ、コーラスし、自分の時となれば派手で過激な歌詞の曲を好んで歌う。
何かお勧めの本は? と問われて差し出したり寄越されたりすれば、大抵どちらの趣味にもぴたりと当たる。
そして、示し合わせて見に行った映画では、内容の評価はさておき、視聴後の感想会は非常に盛り上がる。
つまり、彼等はごく希に巡り会うことが出来る真実の友人になれる適正を持っていた、という訳だ。皮肉にもそれが、絶世の美女と平凡な学生で、しかも異性であった、というだけの事に過ぎない。
彼がパソコンのワードソフトを開き、書式を整えてノートを取る準備を済ませた頃、講義室にスーツを着込んだ初老の男性が入ってきた。手には幾冊かの本と印刷したばかりと思しきレジュメを持っている。
よくやく講座を担当する教師がやってきたのだ。ふと腕時計に目を落とすと、時刻は既に講義開始二分前まで迫っていた。
「おい、教授が来たぞ」
教授が入ってきたにもかかわらず、彼女はそれに気付いていないかの如く紙面に視線を注ぎ続けていた。それこそ、穴でも開けるつもりか此奴はと思わせる勢いで。
そんな彼女の集中を解いて、物語の世界から引っ張り戻してやるのも、彼の習慣の一つとなっていた。どうにもこの女は小説を開き始めると、残り時間を無視して没頭しすぎる傾向にある。
「……ああ、もう講義か」
肩を揺すってやると、はっとしたように紙面から顔を上げ、鈴の鳴るような上品な声で彼女はそう言った。この声がカラオケでは専ら下品な歌詞を吐き、気が向いたらデスボイスに変貌するとは世の男性は想像すら出来ないだろう。
「折角良いところだったんだがな……」
良いながら彼女は本の表紙の辺りから顔を覗かせていた押し花の栞をさっと抜き出して、今読んでいたページに挟み込んでから鞄に閉まった。そう言いながらも授業を聞こうとする所から、彼女の生来の真面目さが伺えた。
「今日は前回の続きからであるが、配布した先週分の資料には目を通して貰っている事を前提にして話を進め……」
老教授がマイクのスイッチをおぼつかない手つきで入れてから、テンプレートの如く数度咳払いして、講義が始まった。
教授の声は講義室全体にはマイクが無ければとてもではないが響かないような声で、音響設備によって増幅されたとしても、非常に睡魔を誘う響きをしていた。ゆったりしたテンポや口調が何とも眠気を掻き立てる。
雑談が止んだ代わりに教室の空気が弛緩し始め、いそいそと何割かの学生は机の上に置いた鞄や、組んだ自分の腕に顔を埋めて身を伏せ始める。そして、残りの何割かは携帯なりを取り出して時間を潰し始めた。
注意すればいいものを、とは思うが、得てして面倒くさがり何も言わない教授というのは一定数居る物である。特に、一般教養の臨時講義ともなると特に。
別に二人はそれに関して僅かばかりの不満を覚えた事はあっても、不平を口にすることは無かった。結局、教授と言っても大学に雇われた職員なのだ。ならば、給料以上の仕事を望む必要は無いだろう。
どのみち、不真面目な学生が単位を落としても、泣くのは自分達でなければ教授でも無いのだから。
生真面目な二人は、ただひたすらに話に聞き入り、真面目にペンを走らせ、キーをタイプし続けた…………。
無数のテーブルと椅子が整然と等間隔で並べられ、カウンターで食事が饗される食堂があった。
食券を買ってカウンターに提出すれば頼んだ物が出てきて、それをテーブルまで運んで食べるセルフ方式食堂。大抵の大学で採用されている方式であり、彼等の所属する大学でもそうであった。
壁際に設えられた窓際の席に二人は座り、それぞれ好みの食事を突いていた。
カフェオレにクロワッサンとサーモンサラダ。大盛りラーメンにトッピングでチャーシューと生ニンニクを添えて。男女が席に着いているのであれば、一目でどちらが食べているか分かりやすいメニューと言えよう。
が、実体はと言うと、女がラーメンを啜っており、青年はチマチマとクロワッサンをかじりながらカフェオレを嗜んでいた。何とも外見から想像しづらい趣味である。
「次の講義は何だった?」
若干伏し目がちなアンニュイとした表情で彼女は言いながら、割り箸で煮卵を器用に半分に割り、スープの中に押し込む。後半が無ければ何とも絵になる表情であるのだが……。
