大須演芸場
大須演芸場
「大須」の言葉の響きは名古屋人には心地よく通じる遊び場である。
観音様と映画館、演芸場、飲み屋、飲食店どちらも遊びの必需でここえ来れば何でもある場でもあった。
私が5歳の時名古屋駅新築のため一家が東京からやってきて日置に住んだのは昭和9年だった。
大酒飲みの父親だったので飲み屋街の大須へ行くとゆう父に一緒についていけと、母が私をついていかせるのだが、大須の観音さま裏街で馴染みの飲み屋の下で、そこの女将と遊ぶんで二階へ行った父を待つ。
帰りは午前様だ、大須から日置まで歩くのだが途中父は酔っぱらっていて大手を広げて市電を止める、「馬鹿野郎・・・」と運転手に怒鳴られる、大泣きしている私などいっこうにかまわず又市電を止める。
12年名古屋駅が完成とともに船原2丁目へ移り住んだ。
大須には思い出がまだある。
大須大門通り鳥居脇にあった大須演芸場だ、ここに「かわべきみを」一座が一週間ごとに演目をかえて上演していた、19歳の私はシナリオ作家になりたい一心で、ここえ通った。
近視だった私は一番前の席を取る、下手から役者が出てくると、塗りたくった白粉の匂いと焼き魚の匂いがプーンとする、これが又程よい香りととらえた。
涙あり、笑いありの定番演目に一度はかわべきみをに弟子入りまで考えたこともあった。
大須中市場横の「泉亭」へ数百人の応募者のなかから私はバーテンとして採用された。
ここでの日課は北区からアイスクリームを自転車で2カートン運ぶことだった、重いが以外に楽しかった。;
夜は支配人、副支配人と麻雀を打つことだった、毎夜停電するので4角へ長いローソクを立てて明かりの代用にするが朝方どの顔を見ても黒く特に鼻の孔は真っ黒でお互い笑いの種だった。
麻雀も戦時中に覚えていたのでここではお互いの意思疎通に役立った。
ここも、当時東宝の重役だった小林氏の彼女だったとゆう喫茶店経営者に引き抜かれ、映画館と映画館に挟まれた小さな喫茶店へ移った。
まだまだ続きます。
読んでください。