名古屋城が焼けた
名古屋城が焼けた()
何回目かの夜間空襲で私の目から(岩倉)見ると東南方面で火の手が爆音とともに上がった。
「あれは名古屋城だ」
と誰かがゆう、そうだ名古屋城だのあいずちがでる、「何でだ」と悲嘆ともゆう叫びこえまで湧き上がった。
「名古屋城は不滅で焼夷弾では焼けない」
と、誰もの名古屋市民が信じていた、灯色の中にくっきりと名古屋城のシャチ2頭とともにシルエットが浮かぶ。
誰もがもう悲鳴だった。
「名古屋城が焼けた」夜が明けるまで名古屋城炎上は続いた。
夜勤だった私は岩倉から枇杷島までの電車に朝早くに乗った、その先雁道までは市電が不通だから歩かなければ行けない。
枇杷島橋―日置方面―中門前町から運河沿いに
南へ向かう、11時頃だった、---兆で匂いの臭さに癖癖だった、川のなかに馬の死体が強ばって浮いている、男、女、大人、子供の死体も浮いていた「何とゆう光景か」真っ黒な川水とともに100m位その光景は続いていた。
当然だが見えるはずの名古屋城もない周囲すべてが焼け野原だった。
これで名古屋市内中心地はすべて焼きついていた、泥江町から始まって今見る光景は想像もつかない光景だ。
船原の我が家に辿りついたのは午後2時頃だった。
まだ多くの住宅が残っていた雁道、船原、御剣町の家々があっちこちで焼け野原になった、我が家でも又とんでもない事件が起こっていた。
それは次回で。