第10話
夜になると静けさが増す屋敷だが、
これから訪れる客人を迎える準備のため使用人達が忙しそうにしている。
名家であるこの家にとって、客人に失礼なことがないように、
最高のもてなしを完璧にしなければならない。
それが、跡継ぎで長男の婚約者なら、なおさらのこと。
アリサは、ディナーにふさわしい格好をして、
食事をすることだけが自分に与えられた役目なので、
レイの婚約者が来るまでは何もすることがない。
手持無沙汰で、メイド達に何かすることはないかと聞いたが、
「アリサさまは、応接室で待機してください」と言われたので、
仕方なく、応接室でお茶を飲みながら待機している状態だ。
「張り切って早く用意してしまったわね…。」
他の家族は今、支度をしているらしい。
準備が遅れるよりはいいかと思い、アリサはソファーでくつろいでいると、
応接室のドアが開いた。
「あっ、兄さま。」
「なんだ、もう支度が済んでいたのか。早いな。」
レイはドアを閉めて、アリサの向かいにあるソファーに腰掛ける。
イブニングコートに身を包んだレイは、いつもよりも大人に見えた。
「新しいものを仕立てられたんですね。よくお似合いです。」
「俺は別に今あるものでもいいと言ったんだが、母さんがうるさくてな…。」
「婚約者の方とお食事するんですから、母さまも気を使いますよ。」
名家の息子が適当な服を着るわけにもいかないだろう。
母がうるさく言うのも仕方がない。
「たかが食事をするだけで、一体何を張り切っているんだか…。」
「兄さまは婚約者の方とお食事するのに、楽しみではないのですか?」
先程から、レイは機嫌が悪そうだった。
「全然。パーティーでしょっちゅう顔を合わせているのに、
わざわざ食事会なんてしなくてもいいだろ。」
鬱陶しそうに髪をかき上げる。
せっかく奇麗にセットされていた髪が乱れてしまった。
「そういうものなんですか…?」
自分の婚約者が家に来てくれるのだから、
もっと嬉しいものではないかとアリサは思う。
“好きな人とは、時間を惜しんでもいつも一緒に居たい”と、
前に読んだ恋愛小説にも書いてあった。
レイを見る限りでは、そんな甘い雰囲気は一切感じられない。
「…それよりも、今日は青いドレスなんだな。」
アリサの質問には答えずに、レイは別の話を始める。
聞こえなかったのだろうかとも思ったが、
もしかしたら触れられたくない話題だったのかもしれないので、
そのままレイの話を続ける。
「はい。兄さまが買ってくださったドレスです。覚えてますか?」
「覚えてるよ。お前に似合うだろうと思って、仕立てたんだからな。
以前着たときよりも、似合ってる。奇麗だよ。」
妹のアリサでも思わずうっとりしそうな笑顔を向ける。
お世辞だとわかっているが、言われると嬉しいものだ。
「兄さまは褒めるのが上手ですね。」
「思ったことをそのまま言っただけだ。本心だよ。」
「あんまり恥ずかしい事言わないでください…。
それに、褒める相手は私ではなくて、婚約者の方でしょう?
きっと兄さまに会うためにおしゃれして来るはずだわ。
しっかり褒めてあげ…」
最後まで言葉が続かなかった。
その言葉はレイの胸の中に消えていってしまった。
向かいのソファーに座っていたレイはいつの間にか、アリサの目の前に居て、
アリサの頭を抱えるように抱きしめている。
「えっ…?あの、兄さま…。」
「………。」
突然の兄の奇行に戸惑うアリサを、レイは更に強く抱え込む。
せっかくノーラにセットしてもらった髪もこのままでは崩れてしまいそうだ。
「兄さま…っ!」
レイの胸を押し返すと、アリサはその拘束から解放された。
「……すまない。」
長い前髪が影になって、表情がわからない。
でも、レイが何かに心が乱れているのは確かだ。
「兄さま…。何か悩みがあるなら…。」
「大丈夫だ…。悪かったな。」
覇気のないその声はとても大丈夫そうではない。
「レイ。お客様がいらっしゃったわ…よ…?」
そこへ母が、客人の到着を知らせにやってきた。
アリサとレイの重い空気を感じ取っているようだ。
「何かあったの…?」
「いいえ、なんでもありませんよ。迎えにいきますか。」
レイは、母の横を通り過ぎて、玄関の方へと向かった。
その後ろ姿を母はじっと見ていたが、視線を部屋の中に居るアリサへと移す。
「レイと何かあったの?」
「…私にもわかりません。」
何かあったのかと聞かれても、アリサ自信よくわからない。
普通に会話をしていたはずだった。
なのに、なぜレイがあんな行動を取ったのか理解できない。
それがわかるのは、レイ、本人だけだ…。
「わかりませんが…。」
テーブルの上に置かれた飲みさしのティーカップを覗く。
アリサの髪はすこし乱れていた。
「兄さまは、何かに苦しんでいるような気がします……。」