小牧飛行場の勤労奉仕
小牧飛行場(2)
とてつもない広さ、とてつもない荒地だった小牧はここえ飛行場を作ると聞かされてどうやって飛行場ができるのだろうと驚いた。
1週間毎日通った。
老松から1・2年生が4列隊列で徒歩で行く、私はラッパ手で、6人で最前列で意気揚々と行進ラッパを3人交代で進軍する、当時行き交うものは人か馬位で千種を通って小牧までどの位の時間、多分2時間位の所要時間だろう、何度か行進を休みながら行く、先頭の私たちは後の生徒より多く休みが取れた、とゆうのは私達先頭が止まると最後尾が止まって休むまでの時間が余分の休み時間になった。
一番前は副校長だった記憶がある。
小牧につくのは10時前位であの駄駄っ広い小牧につくと子高い山はツルハシで、その土はスコップ班で慣らす、此処え飛行場が出来るとはとても思えない、しかも我々がその飛行場を作っているのだと思っただけで何かワクワクするものがあった、昼は「飯」がドンブリ一杯の麦入り飯でおかずは少々の「福神漬け」で汁も一緒に飯へ駆け水で薄めてしゃきしゃき急いで食う、そして4時、集合ラッパの合図で集まり行進で帰る。
一週間毎日全校生で勤労奉仕だった。
週末ころ或る噂がたった。
「飯場の朝鮮人がサンバを食った」
と、ゆうものだった。
しかしこの噂は戦後「ニワトリを三羽食った」
とゆう聞き違えでおきたとんでもない噂話だったことが新聞にでたとゆう話も聞いた。