第21話
アリサは部屋の前までくると、中にいる人物を気遣うように、
控えめにドアをコンコンとノックした。
「アリサです。母さま、身体のお加減はどう…?」
「……………。」
問いかけに返事は返ってこない。
それどころか、物音一つさえ聞こえない。
この部屋には本当にあの元気で明るい人がいるのだろうかと思うぐらい、
しんと静まり返っている。
「母さま…。」
つぶやくようなこの小さな呼びかけにも、やはり返事はない。
アリサは息を一つ吐いて、「また来ますね…。」と
扉の向こうに言葉を残して、その場を後にした。
こんな状態になって、もう何日が過ぎただろうか…。
明らかに母はおかしくなった。
父が亡くなったあの日から……。
パーティー会場で、父の死を目の当たりにした母はひどく混乱して、
体調を崩したため、ずっと自室で療養をしている。
それから、一度も部屋からは出ない。
もちろん、父の葬儀にも参加しなかった。
母にとって父の死は本当に辛いことだったのだろう。
ずっと連れ添ってきた伴侶が突然いなくなれば、ふさぎ込みたくもなる。
でも、母には以前のような明るさを取り戻してほしいと思う。
アリサも父が亡くなった直後は日々、悲しみにくれていたが、
今はいくぶん冷静さを取り戻しつつある。
きっといつまでも悲しんでいたら、天国で父が心配するだろうから…。
「…花に水やりをしないと。」
気をまぎらわせるために、庭へ出る。
いつもと変わらず庭に咲いている花々は生き生きとしている。
父が亡くなってから慌ただしくて花にかまっている余裕さえなかった。
しかし、こうして変わっていないところをみると、
屋敷のメイドが手入れをしてくれていたのだろう。
自分にできる仕事といえば花の手入れぐらいだというのに、
その仕事を自分よりも忙しかったであろうメイドにさせるとは情けない。
「…せめて自分のことは自分でしなければいけないわね。」
水を汲んで持ってきたじょうろを傾けて花に水を与える。
こうしているといつもと変わらない日常がそこにあるように思えた。
しばらく物思いにふけっていると、視界の端に赤紫と白の花が目に入った。
「イカリソウ…。」
ただでさえ目立たないところに咲いているので、危うく忘れるところであった。
聞いた話によると水はあまりやらなくていいらしいが、
ここ数日は晴天の日が続いて乾燥しているので少しやっておいたほうがいいかもしれない。
近くまでくると最後にイカリソウを見た時よりも、咲いている花の数が増えていた。
「水をあげていなくても、自分で頑張って咲くのね。」
しゃがんで土を触ってみるとやっぱり土が乾いていたのでしめらす程度に水をまく。
「これで、しばらくは水は大丈夫かな。」
相変わらず控えめに咲く花をじっと見つめる。
一見すると地味で目立たない花だが、近くでみると実に愛らしく感じる。
“こうやって、木陰にひっそりと咲いていたら、誰にも気づかれないんじゃないか…”
イカリソウを見ていると、ふと以前にレイが言っていた言葉を思い出す。
あの時のレイはどこか物憂げで、寂しそうな顔をしていた。
どうしてあんなことを言ったのだろうか?
この花を植えたのはレイだった。
野生では樹木の下に咲くから、庭の木陰であるこの場所へ植えたのだと言っていた。
でも、木陰ができるような木ならこんな庭の隅の木ではなくても、
花壇の近くにもたくさんあるはずだ。
だけどこの人目につきにくい場所へと植えた。
ここでなければいけない理由があるのだろうか…?
“なぜ今こんなことが気になるのかしら…?”
普通に考えても実にどうでもいいことだと思う。
レイがここへ植えたのもたまたまだったのだろうと容易に考えられるが、
どうしてもレイのあの言葉と表情が気になる。
それに、アリサのために植えたと言っていたのに、
植えたことをアリサが気付くまで教えなかったことも少し気になった。
“兄さまはイカリソウが咲いていることを私に気付いて欲しかったとか?”
そう考えてみても自分の中で納得のいく答えが出てこない。
思えば、最近、よく答えが見つからない不可解な疑問が多い。
父の死の真相についてもそうだが、
レイに対しても何かいつもとは違うようなものを感じているのに、それが何かわからない。
いつも一緒にいる兄のことなら知らないことなどないと思っていたのに、
今はわからないことだらけだ。
“気付かないうちに、私達の間には少し溝ができてしまったの…?”
いつまでも無邪気な子供のような関係ではいられないということなのかもしれない。
静かに吹く風が、アリサの髪とイカリソウを揺らす。