ハイボールに沈む月〜第二幕〜
もともと、私達家族は4人だった。
けれど、私の12回目の誕生日を迎えた7月に、ケーキを買いに行くと言ったきりパパが姿を消し行方知れずとなった。
その日、パパがケーキを買いに行くと言って出て行ったのにも関わらず、ママは冷蔵庫にケーキを準備していて、パパの帰りを待つことなくささやかな私の誕生会は開催された。
パパの居ない誕生会は不思議なほどに至って普通で、結局私は「どうしてパパは帰って来ないの?」という質問をする機会を永遠に失ってしまった。
12本並べた蝋燭を一気に吹き消して目を瞑る。
あの日、パパが行方をくらますことをママは前々から知っていたんじゃないかと思う時がある。
ママの買ってきたケーキの味は覚えていないけど時折、指先を見つめているとひんやりと冷たい生クリームの感触が蘇ってくる。
私のささやかな誕生会から2ヵ月後の九月に突然パパは姿を現した。
見たことも無い女の腕に自身の腕を絡ませながら。
私の生涯と昨日までの小遣いをかけて言えるが、あの日のことは決して忘れない。
その瞬間、世界中のパパと区分される人間が、所詮は一人の「男」であることを知った。
パパの連れてきた娼婦のような格好の女は、「手切れ金」とやらをママに叩きつけ、高笑いをしながら酒臭そうな息を吐いた。
女が紙幣を叩きつけた瞬間、紙であるはずの紙幣が瞬間的に刃物と化し、ママの頬をスパっと切りつけた。
斜めに切れた傷口からゆったりと血が垂れる。
それはまるで、ビデオのスローモーションのように滑らかで繊細で、そして何よりも鮮明な赤色をしていた。
魅力的でグロテスクな美しさに息が止まりかけた。
ママはいつも以上に冷静に淡々とした口調で二人に向かって喋っていた。
ママの言葉1つ1つが聞いてはいけない呪文のような気がして、私は両手で耳を覆い「ああぁぁぁぁ」と奇声を発し音で音を掻き消した。
自分の声だけが耳の奥に異様に響く世界観の中で、目玉だけをぎょろぎょろと動かす感覚に気味悪さを覚えた。
丁度その時、出かけ先からしずくが戻って来た。
相変わらずマイペースというか漂々としていて、鼻歌を歌いながら緊迫感漂う玄関をすり抜けてリビングへと向かっていく。
パパの視線は、しずくが3人の間をいとも簡単にすり抜けパパに背を向けるその時まで、ずっと追っていたのだけど、しずくの目には一切パパが映っていないようだった。
その時、パパが少しだけ寂しそうな顔をしていた事を私は今でも忘れられずにいる。
そして、耳を覆い奇声を発する私の指先をパパの大きな掌が包み込んだ感触も。
急に現実味のある声が耳の奥底まで響いてきて、目の前がクラクラした。
「真琴、ごめんな。」
2ヶ月ぶりに耳にする懐かしい音階。
鼻の奥が急に熱くなり、唇を噛み締めていないと今にも涙が零れ落ちそうだった。
きっと・・・、きっと。
私は、パパが大好きだったのだと思う。
パパと女が騒々しく出て行った玄関から、オレンジ色の光の筋が断ち切られた。
ドアが閉まると急に玄関が色を無くし、目の前に散乱する紙幣だけが妙な現実味を帯びていた。
薄暗い玄関で四方に落ちているお金を膝を付き広い集めるママの後姿が、私には情けなく思えて思わず目を伏せた。
散らばったお金を1枚残らず全て拾い集めると、ママは膝の砂埃を払いながら、
「今夜はあんた達が食べたいものをとるわ。」と微笑み、リビングへと歩いていく。
私は1人、玄関に取り残され涙で滲みはじめたドアノブを唇を噛み締めて見つめていた。
「ねぇ、ねぇ!マコちゃん、何食べたぁ〜い?」
しずくの声にも振り向く事が出来ない。
昔、鉄棒から落ちて唇を切った時、その時の味がじわじわと口内に広がっていく。
頭の中でパパの言葉がエンドレスに再生される。
女が撒き散らしたお金でご飯を食べるなんてイヤ。
それ以上に嫌だったのは、いつもと変わらない2人の態度。
パパがいてもいなくても同じ、そんなの嘘に決まってる―。
「ねぇってばぁ〜。マコちゃん何食べたいのぅ??」
背後からしずくの細い腕が急に私の鎖骨付近へと伸びてきて、私の涙で濡れた頬を拭った。
「大好きよ、泣き虫マコちゃん。チューしたげる」
小さい頃から、何かにつけてしずくはチューしたがるんだ。
後頭部にしずくの唇がぶつかった瞬間、ママの声がリビングから響いた。
「お寿司頼もうか?トロとかイクラとか、豪華なやつ。」
しずくの2度目の歓声と共に私も玄関に背を向けた。
パパはもう帰って来ない―。
その日、あれほど抵抗しておきながら、結局は寿司としずくが追加注文したピザを3人で美味しく食した。
ママとしずくは少しだけお酒を飲んで、私も少しだけお酒を飲んだ。
お酒は美味しくなかったけど、頭がクラクラして今日一日の出来事が全て夢なんじゃないかと思えて、笑いがこみ上げた。
そう、今日一日の出来事が全部夢ならば・・・。
どんなお金でも所詮はお金であることに変わりはなく、美味しいものはどんな時も美味しいことに変わりはない。
私達家族が4人から3人に変わり、男のいない生活が始まろうとしていた。
私は、12歳と2ヵ月だった。