彼はそれに、租税法と単純に応えると、鞄からデザートのつもりで持参していたコンビニで買ったフィナンシェを取り出す。パッケージを開けながら、講義の予定を思い出すが、確か面倒な小レポートが授業終わりに用意されていた筈だ。
「租税法か……」
言いながら彼女は箸で沈めていた煮卵の半分をすくい上げ、スープが十分絡んだ事を確認してから口に放り込む。スープの濃厚な醤油風味と、煮卵の甘みが混ざって何とも美味しい。味覚が満足して頬が僅かに緩んだが、その誤差の範囲とも言える表情の変化には殆どの人間は気づけないだろう。
「何だ、サボる気か?」
「真逆」
フィナンシェの包みを破りながら彼は彼女に問うたが、それに彼女は仄かな笑みを消して応えた。小レポートをやると言っている講義を面倒くさがってさぼる阿呆はよほどで無い限り居るまい。
「ただ、面倒だなと思っただけだ」
レンゲでスープを掬い、それを小さく啜った彼女に男は同意するべく首を縦に振った。確かに面倒臭い講義ではある。矢鱈と計算させられる上にレポートの採点が異様に厳しいと来ている。
「サボれない上に面倒ともなると、確かにやる気は無くなるだろう」
「とはいえ、二単位は大きいぞ」
裏側に張り付いていた乾燥剤を引っぺがしてから、フィナンシェにかぶりついた彼に彼女はそういう。そして、彼がフィナンシェの適度な甘みと食感に満足していると、不意にそれに手を伸ばした。
「おい、何だ」
「一口くれないか?」
「自分で買えよ」
提案を素気なく断り、彼はもう一口囓る。それに彼女は、一々買って程欲しい訳じゃ無いと言い、残った一口を彼の手からかすめ取った。文句を言う彼を無視し、彼女はそれを素早く食べきる。
「お前……」
「そう怒るなよ。変わりにこれをやろう」
そう言うと憤慨する彼に、彼女は箸でチャーシューを摘んで差し出した。
「これ、デザート。それ、オマケ」
「オマケとは何か違わないか?」
トレイに残ったフィナンシェの空袋と、箸に摘まれている脂気の少ないチャーシューを交互にさして、彼が言う。確かにオマケというより付け合わせという方が相応しいとは思うが。
しかし、それでも彼は差し出されたのでとりあえず箸の先で揺れる小ぶりなチャーシューを食べた。ぱさぱさした食感に異様に濃い味のスープが絡んでおり、あまり美味しくは無かった。
一般的には美味しいかもしれないが、青年は関西の薄味の下で育っており、その中でもかなり薄味の嗜好をしていた。父親が糖尿病を患っており、家の味付けが幼い頃から余所と比べてかなり薄いのだ。
「割に合わんな」
青年はそう言ってナプキンで口を拭うが、彼女は特に顔色を変える事も無く持参しているウェットティッシュで指先を拭った。
端から見れば恋人同士のやりとりのようにも思えるが、その間に流れる空気は全く以て甘い物では無い。どちらかと言うと気の許せる友人同士のソレだ。
「食べ終わったなら行こう。込む訳じゃ無いが、少しでも遅れるとレジュメをくれないぞ、あの教授」
若干不満そうな青年を無視し、彼女は立ち上がった。束ねられた黒髪が僅かに広がり、蛍光灯の安っぽい灯りを反射して、見る者を惚けさせるほど艶やかな光を放った。
青年は特に何も応えず、ゴミをトレイの上に片付けてから立ち上がり、荷物を詰め込んだバックパックを軽く担ぐ。
「つってもまだ二〇分以上あるがね」
「早い事行って損は無いぞ。あの教室昼食を摂りに来る学生少ないし」
「お前は単に本が読みたいだけだろうが」
二人並んでトレイを手に、人で一杯の食堂を歩いて返却カウンターにまで戻る。回りから見たら不釣り合いに見える二人だが、気負う事無く互いに自然体で付き合う間柄というのは何よりも貴重な物だ。
一見似合わないように見えて、何より似合いの二人は互いの事を全く意識しないまま、次の講義へと向かっていった…………。
ね? オチも山も無かったでしょう? すいません、自慢気に言うべき事じゃ無いですね。でも、何となくで書いた物はこんなものです。私には文才はありません。
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