第8話
アリサが目を覚ますと、辺りはもう薄暗くなっていた。
かなり深い眠りについていたようだ。
十分に休んだせいか、体調はすっきりしている。
「起きなきゃ…。」
ベッドから体を起こそうとすると、布団にずっしりとした重みを感じる。
何だろうと、横を見てみる。
「あ…兄さま……。」
横には、レイがまだ座っていて、そのままアリサの布団にもたれて眠っていた。
「ずっと居てくれたのね…。」
レイがうたた寝をするなど珍しい。
よほど疲れているのか、アリサが起き上がっても、目を閉じたままだった。
髪が顔にかかっているので、アリサはよけてあげた。
レイの髪はブロンドのさらさらした髪で、さわり心地がよい。
眠っているレイがなんだか可愛く思えて、アリサはそっと頭を撫でてみた。
レイに頭を撫でられることはしょっちゅうあるが、
アリサがレイの頭を撫でたことはなかった。
なんだか、自分が姉になった気分だ。
「よしよし、いい子いい子…。」
「…誰が、いい子だ。」
「あ…。」
眠っていると思っていたが、どうやら起きてしまったらしい。
顔は上げていないが、さっきまで伏せていた目が開いていた。
「いえ、なんだか寝ている兄さまが、可愛くて。」
「アリサ、良い歳した男に可愛いはないだろ…。」
確かにレイの言う通りだ。
「そうですね。兄さまは可愛いんじゃなくて、格好良いわ。」
「……。」
せっかく褒めたのに、レイは無言のままだ。
「兄さま?」
「…頭。」
「え?」
「もっと撫でて?」
上目遣いで、アリサを誘うように要求する。
妙に色っぽい表情で、妖艶な雰囲気が醸し出されている。
なぜか、アリサは顔が熱くなった。
“兄さまが、そんな顔するからだわ…”
実の兄に対して照れてしまう。
そのことを気付かれたくなくて、アリサは誤魔化す。
「…っもう、兄さまはいい歳して甘えん坊なんだからっ。」
「いつも、お前には俺に甘えさせてやってるんだから、
たまには逆に、甘えさせてくれてもいいだろう?」
「はいはい。仕方ないわね。優しい妹がなでなでして差し上げるわ。」
アリサはレイの頭を撫でる。
“本当、男の人とは思えないぐらい奇麗な髪だわ…”
アリサはブラウンの髪で、少しウェーブがかっているので、
ストレートのさらさらした兄の髪には憧れる。
「兄さまは、大きなネコってかんじ。」
「…今度はネコ扱いか。」
アリサはレイのネコの姿を想像して、笑う。
「餌付けしなきゃ。」
「飼いならしてみる?」
「いたずらしそうだから、やっぱり止めておくわ。」
レイと笑い合う。
こんなくだらない冗談にも付き合ってくれる兄が、アリサは好きだ。
「こうして誰かに頭を撫でてもらったことなんてない気がするな…。」
アリサが、レイの頭を撫でていると、
レイは薄く目を開いてそんなことを言った。
「父さまや母さまにされたことはあるでしょう?」
アリサも子供の頃はよく撫でてもらっていた。
「ない。」
「…一度も?」
アリサを撫でていたぐらいだから、兄のレイも当然あるとは思うが…。
「ないな。」
「どうして…。」
「褒められたことなどなかったからじゃないか?」
レイの言葉にアリサは驚く。
昔からレイは優秀で、パブリックスクールも首席で卒業し、
その後も一流大学へ進学し、こちらも首席で卒業したほどだ。
そのレイが今まで、一度も両親に褒められたことがないなど、
信じられない。
「私なんて比べられないぐらい、兄さまの方が優秀だったわ…。
それなのに…」
「この家の長男は出来て当たり前だからな。
名門一家の跡取りが出来の悪い人間であるなど、あり得ないことだ。
当たり前の役割をこなしても、いちいち褒めて頭を撫でたりなどしない。」
褒められもしないのに、それでやりがいを感じられていたのだろうか。
いや……。
生きがいを感じられていたのだろうか……?
「兄さまは、それでよかったのですか?
父さまと母さまに褒めてもらわなくても……。」
子供というのは、大抵が褒められた嬉しさを糧に努力するはずだ。
「別に。俺もそんなのは望んでなかったし。
生まれた時から、俺がすること…義務なんだから、なんとも思わなかった。」
アリサは、ずっと自分は可哀想だと思っていた。
身体が弱くて、外にも出られないなんて…と……。
だから、ずっと兄が羨ましかった。
自由に外に出られて、学校に行けて、この家の役に立っていることが、
羨ましかったのだ。
両親がレイに期待を持っているのも知っていたから、
役に立てない自分は必要のない存在だと思っていた。
でも、違った…。
レイはただ単に、義務を全うしていただけで、自由などではなかったのだ…。
“本当に可哀想だったのは、兄さまの方だった…。”
アリサは、身体が弱いこともあって、皆から優しくしてもらっていた。
だから、皆の愛情に満ち溢れていた。
それが当然であると思っていた自分がとても恥ずかしい。
“兄さまが、父さまと母さまとあまり仲良くないのは、そのせい…?”
「…アリサが気にすることじゃない。
俺も気にしていないんだから、それでいいんだよ。」
ベッドにもたれていた体を起こして、微笑む。
「それに…俺にはお前が居てくれたから。」
「兄さま…。」
レイは座っていた椅子から立ち上がり、アリサの頭を撫でた。
「お前の存在が、俺を支えてくれていたんだ…。
愛してるよ、アリサ…。」
苦しい胸の内を吐きだすような言葉だった。
「ええ。私も兄さまを愛してるわ。」
そうアリサが返すと、レイは「…ありがとう」と言い、
部屋から出て行った。
レイは、アリサの部屋の扉を閉めると、ドアに寄り掛かる。
「…今はそれでいい。」