第7話
母が居なくなってから、アリサは刺繍をするのを止め、
窓から外を眺めていた。
空を流れる雲を目で追っていると、中庭が視界に入る。
「あ…。いけない。今日はまだ花に水やりをしていないわ。」
いつもは朝食後に水やりを行うが、今日は体調がよくなかったので、
後でしようと思っていたのを思い出す。
「また忘れないうちに、水をあげないと。」
部屋を出て、中庭へと向かう。
外に行く時は、必ず誰かと一緒にいるようにとレイに言われていたが、
水やりをするだけだから、誰かに声をかけなくてもいいだろう。
皆自分の仕事で忙しいだろうに、いちいちこんなことで人を呼ぶのは、
どうしても気が引けてしまう…。
一通り水をやり終える。
「そうだわ、イカリソウにも水をあげた方がいいわね。」
レイは、あまり気を使わなくてもいいと言っていたが、
せっかっく奇麗に咲いてるのだから、少しでも長く持つように、
こちらにも水をあげたほうがいいだろう。
イカリソウが咲いている地面を触ってみると、土が乾いていた。
「やっぱり、あげた方がいいみたい。」
水をやっていると、アリサはその独特な花だけではなく、
葉にも独自の美しさがあることに気付いた。
特異的な形をしている花に目がいってしまうが、
それも、葉が花を引き立つようにしているからなのだろう。
「イカリソウの花言葉って何なのかしら…?」
可憐な花だから、きっとロマンチックな花言葉に違いないと思っていると、
急に息苦しさを感じる。
「……っ。」
胸が締め付けられるような苦しさだ。
アリサは、心臓に疾患があるようで、時々発作が起きる。
だが、今回の発作はいつもよりも苦しみが強い…。
「はぁっ…。とにかく、屋敷に戻らないと……。」
そう思うが、動こうとすると余計に苦しい。
だんだんと、息が上がってきて、その場に膝をついてしまう。
「…っ苦しい………。」
あまりの苦痛に、とうとう意識が薄れ、倒れた………。
このまま死んでしまうのだろうか。
もしそうなら、自分の人生はちっぽけであっけない終わりだ。
外の世界を知らないまま、限られた空間でしか生きられなかった…。
“私が死んでしまったら、悲しんでくれるかしら…”
父と母は泣いてくれるだろうか?
兄のレイは…?
一番近い存在だった人だ。
傍に居るのが、当たり前で離れることなんて考えたことなかった…。
“手があたたかい…”
誰かが、手を握ってくれているようだ。
冷えているわけでもないのに、体中に温もりが広がっていく…。
うっすらと目を開けると、見なれた天井が目の前に見えた。
ここは、自分の部屋だ。
どうやら、まだ自分は生きているようだとアリサは思った。
「アリサ?気が付いたか?」
近くで、声がする。
「よかった…。」
「兄さま…。」
レイが枕元に座って、アリサの顔を覗いていた。
そして、しっかりと手を握ってくれている。
「この手の温もりは、兄さまのだったのね…。」
「俺が2時間ぐらい前に外出先から帰ってきたら、お前が倒れたと聞いてな…。
心配で、ずっと見ていたんだ。」
ということは、レイは2時間以上はずっとアリサの傍に居てくれたのだろう。
「心配かけてごめんなさい、兄さま。」
「まったく…。俺にこんなにも心配を掛けさせるのはお前だけだよ…。
お前のための心配なら、いくらでもしてやるから気にするな。」
レイはアリサを慈しむように微笑んだ。
いつでも、こうしてレイはアリサのことを想ってくれている。
しかしそれも、後少しの間だろう。
レイが結婚したら、そうそうアリサに構ってはいられない。
今のうちだけだ…。
「目が覚める前に、兄さまのことを考えていたわ…。」
「俺のこと?」
「ええ。もし、私が死んでしまったら、兄さまは悲しむかなって…。」
「アリサ…。」
「兄妹でも、離れる時は必ずくるのよね…。いつまでも一緒には居られない。
現に、兄さまはもう結婚されるのでしょう?」
結婚すればたちまち、レイは家を出て、新居に引っ越すことだろう。
「やっぱり、前に言ったように早く兄離れしないといけないわね。」
心配を掛けて頼りっぱなしでは、だめだ。
離れても、家族であり、兄妹であることに変わりない。
この絆はずっと続くものなのだから、心細く思う必要などないのだ。
アリサの手を握るレイの手に力が入る。
痛くはないが、どこかレイの必死さが伝わるような感じがした。
「お前を置いて、どこにも行かない…。ずっと傍に居てやる。
離れられるわけないんだ……。」
レイは握っていた手をそっと持ち上げて、指先に口づける。
「俺にとって、お前以外に大切なものも必要なものもない。」
口づけたままのアリサの指を、自分の指に絡め取った。
レイはまるで獲物を見つけた獣のように、アリサを見据える。
アリサは、レイのあまりにも真摯なその視線に恐怖すら感じた。
兄は、前からこんな目をしていただろうか…?
レイの目を見つめるアリサに、レイは手を当ててアリサの視界を遮った。
「もう少し休め…。おやすみ、アリサ…。」
不安を感じたままなのに、レイに導かれるようにアリサは再び眠りについた……。