日本初空襲
まえがき
戦後から60数余年、当時の貧乏と食生活の貧困は、いつまでも語り草として言い伝えなければならないと思う。
誰もが貧困と闘っていた、それは言い伝えられなければいけないと思う。
名古屋日本初空襲 (1)
アメリカの日本本土初空襲は名古屋市内で昭和17年4月30日午後12時30分頃だと記憶している。
私は名古屋第一工の2年生になったばかりでした、授業が午前で終わり帰宅途中だった。
堀田行きの市電に乗るため鶴舞公園前停留所に立っていた、異様な飛行機の飛ぶ音でまぶしい空を見た、双胴機が一機ゆうゆうと北から南へ飛んでいた、多くの市民に何の変化もなく通行人でも空を見るわけでもない日常だった。
「日本にもロッキードP38に似た飛行機が出来たのだ」、と思った瞬間、鶴舞公園の公会堂あたりから「カーン、カーン、カーン」と音がする、初めて高射砲の発射音を聞いた、同時に「空襲警報」のサイレンが鳴る、あたりにズボ、ズボと飛行機の下で爆裂音、「やはりあれはP38だと思った、足元へカラカラと高射砲弾の破片が足元へ落ちてくる、拾って帰ろうと思い拾ってみたが火傷しそうに熱くやめた、トゲトゲだった。P38は南方へ飛んで行った。空襲警報下だとゆうのに電車内では空襲の話題はなく、雁道で私は降りた、西方向で黒煙がもうもうとあがっている、駐在所のおまわりさんの腰のサーベルがガチャガチャと忙しそうに高蔵砲兵工廠のほうへ走って行った。工廠へP38の落として行った爆弾は一発だった、がP38は中国へ帰る途中日本の占領下の飛行場に降りて殺されたが戦後戦犯裁判にかけられた事を戦後知った。
名古屋日本初空襲 (1)
アメリカの日本本土初空襲は名古屋市内で昭和17年4月30日午後12時30分頃だと記憶している。
私は名古屋第一工の2年生になったばかりでした、授業が午前で終わり帰宅途中だった。
堀田行きの市電に乗るため鶴舞公園前停留所に立っていた、異様な飛行機の飛ぶ音でまぶしい空を見た、双胴機が一機ゆうゆうと北から南へ飛んでいた、多くの市民に何の変化もなく通行人でも空を見るわけでもない日常だった。
「日本にもロッキードP38に似た飛行機が出来たのだ」、と思った瞬間、鶴舞公園の公会堂あたりから「カーン、カーン、カーン」と音がする、初めて高射砲の発射音を聞いた、同時に「空襲警報」のサイレンが鳴る、あたりにズボ、ズボと飛行機の下で爆裂音、「やはりあれはP38だと思った、足元へカラカラと高射砲弾の破片が足元へ落ちてくる、拾って帰ろうと思い拾ってみたが火傷しそうに熱くやめた、トゲトゲだった。P38は南方へ飛んで行った。空襲警報下だとゆうのに電車内では空襲の話題はなく、雁道で私は降りた、西方向で黒煙がもうもうとあがっている、駐在所のおまわりさんの腰のサーベルがガチャガチャと忙しそうに高蔵砲兵工廠のほうへ走って行った。工廠へP38の落として行った爆弾は一発だった、がP38は中国へ帰る途中日本の占領下の飛行場に降りて殺されたが戦後戦犯裁判にかけられた事を戦後知った。
名古屋日本初空襲 (1)
アメリカの日本本土初空襲は名古屋市内で昭和17年4月30日午後12時30分頃だと記憶している。
私は名古屋第一工の2年生になったばかりでした、授業が午前で終わり帰宅途中だった。
堀田行きの市電に乗るため鶴舞公園前停留所に立っていた、異様な飛行機の飛ぶ音でまぶしい空を見た、双胴機が一機ゆうゆうと北から南へ飛んでいた、多くの市民に何の変化もなく通行人でも空を見るわけでもない日常だった。
「日本にもロッキードP38に似た飛行機が出来たのだ」、と思った瞬間、鶴舞公園の公会堂あたりから「カーン、カーン、カーン」と音がする、初めて高射砲の発射音を聞いた、同時に「空襲警報」のサイレンが鳴る、あたりにズボ、ズボと飛行機の下で爆裂音、「やはりあれはP38だと思った、足元へカラカラと高射砲弾の破片が足元へ落ちてくる、拾って帰ろうと思い拾ってみたが火傷しそうに熱くやめた、トゲトゲだった。P38は南方へ飛んで行った。空襲警報下だとゆうのに電車内では空襲の話題はなく、雁道で私は降りた、西方向で黒煙がもうもうとあがっている、駐在所のおまわりさんの腰のサーベルがガチャガチャと忙しそうに高蔵砲兵工廠のほうへ走って行った。工廠へP38の落として行った爆弾は一発だった、がP38は中国へ帰る途中日本の占領下の飛行場に降りて殺されたが戦後戦犯裁判にかけられた事を戦後知った。