岩倉 終戦の日(2)
岩倉 終戦の日(2)
昭和20年も明け寒い日が続いた、あいもかわらぬ「警戒警報」ついで「空襲警報」のサイレンがけたたましくあちこちで鳴り知らせる、急いで畑へと走る。
麦畑に隠れるが何も起こらない、名古屋市内の方面で黒煙が上がるがこちらは田舎、いつものパターンで「解除」のサイレンが鳴る前に工場へそれぞれが帰ってくる。
畑へ逃げるたび、トマト、キュウリ、瓜、サツマイモを取るので近隣農家からの苦情が絶えることはなかった。
暑い、全く暑い8月9日私は一週間の公休をもらって浜松へ帰ったが浜松も艦砲射撃でめちゃめちゃで町の姿もない、禄にない帰りの汽車にやっと乗って14日岩倉へ帰った。
「明日午後0時15分に天皇陛下の玉音放送がある」
と井出寮長からの指示があった、「戦争が厳しいからもっと頑張れ」とでもゆう天皇陛下のお声が放送されるのだと周囲が話す、谷口さんは云う「日本が負けた、その勅旨の放送だ」と、まさかとは思うが、今日午後2時頃グラマンが超低空飛行で「日本がポッダム宣言受諾した」
とゆうとんでもない厚い白い紙のビラが雨あられのように空から降ってきた。
空襲警報中だったので5枚も拾った、そこえサーベルを下げた巡査が来て「そのビラはデマだ、拾うな毒が紙につけてある」と大声で拾い集めていた。
毒がつけてあるの一言でみんなビラから手を放した。
「もうみなさんは空襲の心配はありません」
とも書いてあった、絵も裏面にあった、がすぐ巡査が全部集めていった。
そして15日0時15分
玉音放送
雑音で聞き取りにくいが戦争は終わったとゆうことだ、「ポッダム宣言」が何者なのか判らないが戦争は終わったと聞いてホットした、正直ホットした。
ちょうど3台目のリンドナーを貨車に積み込みが終わった時だった。
今から岐阜郡上八幡の山中へ3台のリンドナーと私達5人が疎開するとゆう日であった。
しかしその翌日から仕事が止まった。
女が危ない、男はどこかえ連れて行かれるなどいろいろ噂が飛ぶ、巡査は叫んでいた「日本はまだ負けていないデマだ」と。
しかし誰もそれお信じない、以外冷静だった。